年代
嘉永
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幕末・維新
幕を取れ、とペリーは言った ―― 嘉永七年二月十日、横浜応接所の一日
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。外からは中が見えない。 -
幕末・維新
プチャーチンの長崎入港 ―― 穏当な使節と四十日後の露国旗
嘉永六年(1853年)七月十七日。長崎の洋上、遥かに白帆五艘。三ヶ所の番兵が早速に注進した。奉行方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場… -
幕末・維新
大雨の西御役所 ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨とロシア使節の初談判
長崎は朝から終日の大雨だった。午前九時、ロシアの使節が西御役所に姿を見せる。使節との問答は、午後四時まで続いた。川路はその夜の手記に、開口一番の問いを書き残している。「魯西亞は、虎狼之國と世に申候。然るや、又は信義の國な… -
幕末・維新
焼船は借りない ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨の露艦往訪と返翰交付
議題は二日後のことである。前日十四日、長崎西御役所でロシア使節を饗応した。料理のあと長崎奉行らが着座し、「通辯之もの大はたらき」、つまり通訳が大いに働いて、午後四時過ぎに散会した。帰る時も船からは音楽が鳴り、三本の橋には… -
幕末・維新
五年も十年もぶらかす ―― 嘉永六年六月、駒込邸で徳川斉昭に告げられた幕府の本音
徳川斉昭は、甲冑をつけた八郎麻呂が杉馬場で馬に乗るのを見物していた。七つ半、午後五時頃である。知らせは馬場まで届いた。同時に、老中阿部正弘からの状箱も届いた。自分が出向く代わりに二人を差し出す、という内密の書付である。「… -
幕末・維新
春風の宰相 ―― 阿部正弘と、嘉永五年十一月の予報
嘉永五年(1852年)十一月二日。江戸の薩摩藩邸で、島津斉彬が筆を執った。宛先は鹿児島にいる弟の島津久光。 -
幕末・維新
島津斉彬の忍耐 ―― 高崎崩れと血染めの肌着
嘉永元年十二月十八日(1849年)。薩摩藩の財政を長年一手に握ってきた調所笑左衛門が、血を吐いて死んだ。 -
幕末・維新
琉球という痛手 ―― 島津齊彬はいかにして薩摩を継いだか
江戸の島津齊彬の手もとに、薩摩から二通の報せが届いた。一通は島津將曹から島津石見に宛てたものである。琉球は平穏、案じることはない、という趣旨であった。もう一通は、島津豐後と末川近江から、同じ島津石見に宛てた内報である。そ… -
幕末・維新
徳川斉昭の復活 ―― 望遠鏡から後楽園の舟まで
弘化二年(1845年)七月。用向きは、阿部の所蔵する望遠鏡を借りたい、というものである。 -
幕末・維新
長崎の三か月 ―― 露使プチャーチンと幕府の先送り
検使の大井三郎助が沖へ出た。向かう先は、港内に繋がれたロシア船。告げるべきことは、一つだけだった。将軍徳川家慶の死である。 -
幕末・維新
下田に戻った条約 ―― アダムスの批准交換
伊豆下田の沖、神子元島の向こうに黒い船影が一つ。 -
幕末・維新
空谷の跫音 ―― 嘉永六年、諸大名の対米意見書と高島喜平の開国論
嘉永六年(1853年)十月。高島喜平。かつて四郎太夫秋帆と名乗り、西洋砲術を日本に伝えた人物である。
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