水戸藩の前の藩主・徳川斉昭は、弘化元年(1844年)5月に幕府からとがめを受けた。隠居(家督を譲って退いた人)させられ、藩の政治から遠ざけられていた。その斉昭は、嘉永2年(1849年)11月16日付で老中(幕府の重臣)の阿部正弘へ書状を送る。家老(藩の重臣)の興津蔵人ら3人の内々の不都合を数え上げた訴えである。
斉昭と阿部正弘の手紙のやり取りは弘化2年7月に始まった。藩の政治について訴え、阿部の同僚の老中たちにも持ち込んだ。嘉永2年3月には将軍から政治に関わることの禁止を解く命が出た。それでも藩の政治は反対の側が握ったままだった。解禁には、戸田・藤田らを再び用いてはならない条件も添えられていた。
蘇峰は、水戸の党派争いは前の代からの引き継ぎだとする。斉昭が作ったものではないが、大きくしたことは言い逃れできないと書く。相手を包み込む大きさに乏しく、細かな手立てはかえって人を遠ざけたとも記される。
斉昭は書状で、自分が受けた恩を並べた。役人たちが6年間その政治を作り替えたからだと言い広めている、と訴えた。年内の処分を求めて急がせたが、幕府は応じなかった。藩の中に新たな騒ぎが起きることを心配したからだという。斉昭は、罪を受けた身では家臣を動かせないと反論した。
老中たちはこの訴えに嘉永4年3月まで返事をしなかった。その間に両(当時のお金の単位)派の対立は一層激しくなったと『徳川慶喜公伝』は伝える。やがて幕閣(幕府の上層部)は動き、興津蔵人と内藤藤一郎を家の政治に関わらない役へ移させた。嘉永5年うるう2月19日には、戸田銀次郎と藤田虎之介の謹慎(外出や交際を禁じる罰)も解かれた。11月13日に斉昭は10年ぶりの登城(江戸城に出仕すること)を命じられ、弘化元年5月の処分は元へ戻ったとされる。
この記事からは、隠居させられた斉昭が老中への手紙を重ねて家臣の排除を求めた道筋が分かる。処分がやがて元へ戻るまでの経緯と、蘇峰の見方も読み取れる。
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一通の書状が、水戸藩の下屋敷から老中の阿部正弘のもとへ届く。原文原文
嘉永二年(1849年)十一月十六日付。原文
表題は「奥津蔵人、内藤藤一郎、今村喜左衛門之事に付承及候廉々」。原文原文
嘉永二年十一月十六日附の書翰(手紙)には、奥津藏人、內藤藤一郞、今村喜左衞門之事に付承及候廉々と題して、彼等の內事に就き、それぞれ不都合の事實を摘擧してゐる
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く家老の興津蔵人、若年寄(老中の補佐役)の内藤藤一郎、側用人(主君のそば近くに仕え、老中との取り次ぎをする役)の今村喜左衛門――この三人について聞き及んだ件々、という意味である。原文
中身は、彼らの内々の不都合を一つ一つ数え上げたものだった。原文原文
差出人は徳川斉昭。原文
弘化元年(1844年)五月に幕府から咎めを受けて隠居し、藩政から遠ざけられていた前の水戸藩主である。原文原文
この書状について蘇峰は、事実の有無は別として「決して斉昭の大を爲す所以ではなかつた」と記す。原文
器を大きく見せる振る舞いではなかった、という評である。原文
藩政は依然として反対党の手に
斉昭が老中の阿部正弘と書簡(手紙)のやりとりを始めたのは、弘化二年七月からだった。原文
以後ほとんど途切れることなく、藩政について訴え続けた。原文
時には阿部の同僚の老中たちにも持ち込んだ。原文原文
齊昭は弘化二年七月閣老阿部正弘と、書信往復を開始して以來、殆んど間斷なく此事に就て、彼に訴へ、時としては彼の同僚にも訴へた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く嘉永二年三月、将軍から藩政干与の禁を解く命が下る。原文原文
それでも藩政は反対党の手中にあった。原文原文
理由を蘇峰は二つ挙げている。原文
第一に、現藩主の徳川慶篤が斉昭とはむしろ逆で、斉昭の反対党である現在の水戸藩当局者を信頼していたこと。原文
第二に、幕府の老中たちにとっても、現状を維持するほうが比較的安全であり、比較的穏当だと見えたこと。原文原文
そもそも斉昭の政治干与解禁は条件付きだった。原文
戸田・藤田といった水戸の天保改革の当事者たちを再び起用してはならない、という申し渡しが添えられていたのである。原文
斉昭に自由に腕を振るわせることは、将軍にも老中にも本意ではなかったと蘇峰は見る。原文原文
斉昭の度量の欠如
蘇峰は、水戸の党禍そのものは斉昭が作ったものではないと書く。原文
前代からの譲り物である、と。原文原文
だが、その譲り物を増大させたことについて、斉昭一人を責められないとしても、彼が助長したことは「到底辯解し去り難き事實」だとする。原文
親しく信頼していた藤田東湖さえ、それを裏書きしているではないか、と蘇峰は言い添える。原文原文
而して其の讓物をして、更らに增大せしめたるも、未だ齊昭一人の尤とも云ふ可らざるが。然も齊昭其人が之を助長せしめたることは、到底辯解し去り難き事實だ
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くしかし他人の旧悪を責めることが甚だ切であった。原文
わが子でもわが臣でも、一度自分の意見どおりにならなければ敵と見なす傾きがあった。原文
さらに反対者に対して、しばしば腹黒い策を巡らせた。原文原文
その策が、あまりに露骨だった。原文原文
濁ったものも併せて呑み込む雅量、敵を味方に変える度量――多芸・多能・多才・多力の主でありながら、それらは彼の持ち物のうちに乏しかった、と。原文
慣用の小細工はむしろ、近くない者をいっそう遠ざけ、遠い者をさらに遠ざけた。原文
こうして斉昭の在世中、水戸の党禍は悪い状態から最悪の状態へと進んだのだという。原文原文
厳しい筆致だが、才が多いことと人を容れることは別なのだと読むこともできるかもしれない。
斉昭の書簡と幕閣の対応
斉昭の書簡には、自分の身に降りた恩沢を数え上げる箇所がある。原文
慎みを許され、国中が安堵したことがまず挙げられている。原文
弘化三年の冬には、二、三の家来(戸田・今井・藤田)が許された。原文
嘉永二年三月には後見(幼い当主を補佐する役)御免、七月にも内意があり、九月には久しぶりに拝謁を許された。原文
そのうえで斉昭は書く。原文
役人たちの見込みは、六か年のあいだ自分たちが斉昭の政事をすっかり変えて取り計らったからこそ、斉昭が恩沢を蒙ったのだ、というものだ。原文
それを慶篤に日夜言い聞かせ、これからもいっそう斉昭の存意を拒み、六か年の取り計らいを貫くのが孝道だと心得ている、と。原文
そして「歳月如流、當年も殘り少く相成」――歳月は流れるようで今年も残り少ない、と続けた。原文
このまま年を越しては弊風がつのり、罪人も多くなるだろうから、何とぞ年内に御沙汰(通知・命令)を、と急かしたのである。原文
幕閣を煩わせてまで家臣を退けようとしたことが、後日いっそう党禍を大きくした所以だろう、と蘇峰は見る。原文原文
而して彼は『歲月如流、當年も殘り少く相成、此儘にて越年致候樣にては、弊風次第に相募り、次第に罪人も多く相成候半と奉存候間、何卒年內御沙汰に相成候樣』との言を申添へてゐる
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く幕府の躊躇と、毒殺への懸念
幕府はこの「除姦」の求めに応じることを躊躇した。原文
斉昭の言い分を通せば、藩中に新たな騒動を引き起こす恐れがある、と懸念したからだと蘇峰は記す。原文
それが全くの杞憂だったかどうかは、今にわかに断言しがたいところだ、とも書き添えている。原文
斉昭は手を換え品を換え、阿部正弘をはじめ老中たちにこの求めを持ち込んだ。原文
一、二人の異動なら自分の裁量で行ってよい、多人数なら気長に熟慮せよ――幕府のそういう回答に対し、斉昭はこう反論する。原文
無事に隠居した身なら父子で相談して家来一、二人を処置するのは容易だが、自分は罪を受けた身であり、役人たちは幕府の命を奉じて息子を輔佐しているから権威が強い。原文
斉昭の意に背くほうが幕府への首尾がよく、かえって息子の孝道にかなうと心得ている――そう訴えた。原文
食物への用心についても、斉昭は老中たちに理由を述べている。原文
臣下をここまで猜疑するのは、赤心を人の腹中に置く所以ではあるまい、と蘇峰は評する。原文
母である峰寿院――斉昭の養母で、亡兄徳川斉修の夫人――への伺いが疎遠になっていること、慶篤と会う機会が乏しいことも、斉昭は弁明した。原文
一、二の奸人が父子を離間しているうちは、対面しても表面だけで心が通わない。原文
奸人を取り除いて晴れやかになれば、孝慈の道も存分に行われるだろう、と。原文
当時の幕閣も斉昭を相手にして頗る困り入ったことだろう、と蘇峰は書く。原文
老中たちは嘉永二年十一月の内訴に対し、嘉永四年三月に至るまで何の沙汰もしなかった。原文
その間、両党の反目はさらに甚だしく、暗殺や毒害の疑いで親子・朋友の情を損なうことさえあったと『徳川慶喜公伝』は伝える。原文
斉昭は幾度も決断を促し、時には家事一切を断念するほかない、と激語するに至った。原文原文
彼は閣老等に答へて斯く云うてゐる。兼々致用心候食物之事、餘りに疑念には無之哉、如何程の奸人にても近來格別之特恩を蒙り、萬端首尾宜き愚老へ對し、如何之謀計可致樣も無之との趣、一と通り御尤には候へ共、實地之事情却て左樣には無之候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く幕閣の懐柔策と斉昭の勝利
幕閣はついに動く。原文
斉昭の絶え間ない要望に気根負けしたのか、言い分に理を認めたのか、あるいはこの際斉昭を懐柔し歓心をつないでおくことが徳川将軍家のために必要と考えたのか。原文
蘇峰はこの三つの可能性を並べる。原文
幕閣は、中山備後守が不快につき興津能登守へ申し談じた、と斉昭に告げたうえで、こう書く。原文
上屋敷に奸物がいると仰せられるが、「多人數之儀は兼て申上置候通、容易難取計」。原文
大勢を一度にというのは以前申し上げたとおり簡単には扱えない、二人の後任の人選さえ行き届けば追々改まるだろう、という意味である。原文
そして釘を刺す。原文
今後は老中たちに軽々しく相談せず、万事を慶篤と家老たちと相談のうえ処置されるように、と。原文
これで打ち切りとし、以後は幕府の手を借りて水戸の内政を改革することがないよう、あらかじめ釘を打ったのだろうと蘇峰は見る。原文
老中から水戸家老の興津能登守へ渡された書付(文書)は、興津蔵人・内藤藤一郎を家政に関わらない役へ転じさせ、後任を人選し、斉昭とも相談のうえ申し付けるよう慶篤へ伝えよ、というものであった。原文
ただし公式の達しではなく噂に及ぶまでのこと、全く水戸の裁量で早々に取り計らえ、とも添えられていた。原文
命令ではなく諭示である。原文
それでも斉昭にとっては一大勝利と言わねばならない、と蘇峰は記す。原文原文
幕閣も齊昭の殆んど間斷なき要望には、氣根負けした乎、若しくは齊昭の申分を、若干有理と考へた乎、或は此際齊昭を懷柔し、其の驩心を繫ぎ置くことが、德川將軍家の爲めにも必要と考へた乎
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く嘉永五年十一月十三日、足掛け十年の登城
これでは内藤の家格が引き立つことになり先例に齟齬する、と斉昭は論じたが、すでに評決済みだった。原文
一人の進退があるたびに父子で議論となり、自ずと和気を失うのが痛心だ、というのである。原文
流れが変わるのは嘉永五年正月。原文
江戸家老の太田丹波守が水戸へ下って半年詰めを命じられ、代わって岡田新太郎が上府した。原文
前者は斉昭派ではなく、後者は斉昭派だと蘇峰は記す。原文
太田の下向が発表されただけで、家中が文武に引き立つ様子が聞こえた、と斉昭は書いている。原文
大番頭(江戸城の警備隊の長)に転じて定府となった内藤も、二月末には水戸へ下された。原文
閏二月十九日、弘化元年五月に斉昭と同時に罪を受けた戸田銀次郎と藤田虎之介の慎みが解かれる。原文
ただし再用してはならぬとの沙汰があったため、なお閑散の日を送った。原文
父子和熟のうえではなく、斉昭が高圧的に押し通したのだろうと蘇峰は見る。原文
閏二月十三日、母の吉子が小石(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)川邸を訪れた際、慶篤は衷情を訴えた。原文
父の意に従えば幕府の都合が悪く、幕府と家老の言に従えば父の意に背く。原文
もはや登城もせず隠居を願い出るほかないだろう、と。原文
そして十一月十三日、阿部正弘が家老の中山備後守を召し、斉昭登城の命を伝える。原文
天保十四年五月十八日の登城以来、足掛け十年だった。原文
斉昭の書状の追伸にはこうある。原文
殿中で少し話した黒船の件、交易や土地を願い出るか、蘭夷の奸謀に乗じて願い出るか、姑息な料簡で済ませては後の患いは疑いない、天下のためにと。原文
十二月十五日、有栖川宮の王女線宮が小石川邸に輿入れする。原文
弘化元年五月の幕譴は、嘉永五年十二月に至って全く元通りに恢復されたと蘇峰は書く。原文原文
左候ては藤一郞家格引立候譯にて、先例に齟齬、且表向手限とは乍申、定府申付候ては、內實奉對公邊、不遠慮之廉等、品々致論判候へ共。最早礫川にて評決、備後等退出之由故、無據承り置、跡人撰之儀肝要之旨申諭候へ共、其後何等相談も無之候間、五月初旬、家老へ承候處、水府え往復最中之由
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 109・110・111・112・113・115・116・117・118・122・124・125・126・127・128・129・130・131・132・133・134・137・138・139・142・143・144・146・147・148・149・150・151・154・156・157・158・159・160・164 |
| 日付・人名 | 本文の日付 22 件・人名 9 件を、『維新史料綱要』721 項目と突き合わせました。 |
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本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
