あらまし
アメリカの海軍中佐アダムスは、日本と結ばれた神奈川条約の写しを持ち帰る役目を負った人物です。蘇峰によれば、彼が船で江戸湾を出たのは1854年4月4日、安政元年のことでした。ホノルル、サンフランシスコ、パナマをへて7月12日にワシントンへ着きました。条約は大統領から元老院(議会の一院)にはかられ、全員一致で認められます。
アダムスは国として認めた証書を持って9月30日にニューヨークを出発。大西洋を渡り、イギリスから陸路を進んで1月1日に香港へ着きます。提督アボットの命でポーハタン号に乗り、下田へ向かいました。伊豆下田の沖に黒い船影が見えたのは未の中刻ごろで、船はまもなく港に入ります。下田奉行の伊沢政義と都筑駿河守は、役人と通訳を差し向けます。
両奉行は、とりあえず船が来たとだけ江戸へ報告しました。アダムスが見た下田は、様変わりしていました。留守のあいだの1854年12月23日、日本の海岸を大地震が襲います。下田の被害はとりわけ大きかったのです。それでも人々は嘆かずに片づけと建て直しに働いていた、と蘇峰はアメリカ側の記事を引いています。
壊れた商店の代わりに寺を直して市が開かれ、士官たちは品物を買い求めました。監視も尾行もなく、村々では歓迎されたとも記されます。証書の取りかわしに際し、日本側は2つの異議を出しました。1つは期限で、日本側は18か月が過ぎてからと考えていました。アメリカ側は18か月のうち早いほうがよいと強く主張します。
下田奉行は森山栄之助らを船へ送りますが、先方は英語の条約書しか出しません。証拠にならないとして、江戸へ日本語の条約書を急ぎ求めました。その書状の書き終わりは12月16日の午後9時。もう1つの異議は署名で、先方は将軍の署名を求めます。日本側は応接の役人の印で済ませたいと述べました。
結局は将軍と老中(幕府の重臣)がともに署名することになりました。取りかわしの合間、アダムスは旧知の役人たちの訪問を毎日のように受けています。2月21日、証書が正式に取りかわされ、17発の祝砲が鳴りました。翌2月22日、ワシントンの誕生日にあたるその日に、船は下田を去ります。
条約の調印から批准書が下田へ戻るまでの9か月と22日を、蘇峰が引くアメリカ側の記録からたどれます。
伊豆下田の沖、神子元島の向こうに黒い船影が一つ。原文原文
「異船一艘相見候旨」――外国船が一隻見えた、との注進が奉行(幕府の役人)所に届いたのが未の中刻ごろ。原文
それから間もない未の下刻ごろ、その船はまっすぐ港へ入ってきた。原文原文
下田奉行の伊澤美作守と都筑駿河守は、応接掛の与力(奉行の下で働く役人)を立ち会わせ、御普請役、御小人目付(監察役)、それに通詞(通訳)を差し向けた。原文
水先案内の者が告げるところでは、アメリカの蒸気船で、船号はポーハタン。原文原文
「先不取敢此段御屆申上候」――とりあえずこの旨をご報告いたします、と両(当時のお金の単位)奉行は江戸へ書き送った。原文
まだ何一つ分かっていない段階の、短い届け書である。原文原文
三か月と二十七日の旅
ポーハタン号に乗っていたのが、海軍中佐アダムスである。原文
蘇峰の記すところによれば、彼が神奈川条約の謄本を携えてサラトガ号で江戸湾を出たのは、一八五四年四月四日、すなわち安政元年のことだった。原文
五月一日にハワイのホノルルに着き、最初の便船でサンフランシスコへ向かい、パナマを経由して、七月十二日にワシントンへ到着している。原文
日本を出てから三か月と八日であった。原文
条約は大統領から元老院に諮られ、元老院は速やかに全会一致で批准した。原文
アダムスは批准書を携えて九月三十日にニューヨークを発ち、大西洋を渡り、イギリスを経て大陸路を取り、一八五五年一月一日に香港に達した。原文
提督(艦隊司令官)アボットは彼をポーハタン号に乗せ、ただちに下田へ向かうよう命じた。原文
条約調印から批准を経て再び日本に来着するまで、九か月と二十二日を要した、と蘇峰は数字を並べている。原文
下田奉行の届け書のほうでは、この経緯はこう縮まっている。原文
アダムスは三か月前にワシントンを発ち、イギリス国の蒸気船に便乗して唐国に至り、そこで今の船に乗り換え、十日前に香港を出て今日入津した、と。原文
乗組は三百余人であった。原文原文
五月一日、布哇ホノルヽに著した。ら最初の便船にて桑港に向ひ、巴奈馬を經由して、七月十二日華盛頓府に到
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く地震のあとの下田
アダムスが下田で見たのは、様変わりした土地だった。原文原文
彼の不在中、一八五四年十二月二十三日に日本の全海岸を大地震が襲っている。原文
江戸にも損害があったが、下田の被害はとりわけひどかった。原文原文
それでも、と蘇峰は米国側の記事を引く。原文
日本人は座して不幸を嘆かず、失望の色もなく、皆が男らしく仕事に励んでいた。原文
ポーハタン号が入港したときには、損害の取り除けや再建築で、誰もが忙しく働いていたという。原文原文
港の外形そのものは変わらなかった。原文
ただ、錨を下ろす海中の土砂がことごとく洗い流され、海底は岩石ばかりになっていた。原文
蒸気の力でようやく岩との衝突を避けえた、とある。原文原文
商店はどれも壊れて回復していない。原文
それでも寺院を繕って市場が開かれ、江戸をはじめ内地の町から美麗な什物が並べられた。原文
士官たちは市場に招かれただけでなく、買ってほしいと求められ、思い思いに好みの品を手に入れた。原文原文
監視のない散策
前回より、日本人はずっと親しくなっていた。原文原文
士官たちは何の差し障りもなく田舎を歩き、村を訪ね、行く先々で歓迎された。原文
探偵は廃止されたと見えて、監視する者も追跡する者もいなかった――と蘇峰は米国側の記述を伝えている。原文原文
下田の市民は、アメリカから貿易船が来ることを待ち望んでいるとアダムスに告げた。原文
条約締結の委員の一人でもある下田奉行は、もしアメリカが領事を選んで下田に住まわせてくれるなら、それは大いに嬉しいことだと、ひそかにアダムスに語ったという。原文原文
日本人は英語の書物を欲しがった。原文
とりわけ医書と、科学に関する書を。原文
士官たちは多くの貴重な書を与えた。原文原文
アダムスは承知した、と自ら語り、その際「聊か慚色ありと自から語つた」――いささか恥じ入る気持ちがあったと述べている。原文原文
期限異議と条約書交換
批准交換にあたって、日本側は二つの異議を出した。原文原文
蘇峰の引く米国側の記事では、これは約束を守るまいとして出たものではない。原文
文義上のこと、むしろ日本側が条約の字句を入念に解釈し、儀式に深い敬意を持っていたためだ、という。原文原文
第一の異議は期限。原文
日本側の条約文には「十八个月中」とあり、米国側のものには十八か月内とあった。原文
相違は日本の翻訳者の無学から来たものだ、と米国側は見た。原文
within の字義を説明したところ、日本側は機嫌よく異議を撤回した。原文原文
もっとも、その裏で日本側がどう動いたかは、下田奉行の内状に残る。原文
三月から十八か月を過ぎてから条約書を取り替えるつもりでいたところ、先方は十八か月の内で早いほうがよいと条約に書いてあると「手强く申居候」――強硬に主張してくる。原文
そこでロシア応接掛にも掛け合ったうえ、森山栄之助に支配組頭(組の長)と通詞を添えてアメリカ船へ遣わした。原文
ところがアメリカ側は、夏に日本から渡した和文の条約もオランダ文も持ってきておらず、英語のものだけを出す。原文
それでは証拠にならない。原文
六月中に林大学頭らから差し出しておいた条約書と附録の和文を、残らず送ってほしい――そう江戸へ急ぎ求めている。原文原文
書き終えの時刻まで記されている。原文
「十二月十六日戌下刻」、すなわち午後九時。原文原文
皇帝の親署
第二の異議は、署名だった。原文
米国政府に渡す条約書の日本文に、皇帝――将軍を意味する――の親署を求められたことに対し、日本側は言った。原文
皇帝は決してどんな文書にも署名しない、それをするのは老中(幕府の重臣)である、と。原文
日本に渡すために携えてきた条約書には、大統領と国務卿が署名している。原文
結局、皇帝と老中とがともに署名することになり、その通り実行された。原文
日本側の記録では、この筋は逆側から見えている。原文
附録の末文には誰に委任するも意のままとあるのだから、「御役人調印に而も可然哉」――役人の調印でよいのではないか。原文
そして「應接之面々調印に而相濟候樣いたし度候」――応接の役人の調印で済ませたい、と念を押している。原文
先方は将軍の署名を望み、こちらは応接掛の署名で済ませたい。原文
蘇峰はそう対比してみせる。原文原文
二月二十二日、ワシントンの誕生日
そして交換の日が来る。原文原文
二月二十一日、条約書が正式に交換されるや、ポーハタン号の船首に日本の国旗が掲げられ、十七発の祝砲が放たれた。原文原文
翌二月二十二日、ポーハタン号は下田を去った。原文
その日はワシントンの誕生日にあたる。原文
新しい、そして願わくは恒久であってほしい日本との友誼が、少なくともその期日においてワシントンの名と伴っている――米国側の記事はそう結ぶ。原文原文
蘇峰はこの梗概を並べたあと、こう評する。原文原文
旧知として来る
交換の合間、アダムスは陸に用のないとき、毎日のように副奉行や高官の訪問を受けた。原文原文
その会見は旧友の懇話のようだったという。原文
実際、そのうちの何人かは正しく旧知だった。原文
下田奉行伊澤美作守は条約締結の委員の一人であり、条約の翻訳を助けた通訳官森山栄之助も昇進して下田に来ていた。原文
他の締結委員たちも批准交換のために来ていたから、アダムスは他人の中にいる心地にならずに済んだ。原文原文
アダムスは、かつて大統領から贈られた蒸気機関の雛形を、日本人が自ら動かす術を学んでいるのを見た。原文
救命艇も操縦できた。原文
ただ電信機の作用だけは、まだ難しいと彼らは言った。原文原文
十二月九日に届いた最初の届け書は、船が見えた、というだけのものだった。原文
それから二か月余、期限の文字一つ、署名の一筆をめぐって書状が往復し、ワシントンの誕生日に一隻の船が去っていく。原文
歴史に永久に残るであろうと言われた名を託されて帰る使者と、和文の条約書を江戸から取り寄せようと戌の下刻に筆を走らせた奉行と。原文
同じ港の、同じ冬である。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223901 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 3 名のうち 3 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
