あらまし
前の勘定奉行(幕府の財政をあずかる役)だった小栗忠順は、上州権田村の東善寺で暮らしていました。慶応4年(1868年)4月1日、高崎、安中、小幡の3藩の兵およそ800人が、この寺に迫ります。求めたのは、42歳の旧幕臣との面会。
小栗は反逆の気持ちはないと述べ、大砲1門と小銃20丁を渡しました。寺の周りには陣屋も砲台も無く、3藩の武士は引き揚げます。翌2日、小栗は養子の又一に家来3名を付け、高崎の役所へ出頭させています。蜷川はこれを人質のような策と見て、その心情を悲しいと書き添えました。
3藩が持っていた命令書は、陣屋と砲台を構えた謀反は明白だとするものでした。手に余れば討ち取れ、という指示も付いています。蜷川によれば、まともな調べは行われず、前もって流したうわさを口実にしただけです。命令に従った者を後から縛って斬ったのは度を越した違法行為だ、と蜷川は述べます。
引き揚げのあと、監軍(軍を監督する役)の豊永らが3藩を討つと脅したと蜷川は伝えています。4月3日、寺を出て同村亀沢の農家で休む小栗を、村の名主の佐藤藤七が追いました。戻って他意のないことを伝えれば村と又一のためになる、という言づてです。蜷川はこれを、小栗を呼び戻して殺すための手順と読んでいます。小栗は寺へ帰ると答え、蜷川はそこに村民を救う最後の決意を見ました。
その夜、小栗は母の国子と妻の道子を諭し、村から去らせます。身重の道子は籠に隠れて農民に背負われ、会津で6月14日に女児を産んだと蜷川は記します。5日、3藩の兵およそ1000人が寺を囲み、小栗を捕らえました。6日早朝、烏川の河原で家来3人が先に斬られ、続いて小栗の首が落とされます。一刀では落ちず、2度目の刀を要したと蜷川は書いています。
首は青竹の先に刺されて道ばたに立てられ、館林の岩倉具定のもとへ送られました。翌7日、高崎に捕らえられていた又一と家来3名も斬られます。父子2人と家来6人。のちに大音竜太郎が見舞いの金25両を村へ届けて供養を頼み、蜷川はこの変わり身を非道の告白と解しています。名誉回復の働きかけは実らず、昭和2年(1927年)10月10日、蜷川は地元の人々と墓前に若い杉2本を植えました。
兵が寺に迫ってから8人が斬られ、のちに墓前へ杉が植えられるまでを、蜷川新の告発からたどれます。
慶應四年四月一日、東善寺
慶應四年(1868年)四月一日。原文
上州権田村、榛名山麓の東善寺。原文
高崎、安中、小幡の三藩の兵、およそ八百人が山腹の寺に迫った。原文
彼らが求めたのは、寺に暮らす一人の旧幕臣との面談だった。原文
小栗上野介忠順。原文
前の勘定(財政係)奉行(幕府の役人)。原文
四十二歳。原文原文
自分たちは家臣の家臣にすぎない、という挨拶である。原文
蜷川はこれを「武士として當然の禮儀」と見る。原文
一方で、小栗のほうも静かだった。原文
反逆の意はないと弁じ、江戸から携えてきた大砲一門と小銃二十挺を三藩の士に引き渡した。原文原文
寺の周りを調べても、陣屋はなかった。原文
砲台も築かれていなかった。原文
三藩の士は「事態明白」として引き揚げた。原文
翌二日、小栗は養嗣子の又一に従臣三名を付け、高崎の官軍(新政府側の軍)出張所へ出頭させた。原文
又一は二十一歳。原文
私心のないことを示すための出頭であった。原文
蜷川はこれを「一種の人質政策」と呼び、「其の情や悲し」と書き添えている。原文原文
「逆謀判然」
三藩が携えていた布令は、東山道(内陸を通る街道筋の古い区分)総督府から出ていた。原文
小栗が権田村に「陣屋等嚴重に相構へ、加之砲臺を築き、不容易企有之趣き」、そして「逆謀判然」だという。原文
村に陣屋を構え、そのうえ砲台を築いて、容易ならぬ企てをしている、謀反は明白だ、という文面である。原文
末尾には「萬一手に餘り候得ば」「一擧誅戮可致事」とあった。原文
手に余るときは本陣に届け、先鋒の諸隊で一挙に討ち取れ、という指示である。原文原文
蜷川はこの文面の二つの語に食いついている。原文
「深く探索」と「逆謀判然」。原文
だが調査といえるものは行われておらず、「若干の小人輩」が様子を探ったにすぎないと蜷川は見る。原文
布令の根拠は、前もって仕向けた暴徒の流言をそのまま口実にしたものだ、というのが蜷川の断じ方だ。原文
だからこそ「全然事實を無視したる嘘言」と、言葉を選ばない。原文原文
ここで思い返されるのは、布令に書かれた要件である。原文
四月一日の小栗は、武器を引き渡し、養子を差し出した。原文
手に余るどころか、命令に従った人物だった。原文
それを後日縛って斬ったのは「越權の不法行爲」だと蜷川は言う。原文
布令の文面を書いた側が、その文面を自ら破ったことになる、とも読める。原文
亀沢の農家で
高崎藩士らが引き揚げたあと、空気は変わった。原文
監軍(軍を監督する役)の豊永らは三藩の処置に不満で、「官軍は三藩を討伐す可し」と威嚇したと蜷川は伝える。原文
小栗を殺さなかったことを咎めたのである。原文
物情は穏やかでなかった。原文原文
四月三日、小栗は従者の勧めで寺を出た。原文
一里(距離の単位でおよそ4キロ)ほど離れた同村亀沢、農家大井秋次郎の家に立ち寄り、しばらく休んだ。原文
そこへ権田村の名主(村の代表者)佐藤藤七が追ってきた。原文
官軍の命だという。原文
「御歸りの上、他意なき事を官軍へ申し聞き被爲候はゞ、一村の爲め、且は又一殿の御爲め、之れに若くもの無之」。原文
お帰りになって他意のないことを官軍に伝えてくだされば、村のためにも又一殿のためにも、それに勝るものはない、という趣旨である。原文
立ち退けば村民一同が難儀し、高崎にいる又一の命にも関わる、と名主は言った。原文原文
蜷川はこれを「官軍方の放てる奇略」と見る。原文
三藩を脅し、村の農民を脅し、寺を去った小栗を呼び戻す。原文
最初からの目的どおりに殺すための手順だった、というのが蜷川の読みである。原文原文
小栗の答えは短い。原文
「我れ素より他意あるにあらず、寺院に歸りて、官軍に他意なきことを申し述べん」。原文
もとより他意はない、寺へ戻って官軍に申し述べよう、と。原文
蜷川はここに「最後の決意」を見る。原文
自らの身を犠牲にして村民を救う決心である。原文
豪胆な小栗が同じ村の民家に隠れ続けるような「卑怯の事」をするはずがない、と蜷川は言い切る。原文原文
その夜、小栗は母の国子と妻の道子を諭し、村から去らせた。原文
道子は初めて身重の身であった。原文
従者十六人が付いた。原文
道子は草刈籠の中に身を潜め、頭に藁をかぶせられ、村の農民に背負われて逃れたと蜷川は伝聞として記している。原文
越後を経て会津に至り、六月十四日に一女を産んだ。原文
四月三日の別れから二か月十余日。原文原文
四月六日早朝、烏川の河原
五日、高崎、安中、吉井の三藩の兵およそ一千人が東善寺を包囲し、突入した。原文
「一言半句をも云ふところなく」、小栗を捕縛したと蜷川は記す。原文
小栗は抵抗しなかった。原文
神色自若であったと世に伝わる、とも書く。原文原文
六日早朝。原文
烏川のほとりの河原。原文
寺から数町離れた、隣村の地内の寂しい場所である。原文
小栗と家来三人がここに引き出された。原文
何の申し渡しもなかった。
監軍が問ったのは一言だけである。原文
「何事か言ひ遺す事はなきか」。原文原文
小栗は「何事もなし」と答え、ただ一つ付け加えた。原文
母と妻はすでに逃がしてある、婦女子には寛典を望む、と。原文
先に家来三人が小栗の面前で斬られた。原文
一人が「殘念なり」と口走ると、小栗は叱って、未練を見せるなと諭した。原文原文
そして小栗の首が斬られた。原文
一刀では落ちなかった。原文
二刀を要したと蜷川は書く。原文
下手人の「心は怖ぢ其の腕鈍く」して、と。原文
村民は戦慄し、祟りを恐れて官軍に訴えたという。原文原文
首は青竹の先に刺され、路傍に立てられた。原文
傍らの立札には「右之者奉對朝廷、企大逆候條明白ニ付」とあった。原文
この者は朝廷に対して大逆を企てたことが明白なので、天誅を加えた、という宣告である。原文
首はさらに館林の総督岩倉具定のもとへ送られ、首実検に供された。原文原文
翌七日、高崎。原文
牢に入れられていた又一が、従者三名とともに斬られた。原文
斬ったのは高崎藩の一足軽だったと蜷川は記す。原文
父子二人と家来六人。原文
蜷川はこれを「罪三族に及ぶ」式の古い非道が明治元年四月に現れた、と書く。原文原文
二十五両
事後、一通の文書が総督府に提出された。原文
策士と呼ばれた近江の浪人、大音龍太郎の「罪状申渡シノ届書」である。原文
小栗が会津や小笠原と申し合わせて碓氷の険を拒もうとした、百姓(農民)一揆に乗じて民家を焼き民を殺した、鉄砲数十挺を土中に隠していた──。原文
そして「卽時上野父子並家來六人打捨申候」。原文
ただちに父子と家来六人を斬り捨てた、と。原文
蜷川はこの文書を「虛僞的の文書」「月並の作品」と切り捨てる。原文
罪跡を覆うために、こうした書き物が作られるのだ、と。原文原文
だが蜷川がより強く指さすのは、その後の行動である。原文
四月十五日、同じ大音が権田村に現れた。原文
「弔慰金」二十五両(当時のお金の単位)を携え、「總督府の命令也」と称して名主に手渡し、小栗の供養を頼んで去った。原文
昨日は反逆者として天誅を布告し、今日は霊を慰めて墓を建てさせる。原文
蜷川はこの変わり身を「餘りに權變あり、餘りに威信なき處置」と呼び、非道を悔いて世に自白したものだと解する。原文
そう読むこともできるだろう。原文(この日付は元本と『維新史料綱要』で異なる。元本は4月15、綱要は閏4月とする。)
斬殺の一か月前、明治元年三月に発せられた五箇条の御誓文である。原文
第三に「官民一途庶民に至る迄各其の志を遂げ」。原文
第四に「天地の公道に基くべし」。原文
取り調べなしに六名の民を殺すことは、この二条を「蹂躙せるもの」ではないか、と問う。原文
「軍將の意思は卽ち法なり」という時代ではなかった、とも。原文原文
そして比較を置く。原文
徳川慶喜は鳥羽伏見で四日戦って死なず。原文
松平容保は砲百十余門、兵三千で三十日戦って死なず。原文
ただ一人、一寒村に引き退いた小栗だけが「反逆者」として斬られ、梟首された。原文
「六十年來拭はれず」と蜷川は書いている。原文原文
若き杉
権田村は、高崎の北西およそ八里、烏川を遡った山中にある。原文
東善寺の境内の左奥に、小栗父子の墓が並ぶ。原文
墓石は、大音の二十五両を元に、地方の名工二人が競って作ったものである。原文
その一段下に、家来六人の墓がある。原文
大井磯十郎、荒川祐蔵、渡辺多三郎、塚本真彦、沓掛藤十郎、多田金之助。原文
ただし、そこに葬られているのは胴体だけだという。原文
首の行方については、忠節な百姓が館林の寺から掘り出して観音山に埋めたという噂のほか、館林の法輪寺、茂林寺と、伝聞が幾筋も残るだけだと蜷川は記す。原文
名誉回復の動きもあった。原文
福地源一郎や島田三郎が井上馨に働きかけ、大隈重信夫人も内々に人を立てた。原文
いずれも成らなかった。原文
薩摩と長州の勢力がなお阻んだ、というのが蜷川の見方である。原文
養嗣子の小栗貞雄は運動を好まず、皇后から御内帑金二百円を賜ったことをもって、「旣に小栗上野介の罪名は償はれたり」と受け止めた。原文
昭和二年(1927年)十月十日。原文
蜷川は地元の人々とともに、墓前に二本の若い杉を植えた。原文
「若き杉よ、永遠に上野介の英名と共に榮えよ」。原文
大音の届書は、一度書けば済んだ。原文
六十年後に杉を植えた男が争っていたのは、あの筆のほうだったのではないだろうか。原文
杉は今、どれほどの高さになっているのか。原文原文
| 元本 | 蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1876405 |
| 日付・人名 | 本文の日付 8 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 5 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻8』は、まだ項目を作っていないため突き合わせていません。 |
本記事は『維新前後の政争と小栗上野の死』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。
