長崎の三か月 ―― 露使プチャーチンと幕府の先送り

あらまし

ロシア使節プチャーチンは、嘉永6年(1853年)7月17日に長崎へ入りました。江戸からの返事を待つうちに、検使の大井三郎助が沖のロシア船へ向かいます。伝えたのは、将軍徳川家慶が亡くなったという知らせ。蘇峰は、これを返答を先へ延ばすための口実と見ています。

蘇峰によれば、幕府の持病は物事の先送りにありました。長崎奉行の9月3日付の書面では、短艇の行動範囲がじりじり広がっていきます。止めると、浦賀へ回ると言い出す。奉行は、番所の内側に入らない、上陸も測量もしないという線で承知させました。

9月22日付の書面は、さらに切迫していました。上陸を許さなければ浦賀へ行く、と繰り返し言い立てられたのです。奉行は、国の禁令なので江戸に問い合わせねば許せないと答えます。16日に将軍の死を告げても、使節は老中の返事が来るまで出帆しないと言いました。蘇峰は、奉行の苦労は認めつつ、追い払うだけで手一杯だったと評しています。

ロシア側の記録では、家慶の死を聞かされたのは9月19日でした。プチャーチンは中佐ポシエットに、返事の遅さを問い詰めさせます。長崎は外国人をあしらうために置かれた場所ではないか、という言い分。喪が発せられたのは7月22日で、8月19日の会見では日本側も知っていたはず。3、4か月も待つくらいなら、話が通じないときはすぐ江戸で談判すると書き送りました。

江戸には、はっきりしたロシア向けの方針がありませんでした。8月3日、阿部正弘は国書は受け取り、返事はオランダのカピタンを通すと決めます。ところが8月5日にはこれを訂正し、返事を待つと言うなら滞船させよと改めました。蘇峰は、幕府の関心が長崎のロシア船より浦賀の米艦に向いていたと見ています。一方、仙台藩士大槻平次は強いロシアと結べという意見書を勘定奉行川路聖謨に出しました。

10月8日、幕府は川路聖謨を勘定奉行勝手掛とし、筒井政憲に大目付格を与えます。目付荒尾成允と儒者古賀謹一郎も加わりました。しかし長崎では10月17日に江戸へ回るという信号が上がり、23日に艦隊は去ります。長崎で空しく費やされた3か月。上海で英仏との開戦を知ったプチャーチンは、12月上旬、再び長崎へ向かいました。

返事を待つ3か月に何が起きたのかを、長崎奉行の書面とロシア側の記録の両方からたどれます。

目次

検使(検分に立ち会う役人)の大井三郎助おおいさぶろうすけが沖へ出た。原文
向かう先は、港内に繋がれたロシア船。原文
告げるべきことは、一つだけだった。
将軍徳川家慶とくがわいえよしの死である。原文原文

ロシア使節プチャーチンぷちゃーちんが長崎に入ったのは七月十七日。原文
それから一か月近く。原文
江戸からの返事は、まだ来ない。原文
そこへ運ばれたのが、将軍の喪だった。原文原文

この使いを、蘇峰は「將軍薨去を口實とし返答遷延」の一手と見ている。原文
将軍の死を理由にして、返答を先へ延ばした、というのである。原文
返事の代わりに、死を運んだ短艇。原文
本章の三か月は、この一場面に凝縮されているとも読める。原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 218

又た養生の爲め、短艇にて、附近を乘り廻さんことを請うたから、制限的に之を許したら、漸次其の範圍が廣くなりて、之を制すれば浦賀に向ふ可しと聲言すとある

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「幕府の痼疾は、遷延に在り」

「幕府の痼疾は、遷延に在り」と蘇峰は書く。原文
幕府の持病は、物事を先送りにすることにある、という意味である。原文
「何事も急には埓が明かぬ」、つまり何事もすぐには片がつかない。原文
その病状を映しているのが長崎奉行(幕府の役人)の上申(上に申し出ること)書であり、蘇峰は九月三日付と九月二十二日付の二通を引いている。原文
本船ははじめ高鉾島の近くに繋いでいたが、風波を恐れて港内への移動を求めた。原文
場所が狭いというので、本船は神崎の外、二艘は内側とされた。原文
稲佐崎と岩瀬道の台場(大砲を据えた砲台)は、代官(幕府の直轄地を治める役人)高木作右衛門の持ち場から両家の番方へ引き渡された。原文
問題は「バッテイラ」、つまり短艇だった。原文
本船まわりの用のためにと許すと、次は「運動養生」のためだといって範囲が広がる。原文
制止すると「浦賀表え相廻り候」と言う。原文
浦賀へ回る、という脅しである。原文
奉行は、両(当時のお金の単位)番所の内側へは入らない、沖は番船(見張りの船)の見える範囲まで、上陸と測量はしない、という線でようやく承服させた。原文
九月二十二日の上申書は、さらに切迫している。原文
「上陸差免候樣、左も無之ば、浦賀へ相參候趣、再々申立候」。原文
上陸を許してほしい、さもなくば浦賀へ行く、と繰り返し言い立てているというのだ。原文
奉行は「御國禁之儀故、伺之上ならでは難差免」と答えた。原文
国禁であるから、江戸に伺った上でなければ許せない、というのである。原文
そこで十六日、検使を送って将軍の死を告げた。原文
だが使節は「御老中(幕府の重臣)方より之御返答相分候迄は、退帆難仕」と言う。原文
老中からの返答がわかるまでは出帆できない、というのである。原文
今度は船の修理のために上陸させろという。原文
奉行は「猥に上陸仕候得ば、打拂候は勿論、或は切捨、搦取候共」と伝えた。原文
勝手に上陸すれば打ち払うのは当然、切り捨ても捕縛もありうる、と。原文
そして末尾に「時日相延候得ば、種々故障も出來仕、深心配仕候」とある。原文
日が延びれば、いろいろ差し障りが出て、深く心配している、というのだ。原文
蘇峰は「幕吏の常套、今更ながら笑止千萬である」と評し、ただし「其苦心は之を諒とせねばならぬ」とも添える。原文
奉行の姿は「飯上の蠅を追ふが如き」であり、「此れでは到底外人と折衝して、國家の大計を定むる抔とは夢にも思ひ及ぶ可きではあるまい」。原文
現場は追い払うだけで手一杯だった、というのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 219

就中上陸之儀は、最初渡來之砌より申立居、書簡御返答急速に相達不申候ては、長く滯船に罷在候義運動不宜、性命に拘り及難義候故、上陸差免候樣、左も無之ば、浦賀へ相參候趣、再々申立候に付

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「外人を欺かんが爲めに設けたる場所」

同じ場面を、ロシア側はどう見たか。原文
ロシアの記録では、家慶の死を告げられたのは九月十九日である。原文
プチャーチンは中佐ポシエットに詰問させた。原文
なぜ江戸から速やかに返事が来ないのか。原文原文

「長崎の地は、畢竟單に外人を欺かんが爲めに設けたる場所だ」。原文
日本の西の隅、首府とかけ離れ、中央との交渉は勢い緩慢になる。原文
外人が倦んで立ち去るのが貴国政府の本意だろう。原文原文

将軍の喪が発せられたのは七月二十二日。原文
江戸から長崎まで約三週間。原文
八月十九日の会見のとき、日本の官吏は当然知っていたはずだ。原文
今まで故意に秘していたのは何事か、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 222

江戶より長崎への道程は、約三週間なれば、八月十九日會見の際には、日本官吏は、當然此事を知る可きである

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冒頭で蘇峰が「拙譯」と断って引く再催促の書翰(手紙)も、同じ調子である。原文
「此節の如く、三四ヶ月も長崎に滯留し、御答を俟やふにては、徒らに數月を費すのみ」。原文
今回のように三、四か月も長崎にいて返事を待つのでは、無駄に数か月を費やすだけだ、という。原文
「事の通ぜざる時は卽時に江戶に至りて議談すべし」。原文
話が通じなければ、すぐ江戸へ行って談判する。原文
蘇峰はこれを「幕府の遷延に對して、鞭策を加へたる」ものと読む。原文原文

八月三日と八月五日

では、江戸はどうしていたのか。原文
「事實を云へば、當時の幕府は、確乎たる對露の政策を持たなかつた」と蘇峰は記す。原文
そこに書きつけられていたのは、「度々の異船、扨々心配仕候」という言葉である。原文
たびたびの異国船に、まことに心配している、というのだ。原文
続けて「御心付も御座候はゞ被仰下候樣奉願候」ともある。原文
八月三日、阿部正弘あべまさひろは三奉行・大小目付(監察役)・海防掛(海防担当役)に書付(文書)を渡した。原文
国書は受け取る。原文
返答については「和蘭(オランダ)甲比丹(オランダ商館長)を以可及通達候間、出帆致し候樣可申聞候」とした。原文
返事はオランダのカピタン(オランダ商館長)を通じて伝えるから、出帆するよう言い聞かせよ、というのである。原文
ところが八月五日、これを訂正した。原文
国書を見もしないうちに出帆を促す形になり「事實不穩候間」、つまりそれでは穏やかでない、という。原文
江戸の返事を聞きたいと言えば滞船させ、書簡(手紙)は至急江戸へ送れ、と改めた。原文
蘇峰はその背景を一言で言う。原文
幕府は「長崎に來つた露船よりも、浦賀に來つた米艦の方に氣を取られ」ていた。原文
浦賀を去ったばかりの米艦が、いま長崎に浮かぶ露船より心を悩ませていた、というのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 226

此度魯西亞より持來り候書翰の儀、文化度彼國使節船渡來の節申渡置候通、御國法に於て難請取筋には候得共、無餘儀申立之趣も有之に付前文の趣、能々申諭候上、書翰請受差越可申候

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猜疑と親露

対露の目は、二つに割れていた。原文
一方には「日本の恐露病」がある。原文
寛政から文化文政にかけての北方の騒擾は、「泰平の天地に熟睡酣眠したる日本國上下の夢魘」だったと蘇峰は書く。原文
安眠する日本にとっての悪夢、という意味だ。原文
文化年間のレザノットへの拒絶以来手を出さなかったのは、ボナパルテ以来の疲弊のためだろう。原文
今になって加勢を申し出るのは怪しい。原文
「其虛に乘じ掠奪可仕謀計には無御座哉」。原文
その隙に乗じて掠奪する計略ではないか、というのだ。原文
日米が戦えば露は日本に味方し、その信用に乗じて足場を占め、やがて全国を併呑する企みだった、と米側は書いている。原文
他方に、露と結んで米を制せという声もあった。原文
仙台藩士大槻平次おおつきへいじ、すなわち磐渓である。原文
九月二十日付で勘定(財政係)奉行川路聖謨かわじとしあきらに意見書を出した。原文
寛政五年から六十一年、文化元年のレザノットを経て三度の渡来。原文
「强大之魯西亞を與國と被成候上は」。原文
正面から追い払えという意見は、ほとんどなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 224

若し水師提督彼理が不幸にして平和的の談判に失敗し、日本人と武力的交鬪に及ぶに際せば、露人は其地に在りて、仲裁を事とせず、日本側の味方として、日本を援助し、而して若し成功せば、其の信用の刹那に乘じ、靜かに日本帝國の或る部分に立脚地を占め、適當の時に其の全國を併呑するの素地を作るの企謀であつた

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十月八日、江戸

露使はしだいに「强硬の本色」を見せた。原文
老中か同格の者が来なければ、自ら江戸へ行く、と声言する。原文
要求は通商だけではない。原文
北方の境界設定である。原文
これは幕府も「到底囘避し難き事情」だったと蘇峰は見る。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 227

そは露國使節の要求は、通商のみでなく、北方に於ける境堺設定でありて、此には幕府も到底囘避し難き事情あるが爲めであつた

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十月八日、幕府は老中代理を決めた。原文
川路聖謨は勘定奉行(財政を扱う役)勝手掛を命じられ、筒井政憲つついまさのりは大目付(上級監察役)格を授けられた。原文
目付荒尾成允あらおなりまさ、儒者(儒学の学者)古賀謹一郎が加わる。原文
両人には重臣としての資格と待遇を与えた。原文原文

三か月

長崎では、決定より先に船が動いていた。原文
十月四日、上海へ出ていた運送船が、書翰と新聞と糧食を積んで戻る。原文
欧州における露と英仏の関係が切迫していることを、これで知ったのだろう、と蘇峰は推す。原文
十月十五日、北へ航していたブリーネルが長崎に戻る。原文
十月十七日、江戸へ回航するとの信号が上がった。原文
十九日、露艦が旗を巻く。原文
長崎奉行は四人の大官を江戸から送ると告げたが、到着日は示せなかった。原文
二十三日、露艦は長崎を去った。原文
七月十七日の入港から数えて、「三個月を長崎にて空過したのだ」。原文
艦隊は呉淞沖に錨を下ろし、十一月十二日、上海に着いた。原文
そこでプチャーチンは、露暦十二月五日、英仏との平和が破れたと聞いた。原文
開戦は翌年三月である。原文
五十二砲のフレガット(帆走の軍艦でフリゲートともいう)も二十砲のコルベット(小型の軍艦)も英艦より優勢だが、吃水(船が水に沈む深さ)が深く上海へは入れない。原文
十二月上旬、艦隊は再び長崎へ向かった。原文
今度はプチャーチンが期日を切る。原文
三日以内に高官が来なければ江戸へ行く、と。原文
長崎奉行は「斯る內輪の事情を知らざれば」、ただ露使をなだめた、と蘇峰は記す。原文
幕府は時間を稼ぐことでしか向き合えなかった。原文
プチャーチンは時間に追われていた。原文
片方は将軍の死を口実にし、片方は欧州の戦火を数えていた。原文
「外人を欺かんが爲めに設けたる場所」というポシエットの言葉と、「痼疾は遷延に在り」という蘇峰の診断は、同じ港を指しているのかもしれない。原文
待たせていたのは、はたして誰だったのか。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第14章 NDL コマ 223

十九日に至り、露艦が其旗を捲くと見て、長崎奉行は、人を露艦に派し、江戶より露使へ面會の爲め、特に四人の大官を派する旨を告げた。されど其の到著日を示さず

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665
日付・人名本文に日付が 19 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 9 名のうち 8 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物プチャーチン大井三郎助大槻平次川路聖謨徳川家慶筒井政憲荒尾成允阿部正弘事件プチャーチンの長崎来航年1853嘉永