史料
維新史料綱要 巻1
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幕末・維新
阿部正弘の辞表 ―― 安政元年四月、頭痛と眩暈の届書
安政元年(1854年)四月十日。老中首座の阿部正弘は、登城しなかった。同列で海防掛でもある牧野忠雅あてに、短い届書を出す。頭が痛み目がまわって難儀だ、押して出ようとしても登城できない、という断りである。用の多い折に何度も… -
幕末・維新
幕を取れ、とペリーは言った ―― 嘉永七年二月十日、横浜応接所の一日
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。外からは中が見えない。 -
幕末・維新
プチャーチンの長崎入港 ―― 穏当な使節と四十日後の露国旗
嘉永六年(1853年)七月十七日。長崎の洋上、遥かに白帆五艘。三ヶ所の番兵が早速に注進した。奉行方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場… -
幕末・維新
引き込む、と小栗は書いた ―― 文久元年七月、対馬から帰った小栗忠順の五通の手紙
手紙の用件は一つ、「今日ふい引込の儀」であった。 -
幕末・維新
間部詮勝の欺瞞策 ―― 安政五年十月、小御所の書付と「うそばかり」
小御所の下段。同席は武家伝奏の広橋光成と万里小路正房。引き取ったのは夜五つ時、午後八時であった。 -
幕末・維新
将軍の息のあるうちに ―― 安政五年七月五日、井伊直弼の尾水越処分
井伊直弼はいつもの刻限に登城し、この日の退出は夜九半時、午前一時に及んだ。理由は、将軍徳川家定の脚気が悪化したことであった。「公方樣御脚氣之御症にて、御勝不被遊」——将軍の脚気は重く、すぐれない、というのである。その夜、… -
幕末・維新
大雨の西御役所 ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨とロシア使節の初談判
長崎は朝から終日の大雨だった。午前九時、ロシアの使節が西御役所に姿を見せる。使節との問答は、午後四時まで続いた。川路はその夜の手記に、開口一番の問いを書き残している。「魯西亞は、虎狼之國と世に申候。然るや、又は信義の國な… -
幕末・維新
焼船は借りない ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨の露艦往訪と返翰交付
議題は二日後のことである。前日十四日、長崎西御役所でロシア使節を饗応した。料理のあと長崎奉行らが着座し、「通辯之もの大はたらき」、つまり通訳が大いに働いて、午後四時過ぎに散会した。帰る時も船からは音楽が鳴り、三本の橋には… -
幕末・維新
五年も十年もぶらかす ―― 嘉永六年六月、駒込邸で徳川斉昭に告げられた幕府の本音
徳川斉昭は、甲冑をつけた八郎麻呂が杉馬場で馬に乗るのを見物していた。七つ半、午後五時頃である。知らせは馬場まで届いた。同時に、老中阿部正弘からの状箱も届いた。自分が出向く代わりに二人を差し出す、という内密の書付である。「… -
幕末・維新
春風の宰相 ―― 阿部正弘と、嘉永五年十一月の予報
嘉永五年(1852年)十一月二日。江戸の薩摩藩邸で、島津斉彬が筆を執った。宛先は鹿児島にいる弟の島津久光。 -
幕末・維新
淺薄なる罵詈 ―― 蜷川新が小栗の仏国借兵論を弁明する
幕府が仏国へ派遣した使節、池田筑後守が滞在していた年である。この年、仏国政府の側から一つの方策が幕府に持ち出された、と蜷川新は記す。長州を討つのに、仏国の海軍を使ってはどうか。 -
幕末・維新
島津斉彬の忍耐 ―― 高崎崩れと血染めの肌着
嘉永元年十二月十八日(1849年)。薩摩藩の財政を長年一手に握ってきた調所笑左衛門が、血を吐いて死んだ。
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