日本史– category –
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幕末・維新
筋書の作者は浅慮でなかった ―― 安政五年六月、間部詮勝と酒井忠義の上洛決定
安政五年(1858年)六月十二日。 -
幕末・維新
主上の寛典思召 ―― 安政六年二月、四老臣の落飾を止めようとした叡慮と所司代の拒絶
安政六年(1859年)二月二十一日。関東へ掛け合うべし、という趣きの文書である。 -
幕末・維新
井伊側の色目鏡 ―― 安政五年十一月、水府事情探聞書と魔手が水戸に及ぶまで
安政五年(1858年)十一月。一綴りの風聞書が、井伊直弼の側に置かれていた。表題は「水府事情探聞書」。 -
幕末・維新
虚実に拘らず ―― 安政五年七月二十八日、井伊直弼の駒込邸監守
江戸城の新部屋前溜。京都への特使に決まっていた間部詮勝が、一通の書付を差し出した。「列坐無之」と元本は書く。ほかに同席する者はいなかった。 -
幕末・維新
阿部正弘の辞表 ―― 安政元年四月、頭痛と眩暈の届書
安政元年(1854年)四月十日。老中首座の阿部正弘は、登城しなかった。同列で海防掛でもある牧野忠雅あてに、短い届書を出す。頭が痛み目がまわって難儀だ、押して出ようとしても登城できない、という断りである。用の多い折に何度も… -
幕末・維新
幕を取れ、とペリーは言った ―― 嘉永七年二月十日、横浜応接所の一日
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。外からは中が見えない。 -
幕末・維新
養君発表の六月朔日 ―― 安政五年、名を伏せた幕府と川に阻まれた京都の返書
安政五年(1858年)六月朔日。江戸城に例のとおり登城した御三家(尾張は断り)、御両卿、溜詰の面々が居残りを命じられた。 -
幕末・維新
文久三年二月の京都 ―― 諸大名召集と攘夷の演達
文久三年(1863年)二月十六日、朝六半時(午前七時)。政事総裁職の松平慶永が門を出た。初めての参内である。 -
幕末・維新
プチャーチンの長崎入港 ―― 穏当な使節と四十日後の露国旗
嘉永六年(1853年)七月十七日。長崎の洋上、遥かに白帆五艘。三ヶ所の番兵が早速に注進した。奉行方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場… -
幕末・維新
勅諚回達の二つの案文 ―― 安政六年六月、徳川斉昭が書いて出さなかった手紙
謹慎中の徳川斉昭が、二通の案文を家臣の前に置いた。そこに側用人の久木直次郎と、奥右筆頭取の原田八兵衛が加わった、と蘇峰は記す。 -
明治
「多謝々々」とパークスは言った ―― 明治二年二月二十八日、三条畷の刺客と攘夷論者の豹変
明治二年(1869年)二月二十八日、京都。この日、英仏蘭三国の公使が天皇に拝謁することになっていた。 -
幕末・維新
引き込む、と小栗は書いた ―― 文久元年七月、対馬から帰った小栗忠順の五通の手紙
手紙の用件は一つ、「今日ふい引込の儀」であった。
