結城寅寿の十六年 ―― 水戸党争と徳川斉昭の失脚

あらまし

水戸に静かに暮らしていた藤田東湖は、12月5日付で高橋多一郎に長い手紙を送った。表題は『心のあと』で、遺言と同じ心得で預けると記した。その秋に同志の金井金右衛門が病死しており、自分も長くはないと思ったのだろう。宛先は高橋だが、実際に読ませたい相手は徳川斉昭であり、高橋から差し出させるための文章だった。

話は天保にさかのぼる。結城寅寿は天保4年、16歳で身のまわりに仕える役に呼び出された家柄の才人である。外では人に低くふるまい、内には駆け引きの工夫をたくわえていたと蘇峰は伝える。斉昭の信用は並ではなく、天保11年正月に23歳で小姓(主君の身近に仕える役)頭、同年9月に若年寄(老中の補佐役)となった。13年3月には藩政の中心へと進んだ。

寅寿は同志を役に薦め、不満をもつ古い家の家臣を引き寄せた。藤田・戸田の一派と表に出ない形で張り合った。やがて斉昭は重いとがめを受け、藤田東湖ら数人も罰されてとじこめられた。しかし寅寿だけは何もなかった。斉昭の子が13歳で家を継ぎ、藩政は寅寿の仲間の手に移った。

斉昭は12月に謹慎(外出や交際を禁じる罰)を解かれても政治に関われなかった。阿部正弘に16人の処罰を求めたが、すぐには動かなかった。弘化3年2月、水戸の一族が江戸に出て無罪を訴えたが逆に使われた。高橋は将軍徳川家慶の信用を集めていた大奥の女性に近づいた。これを聞いた斉昭は「ちり一本たり共遣し不申様致度」と諭した。

つまり、贈り物は一切するなという意味である。高橋は、親が病めば薬を飲ませぬ理はないと答えた。手紙の5つの条は、当主と親しく交わること、分家と離れないことから始まる。さらに中山信守ら古い家の心をつかむこと、幕府の政治に口を出さないことを挙げる。最後は人を怨まず責めず控えめであることだった。

東湖は水戸の争いの元を、学びの流れを党と名づけた点に見た。さらに正しい側と悪い側という分け方そのものを退け、役目や取り分を惜しんで策を立てるだけだと述べた。これも悪だと決めつければ子孫まで派が分かれ、長く害を残すと説いた。蘇峰は5つとも斉昭の弱い所に当たっていたと繰り返し記す。この記事を読むと、東湖が斉昭に何を勧め、何をいさめたのかが分かる。

この記事の本文から作った要約です。人名と日付は本文と照合しています。以下の本文は元本の文に沿って書き、各文は出典へたどれます。

目次

弘化四年十二月五日、竹隈の筆

藤田東湖は水戸の竹隈に閑居していた。原文原文

その年の秋、同志の金井金右衛門が病死している。原文原文

自分もそう長くはあるまい、と思ったのだろう。原文原文

十二月五日付で、高橋多一郎たかはしたいちろうに一通の長文を送った。原文
表題は「心のあと」。原文
冒頭にこう記す。原文
「人生元より朝露の如くに候へば」──人の命は朝の露のようなもの、万一のことがあれば胸のうちを吐き出すこともできず本意でない、だからここに書き付けて遺言同様の心得で貴兄に預ける、というのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 175

齊昭の水戶藩及び幕府に對する情態は、藤田東湖が、高橋多一郞に與へたる、『心のあと』なる一文に盡してゐる

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宛先は高橋だが、読ませたい相手は別にいた。原文
高橋から徳川斉昭とくがわなりあきに呈させるための文章である。原文
「云はゞ間接射撃である」と蘇峰は記す。原文原文

十六歳の小姓、二十三歳の若年寄

話は天保にさかのぼる。原文原文

結城寅寿ゆうきとらかず原文
天保四年、十六歳で小姓に召し出された門閥家の俊才である。原文
外には恭謙に人に下り、内には縦横の機略をたくわえた男だったと蘇峰は伝えている。原文
斉昭の信任は並大抵ではなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 182

或時惣太夫(戶村)、杉山邦之介にいへるは、東湖人材の名世に高けれど、おのれは左は思はず、たとへば、結城寅壽姦惡の業ありとも、東湖もまた樞要の地にありながら、君上の禍を救ひ得ることもせで、今となりて寅壽をば罪したりとて、東湖も又善を盡したりとは言ふべからず、といひしに、杉山、東湖にいたりて、戶村は姦黨たること疑ひなし、その故はかゝる論ありし、といへば、東湖それ故にこそ偏頗の事をないひそ、と常にいふなれ

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天保十一年正月、二十三歳で小姓頭(小姓をまとめる役)原文
同年九月には若年寄。原文
十二年四月に御勝手改正係。原文
天保十三年三月には大寄合頭上座に進み、御用達を命じられ、与力(奉行の下で働く役人)の侍を付けられた。原文
一躍、執政(藩の政治を取り仕切る重臣)である。原文原文

寅寿は同志の吉野英臣を用人(藩の事務役)に、横山忠兵衛と友部正介を小姓頭に薦めた。原文
一方で不平をかこつ旧家世臣を招き寄せる。原文
藤田・戸田の一派と隠然と対峙し、ほとんどこれを凌ぐ勢いだったという。原文原文

斉昭はもともと藤田派に擁立された人である。原文
それでいて、この時期はむしろ寅寿をより多く重用する傾きがあった、と蘇峰は見る。原文原文

斉昭の謹慎と藩政の転換

そこで斉昭は厳しい咎めを受けた。原文
藤田東湖はもちろん、戸田銀次郎とだぎんじろうも今井金右衛門も罪を得て禁錮された。原文
ところが結城寅寿一人は、何の咎めも受けなかった。原文
水戸の形勢は一変した。原文
斉昭の子鶴千代が十三歳で封を継いだ。原文
高松・守山・府中の三連枝(将軍家や大名家の分家)後見(幼い当主を補佐する役)を命じられた。原文
寅寿は世間への申し訳に執政を免じられて表勤となったが、藩政は彼の党与の手に帰した。原文
少年の慶篤よしあつも彼らの掌中にあった。原文
斉昭は同年十二月に謹慎を解かれた。原文
しかし藩政に関与することは許されない。原文
駒込の邸から、ただ傍観するほかなかった。原文
寅寿は黒幕として裏にあり、結託した興津蔵人が執政として表に立った。原文
谷田部運八、尾羽平蔵ら党与が要路を占めた。原文
同年十二月、斉昭は阿部正弘あべまさひろに書を送り、興津以下十六人の「奸党」──斉昭の目から見てのことだが──の処罰を請うた。原文
阿部はただちには動かなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 171

同年十二月、書を閣老阿部正弘に送りて、結城興津、其他十六人の奸黨-齊昭の目から見て-を黜罰せんことを請うたが

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賄賂と、賄賂を斥ける言葉

弘化三年二月、水戸の公族で長倉領主の松平申之介が江戸に登り、紀州邸に至って斉昭の冤を訴えた。原文
ところが、これが逆手に取られる。原文
藤田一派は教唆者、あるいは連類と見なされ、多くが水戸の仲町に禁錮された。原文
雪冤の運動がどのような手口で進められたかは、高橋自身が書き留めている。原文
高橋は奥医師(将軍家に仕える医師)の坂幽玄・玄益父子、伊東宗益、本康宗円、奥右筆(文書を書く役)の長野猪十郎と謀り、将軍徳川家慶とくがわいえよしの信寵を一身に集めていた上臈年寄の姉小路に近づいた。原文
姉小路は橋本中納言(朝廷の高い官位)実誠の娘で、水戸の老女(大奥の上級の女中)花の井の妹にあたる。原文
何より先に賄賂が立ったに相違ない、と蘇峰は書く。原文
そして高橋の筆記が生々しい。原文
斉昭はこれを聞いて諭したという。原文
「ちり一本たり共遣し不申様致度」──塵一本たりとも贈るな。原文
幕府の不明で冤罪を蒙ったものを賄賂で嘆願するのは苦々しい、代々若隠居(家督を譲って退いた人)を申し付けられようとも、我らの素願は天朝と幕府への忠節を励むことだ、と。原文
対して高橋は言う。原文
「父母有病無不下薬之理」──親が病めば薬を飲ませぬ理はない。原文
少しでも効く薬があるなら、どんなに粉飾してでも治療したい。原文
それが臣子の情でやむを得ぬ、と。原文
だから臣下として行うことは「一切御耳に不奉入候」、お耳に入れずにおきますので、苦々しくもお思いになりますまい──。原文
「此れが水戸君臣運動の本音である」と蘇峰は言い切る。原文
そしてこの運動、案外に効き目があったらしい、とも。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 173

幕の御不明にて寃罪蒙之儀、右を賄賂にて歎願抔申は、苦々敷事也。ちり一本たり共遣し不申樣致度、此上此通り眼もなき世の中にては、代々若隱居被仰付候共、我等の素願は、天朝公邊への忠節を勵申之故、對天地一毫も恥不申事故、我家あらん限りは、此心得たるべし

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「心のあと」五箇条

長男種徳には五百(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)が与えられ、中の寄合に入れられた。原文
これによって結城派は一大打撃を受けた。原文
その年の暮れに書かれたものが「心のあと」である。原文
条は五つある。原文
第一は、当主慶篤と親しく交わること。原文
高貴の家は住居も分かれ、付人も分かれるから、愛より敬が勝ってよそよそしくなりやすい。原文
そこへ小人や婦女が付け込んで離間する例は、古今に少なくないという。原文
近ごろ斉昭が小石川へ足を運ばないと聞くが、それは「国家の患無此上」、これ以上の災いはない、と説く。原文
第二は、三連枝と疎遠にならないこと。原文
第三は、中山信守なかやまのぶもりをはじめ旧家の心を攬ること。原文
ここで東湖は、水戸の争乱の起源を「学派にて党と名附候より」と診断する。原文
学派を党と名づけたところから醸されたのだ、というのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 176

ほのかに伺候へば、近來老公には、あまり小石川へ出御不被遊候由、如何樣の尊慮歟は難奉計候へ共、萬々一御遠々しき御模樣にも被爲在候而は、國家の患無此上、竊に恐懼痛心仕候

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「鄙夫のみ多き歟」

その第三条の議論が、この遺言状の芯だと思われる。原文原文

東湖は文政十二年に罪を得た榊原淡路守・赤林八郎左衛門、天保十年に罪を得た額田久兵衛・小山小四郎・伊藤主殿・岡崎次郎兵衛の名を並べる。原文
布衣以上の家々を委細に糺せば「十に八九は親類縁者(親類)」で気脈が通じている。原文
それどころか冤を訴えた武田彦九郎・吉成又右衛門を厳科に処せと申し立てる始末だ、と。原文原文

結城寅寿については、こう断ずる。原文原文

この「等」の主たる一人が東湖自身であることは、蘇峰も言い添えている。原文
斉昭が久木久敬に与えた書翰(手紙)にも、寅寿が「藤虎」──藤田東湖のこと──を藤井紋太夫同然だと四五度も言い立てたとある。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 179

そは齊昭が、其臣久木久敬に與へたる書翰中に、昨年冬秋(天保十四年?)の頃、用席にて、しては、申候は、『藤虎』は用心可致、我等(齊昭)を駒込へ押込申候て、自分執政に成り、自分の派を引立候、藤井同斷(紋太夫)の者のよし、四五度咄有之候得共、右樣の人とも不存候故、可然挨拶致居候へども、外にて承り候へば、二十四儀、我等を駒込へ押こめ、目上の人を却、我等申付候役人を退け、自分派に入かへ、舊家の人に無之候ては、重役に不罷成儀

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そして東湖は、正義と奸という分け方そのものを退けた。原文
有志の少年は憤激のあまり有司を一括して奸と呼ぶが、同じ家中に名目を付けるのは「かりそめにも不宜事」。原文
自分の目で見れば奸人というほどの者はさほどおらず、「先は孔子のいはゆる鄙夫のみ多き歟」──孔子の言う卑しい小人が多いだけではないか。原文
役儀や禄高を惜しむところから謀計をめぐらす、犬鼠が身を惜しんで人に食いつくのに等しい、憐れみ笑うべき心底だ、と。原文原文

これも奸、彼も奸と目せば、鄙夫の党類はますます増える。原文
当人だけでなく子々孫々まで派を分かち党を立て、「国家永世の大害」となる。原文原文

唐土は官を辞めれば散り散りになるが、我が国は先祖代々同じ土地に住み同じ君に仕え、嫁ぎ娶りして親族が同じ所に住む。原文
正姦の別を事々しく言い立てれば、その怨みは子孫に残って消えない──東湖は常にそう言っていたと蘇峰は伝えている。原文原文

適中しなかった薬

第四条は、幕府の政事に口出しするなという諫めである。原文原文

斉昭は閣老に文通し、医師の総髪のこと、邸中での大砲打ちのこと、朝鮮信使の応接地を対馬に易えることまで建白(意見書の提出)していた。原文
水野忠邦をあまり責めたから遠ざけられたのだ、阿部正弘は忠邦ほど残忍ではないが大量の君子とも聞かぬ、と。原文原文

第五条。原文
「君をも御怨み不被遊、人をも御尤め不被遊御謙遜を御守被遊候はゞ」──主君を怨まず、人を咎めず、謙遜を守れ。原文
洗冤は自他の有志の尽力に任せて、自らは身を省みよ、と。原文原文

さらに東湖は旗本(将軍直属の武士)の気質にまで触れる。原文
「どこ迄も公邊の御威光をたて候て談じ候へば、ころりと能成」──幕府の威光を立てて話せばころりと態度が変わる、川路聖謨かわじとしあきら江川英龍えがわひでたつも皆同じだ、と。原文原文

甲辰の一件については自らも省みた。原文
斉昭夫人吉子の帰国願いは「幕府第一の規格に触候事」、幕府の根本の掟に触れることだった、あれは天下後世に至っても行き過ぎと言われよう、当時その事に当たった自分の罪は逃れようがない、と書く。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 186

一體甲辰(齊昭幕譴を得たる一件)之事、幕府御無理は不及申候へ共、今更相考候得ば、先年の御政事向も、種々手順相違仕り、本末緩急之次第、取失ひ候事も有之、是は皆役人どもの不行屆にて、實に奉恐入候儀、尤外の事は手順等相違仕候と申迄に候へ共、君夫人(齊昭夫人吉子)御下向御願の一條に至候而は、幕府第一の規格に觸候事にて、其節は五六年の御暇、押付に被仰出候を殘念に存じ、且は北地(蝦夷地經營請願の一件)御成就の御手順と申所に泥み、御願に取計候へ共、此一條のみは、天下後世に至り候而も、あまり成事と可奉存、愚臣の罪無所遁、扨々恐入候仕合に奉存候

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蘇峰はこの遺言状を読めば、幕府と水戸のいきさつも、水戸(当時のお金の単位)党の軋轢も、斉昭という人物の長短も、指紋を見るように分明だと評した。原文原文

そのうえで、こう続ける。
斉昭には十二分の自惚れとも言うべき自信があり、貴人には珍しいほどの僻みと邪推があった。原文
愚痴もあれば衒気もある。原文
徳をもって怨みに報いる襟度を欠くばかりか、怨みには倍の怨みで酬いる。原文
三十歳まで敬三郎公子として部屋住みで過ごしたことが、この性格を養ったのではあるまいか──と蘇峰は推している。原文原文

効きすぎた薬と、効かなかった薬

薬が効きすぎて斉昭を倒してしまった、と東湖は結城寅寿を評した。原文原文

その東湖が斉昭に処方した薬は、どれほど効いたのだろう。原文
慶篤と親しめ、三連枝を招け、旧家の心を攬れ、幕政に口を出すな、怨むな咎めるな。原文
五つとも「齊昭の病所に適中してゐる」と蘇峰は繰り返し書く。原文
適中していながら、飲まれなかったのではないか、とも読める。原文

戸村惣太夫は東湖に、党を立てて軋み合うのは国のためにならぬ、行く末は一つにせねばならぬと言われたという。原文
惣太夫は、東湖は自分を結城のもとに遣って説かせるつもりだったのだろうと察し、意に違えば刺し違えて死ぬまでと心に決めていた。原文
だが東湖は安政の地震で没する。原文
「朋党の弊を破らんとせしことも徒になりにたり」と惣太夫は語った。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第11章 NDL コマ 182

惣太夫思ふに、東湖おのれを結城のもとにやりて說しめんのことなるべし、若しその事にも及びて、結城意にたがひなんには、おのれもまた徒に歸るべくもあらず、さし違ひて死ぬる迄ゾト、心に思ひ居たるに、東湖も地震の災にかゝりて沒したれば、朋黨の弊を破らんとせしことも徒になりにたり、と惣太夫はいひし

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高橋多一郎はどうか。原文
奥医師と奥右筆と大奥の老女たちを結んで斉昭の冤を解いたその人が、のちに桜田門外で井伊直弼いいなおすけを斃す主謀者となる、と蘇峰は書き添えている。原文原文

塵一本も贈るなと言った主君と、親の病には薬を、と言って耳に入れずに動いた家臣。原文原文

その二つの言葉のあいだに、水戸の四十年が挟まっているのかもしれない。

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 15・16・17・18・19・21・22・23・24・25・27・29・30・31・32・33・34・36・37・38・39・40・41・42・47・48・49・51・54・58・61・62・63・65・66・67・68・69・70・71
日付・人名本文の日付 11 件・人名 11 件を、『維新史料綱要』603 項目と突き合わせました。
あらまし29 文を本文の段落と照合しました。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物中山信守井伊直弼川路聖謨徳川家慶徳川慶篤徳川斉昭戸田銀次郎江川英龍結城寅寿阿部正弘高橋多一郎1847天保
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