徳川斉昭の復活 ―― 望遠鏡から後楽園の舟まで

あらまし

弘化2年(1845年)7月、徳川斉昭は阿部正弘に、持っている望遠鏡を貸してほしいと申し入れた。斉昭は前年5月、幕府に責められて隠居(家督を譲って退いた人)謹慎(外出や交際を禁じる罰)を命じられていた。謹慎は同年11月に解けたが、藩の政治に関わることは許されなかった。望遠鏡の借用は、閉じこめられた男が外に開いた最初の小さな窓だったと蘇峰は記す。

これをきっかけに手紙のやり取りが始まった。藩政の立て直しや国防を論じる長い手紙が絶え間なく阿部に届いた。外国を追い払う考えの本家は水戸だと蘇峰は定める。斉昭の側近とされた藤田東湖も、文政8年の打払令(外国船を追い返す命令)に1日でも早く戻したいと高橋多一郎への手紙に書いた。

だが考えはあっても備えはなかった。浦賀や房総にわずかな海岸の防備ができた程度だったと蘇峰は記す。斉昭は天保のころから海の防ぎについて何度も意見書を出したが、幕府は全く採らなかった。幕府はむしろ知らせない方針をとり、藤田東湖は雷が鳴ってから耳をふさぐようだと嘆いた。

もう一本の糸は、子の徳川慶喜であった。弘化4年(1847年)9月、慶喜は一橋家を継いだ。これは将軍徳川家慶が斉昭の気持ちをくんだ措置だと蘇峰は見る。家慶は一橋邸を何度も訪れ、謡えば慶喜が舞い、父子のようだった。嘉永元年5月2日、慶喜は初めて駒込邸の父を訪ねた。

嘉永2年3月13日、幕府は3人の後見(幼い当主を補佐する役)を解き、当主慶篤が自ら政治を行うことになった。あわせて斉昭が藩政に関わることの禁止も解けた。ただし賞罰や人事は当主や家老(藩の重臣)と相談せよと言われた。戸田銀次郎と藤田虎之介の再びの登用はあってはならないと念を押された。9月21日、家慶は小(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)川の水戸邸を訪れ、後楽園で自ら舟をこいだ。

しかし藩の政治は今も反対する人々の手にあった。13歳からその中で育った慶篤は父の言うことを認めない傾きを持った。斉昭は小石川邸へ足を向けなくなり、嘉永2年になっても父子は打ち解けなかった。この記事からは、望遠鏡の借用から将軍の親類としての立ち直りまでの道筋が分かる。その復活が政治には及ばなかったことも読み取れる。

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目次

弘化二年七月、一本の望遠鏡

弘化二年(1845年)七月。原文
用向きは、阿部の所蔵する望遠鏡を借りたい、というものである。原文原文

前年の五月、斉昭なりあきは幕府の譴責を受けて隠居謹慎を命じられていた。原文
四十五歳のときだ。原文
同年十一月に謹慎は解かれたが、藩政には一切関わることを許されなかった。原文
望遠鏡の借用は、その閉ざされた男が外に向けて開いた、最初の小さな窓だったと蘇峰は記す。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 194

而して彼の雄心は固より已む能はず、弘化二年七月、彼は閣老阿部正弘所藏の望遠鏡借用を申込、機緣として、彼と信書を往復するに至つた

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この機縁から、斉昭と阿部との間に書信の往復が始まる。原文
藩政改革について。原文
国防について。原文
長文の手紙が「殆んど間断なく」阿部に送られた、と蘇峰は伝えている。原文原文

水戸の純粋攘夷(外国を追い払うこと)

攘夷論の本家本元は水戸である。原文
蘇峰はそう定め、会沢正志斎の『新論』をその「福音書」「経典」と呼ぶ。原文原文

その『新論』を、嘉永二年(1849年)に奈良奉行(幕府の役人)川路聖謨かわじとしあきらが読んだ。原文
幕府の能吏である。原文
評は辛口だった。原文
人を死地に置いて必死の戦をさせる論であり、北条時宗が元の使いを斬った先例にならうつもりだろう、しかし今は大名を使う世で昔のようにはいかない、と。原文
それでも七日後の日記には「余程の人物なるべし」と書き、著者は誰かと知りたがった。原文
刺激されていたのだ、と蘇峰は読む。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 190

新論の意、先づ人を死地に置て、必死の場より、戰をなす積りに御座候。故に北條時宗が、元の使を斬たりし例による積りにて候。これ孫子より出たる論にて、おもしろきことには候得共、其時の大將は、誰にすべしと云、人選論は、素より前以出來申間敷義に有之。又當時大名を御遣ひなさるゝ世になりては、少もいにしへの風にはまいり不申候

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斉昭の懐刀と称された藤田東湖も、生一本の攘夷論者であった。原文
嘉永元年四月十七日付、竹隈の閑居から高橋多一郎たかはしたいちろうに送った手紙にこうある。原文
一日でも早く文政八年の打払令に戻したい、それが切実な願いだ、という意味である。原文原文

親密な同志への手紙に掛け引きはあるまい、と蘇峰は言う。原文
ペリー来航以前の水戸の君臣は、みな純粋な攘夷であり、その議論は「戦の一字」に尽きていた。原文
そして斉昭はこの意見をもって、幕府の当局者を刺激し続けた。原文原文

手ぶらの攘夷、秘密の幕府

だが思想はあっても準備はなかった。原文
浦賀や房総に少しばかりの海岸防禦ができた程度だった、と蘇峰は記す。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 191

併しながら攘夷論の思想、精神が、最初に出來上りたるだけにて、其の攘夷の準備なるものは、第一征夷大將軍府である幕府に於てさへも、一も是れなかつた

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嘉永元年三月、浦賀奉行浅野長祚あさのながよしが将軍の直命で浦賀に赴く。原文
携えたのは斉昭の『明君一斑抄』であった。原文
幕府の小監察安藤正誼が一巻を写し、序を添えて餞としたものである。原文
攘夷の本家である水戸でさえ準備がない。原文
ならば幕府も諸藩も、ただ攘夷と唱えて手を拱いたまま、貴重の歳月を空過した姿だった。原文原文

その責任は水戸側にはなかった、と蘇峰は言い切る。原文
斉昭は天保年間から海防について幾度も建白(意見書の提出)したが、幕府は一つも採用しなかった。原文原文

代わりに幕府がとったのが秘密政策である。原文
松平定信が林子平の『三国通覧』『海国兵談』を絶版にした例を、蘇峰は挙げる。原文
近くで英国が清を侵していても、そのことさえ一般には知らせまいとした。原文
藤田東湖は嘉永元年三月二十七日の手紙で嘆く。原文
「迅雷に耳をふさぎ候様にて、時勢浩嘆々々」。原文
雷が鳴ってから耳をふさぐようなもので、時勢は嘆かわしい、というのである。原文原文

蘇峰はここで勝海舟かつかいしゅうの言葉を長く引く。原文
西洋の書を講じ機器を作ることを禁じ、人民の耳目を塞いだ結果、外国船が薪水(たきぎと水)を乞うだけで禍心を疑い、測量すれば国体を辱めたと憤る。原文
敵を知らず、己を知らず。
「隠秘の害、其源を成す者」。原文
これを蘇峰は「実に至論」と評した。原文原文

駒込に来た少年

斉昭復活の道筋には、もう一本の糸があった。原文
子の七郎麿、のちの一橋慶喜である。原文原文

弘化四年(1847年)九月、七郎麿は一橋家を継いだ。原文
将軍徳川家慶とくがわいえよしが斉昭の心を汲んだ措置であったことは疑いない、と蘇峰は見る。原文
家慶は七郎麿が亡き慶昌によく似ていると言い、大奥の評判もよかった。原文原文

嘉永元年三月十六日、家慶は一橋邸に臨んだ。原文
以後たびたび訪れ、将軍が謡えば慶喜が舞い、慶喜が謡えば将軍が舞った。原文
「宛も父子の如く」であった、と蘇峰は記す。原文原文

同年五月二日、慶喜は初めて駒込邸の父を訪ねた。原文
斉昭は二の間まで出迎えた。原文
奥殿では謡曲と仕舞があり、慶喜は将軍から賜った大和錦の舞衣を着けて舞った。原文
十二月十一日には兄五郎麿とともに五条の巻藁を射て、人々を驚かせた。原文
斉昭の喜びは「眉宇の間に溢れた」という。原文原文

同月四日、老中(幕府の重臣)松平乗全まつだいらのりやすが上使として、一条忠香ただかの女千代姫との婚約を慶喜に伝えた。原文
大奥老女(大奥の上級の女中)姉小路の周旋である。原文
その前月三日には、有栖川宮の息女線宮を将軍の養女として水戸藩主徳川慶篤とくがわよしあつに嫁がせる旨が、水戸の付家老に内示された。原文
少年一人が、実父と将軍とを結ぶ「平和の使者」の役目を果たしたのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 199

嘉永元年十一月三日、水戶の附家老中山備後守を、阿部伊勢守宅へ招致し、左の旨を傳へた。有栖川宮御息女線宮御事公方(将軍の別称)樣御養女被遊、水戶殿へ御緣組可被仰出思召に候

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嘉永二年三月十三日

こうして、その日が来た。原文
嘉永二年三月十三日、幕府は三連枝(将軍家や大名家の分家)、すなわち松平頼胤まつだいらよりたね松平頼誠まつだいらよりのぶ・松平頼縄の後見を解き、当主慶篤が親政することとなった。原文
同時に、斉昭に対する藩政不干与の命も解除された。原文
慶篤は十三歳で藩主となった。原文
その政は三連枝と、斉昭が姦党と呼ぶ重役たちの手にあった。原文
足掛け六年、闘志旺盛な男がそれを傍観していたのである。原文
二日後の三月十五日、斉昭は慶篤に手紙を書いた。原文
自分は「敗軍の将同様」だが、腕を三度折って良医となるという言葉もあるので、厚顔を顧みず申し送る、と。原文
藩の不和をなくし、士道に背く者以外は寛大に処置せよ、と説いた。原文
ただし解除には枷がついていた。原文
一藩の賞罰や人事は当主や家老と相談し、独断の果断は控えるように。原文
そして戸田銀次郎とだぎんじろうと藤田虎之介の再登用は「有之間敷」、すなわちあってはならない、と名指しで釘を刺した。原文
(当時のお金の単位)名がいかに重名を負い、危険人物視されていたかがわかる、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 195

其政は三連枝-松平讃岐守賴胤、松平大學頭賴誠、松平播磨守賴繩-の後見によりて、專ら齊昭を排斥したる所謂る藤田黨の天狗派に對する姦黨の手に歸し

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小金原の土煙

同じ三月十八日、将軍家慶が小金原で鹿狩を行った。原文
家康以来の家法を吉宗が復し、家慶がこれを再興したものである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 204

狩獵は、家康以來の家法とも、家傳とも云ふ可く家光の如きも、屢ば之を試み、中興の主、吉宗に至りて、大いに之を恢復した。而して將軍家慶亦た嘉永二年二月に於て、之を擧行した

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斉昭は古実に詳しい。原文
二月十四日付で調査書を阿部に送り、狩場周辺の百姓(農民)に酒を、供の小者に獲物を調理して賜るべし、と建白を重ねた。原文原文

阿部正弘あべまさひろは前夜から松戸宿に先行した。原文
夜中の九つ時に将軍が着き、七つ半に松龍寺で小休、徒歩と乗馬で狩場へ。原文
合図の大筒とともに鉄砲が一斉に鳴り、土煙が立ちこめて猪鹿の見分けもつかなかった。原文
「実に戦場の有様」と阿部は斉昭に書いている。原文
将軍は自ら兎二匹を突き留め、着ていた陣羽織を阿部に与えた。原文
阿部は竹槍で猪一頭と兎二頭を獲た。原文
斉昭にも将軍から獲物が下された。原文原文

斉昭はこの狩に頌詩を献じた。原文
結句は「願仗威霊攘四夷」。原文
威霊によりて四夷を攘わんことを願う。原文
斉昭の意は「何処迄も四夷を攘ふにあつた」と蘇峰は記す。原文
狩の土煙の中に、彼はやはり戦場を見ていたのかもしれない。原文

後楽園の紅葉

嘉永二年九月二十一日、家慶は小石川の水戸邸に臨んだ。原文
名目は故斉修夫人峰寿院ほうじゅいんの見舞である。原文
実は斉昭と会うためであったろう、と蘇峰は推す。原文原文

斉昭は七月十一日付で阿部に書いていた。原文
簾中は初めてのお目通りゆえ「一は楽しみ、一は心配、日々日を数へ奉待候」。原文
楽しみでもあり心配でもあり、日を数えて待っている、というのである。原文原文

家慶は早朝に城を出て、午前八時ごろ到着した。原文
一の間で斉昭以下に謁を賜い、正午過ぎに後楽園を逍遥する。原文
随行の侍女は百人を超え、園の紅葉が池の朱塗りの舟に映えた。原文
将軍は自ら棹を執って舟を動かした。原文
夜には涵徳亭に燭をともして酒宴となる。原文
斉昭は自筆の菊花の屏風を献じ、家慶は喜んで受けた。原文
弘化元年以来の鬱屈が「一時に開いた趣があつた」と蘇峰は記す。原文原文

だがその同じ屋敷で、藩政は依然として反対派の手にあった。原文
当主慶篤は十三歳からその者たちの中で育ち、父の言行を是としない傾向を持った。原文
水戸の禍は父の我儘が幕府の忌諱に触れた結果であり、恭順こそ藩を福いし父にも孝である。原文
斉昭は小石川邸へ足を向けなくなり、東湖が諫書を書いたのは弘化四年の冬だが、嘉永二年になっても父子は融和しなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第12章 NDL コマ 208

而して豫て利かぬ氣の齊昭は、之を苦々敷事に思ひ、愈よ父子疎隔を來たし、小石川邸へも往來せず、その爲めに藤田東湖の六三-六七〕如きは、憂慮の餘、齊昭の反省を希うてゐる。〔參照藤田の諫書は、弘化四年の冬であつたが、嘉永二年に至りても、父子の關係、今以て融和せず

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四年をかけて斉昭が取り戻したものは何だったのか。原文
望遠鏡から始まり、少年の舞と、狩の獲物と、舟を漕ぐ将軍を経て、彼は家慶の親類として復活した。原文
けれども打払いは手ぶらのままであり、戸田と藤田は禁じられ、屛風を献じた屋敷の当主はその父を敬遠していた。原文
戻ってきたのは斉昭という人であって、斉昭の政ではなかった、とも読める。
紅葉の下で棹を握る将軍と、それを見つめる隠居。原文
その一日の明るさが、かえってその後の暗さを予感させるのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 15・16・17・18・19・21・22・23・24・25・27・29・30・31・32・33・34・36・37・38・39・40・41・42・47・48・49・51・54・58・61・62・63・65・66・67・68・69・70・71
日付・人名本文の日付 23 件・人名 16 件を、『維新史料綱要』782 項目と突き合わせました。
あらまし27 文を本文の段落と照合しました。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物一條忠香勝海舟峰寿院川路聖謨徳川家慶徳川慶喜徳川慶篤徳川斉昭戸田銀次郎松平乗全松平頼胤松平頼誠浅野長祚阿部正弘高橋多一郎事件水戸藩内訌の処分(弘化4年)1849嘉永
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