あらまし
水戸家の徳川斉昭は、将軍の怒りがやや解けて謹慎(外出などを控える罰)を許されていました。弘化3年(1846年)8月1日の夜のこと。斉昭は大奥(将軍の妻子が住む場所)の老女・姉小路へ長い手紙を書きます。末尾には、眠れぬ夜の乱筆という一句。藩の政治には手を出せず、駒込の屋敷に留め置かれたままの身でした。
斉昭は1年前、自分の書いた『明君一斑抄』を老中・阿部正弘の手で将軍徳川家慶に見せていました。それだけでは足りぬと考え、今度は大奥を通す道を選びます。斉昭と家慶はともに有栖川家から夫人を迎えた義理の兄弟でした。姉小路は水戸家の老女・花の井と姉妹であり、この線が将軍への連絡路だったと蘇峰は記しています。
手紙は季節の挨拶から本題へ移ります。斉昭は、外国船の来航は30年前から見通していたが、立場がなく言えなかったと訴えました。家督を継いでからは上にも老中にも申し立てたが取り上げられず、隠居に至ったと書きます。いまは夜も眠れず、毎朝頭が痛み、熱も出るとも。琉球と蝦夷を奪われれば日本は南北から挟まれ、江戸は米が1か月止まるだけで飢えると説きました。
防ぐ手はただ一つ。相手より手厚い船を造って外国船を追い払うことだと、10年前から阿部正弘に言い続けていると述べます。世界の図を見れば日本は小さな島にすぎない、とも書きました。さらに、天下は天下の人々のものであって徳川だけのものではない、という一節を置きます。蘇峰は、この考えが当時の見識ある人々の間で育ちつつあったと指摘しています。
追伸では、琉球で交易が始まれば信仰まで入り込むと警告しました。蘇峰はここに、薩摩が陰で外国と取引しているという斉昭の疑いを読み取ります。弘化3年6月6日、島津斉彬は琉球への外国船の件の処置を幕府から任され帰国の途にありました。両者は書物を貸し借りする間柄でしたが、たがいに信用しきってはいなかったと蘇峰は見ています。
返事は8月6日の夕方付。姉小路は手紙のまま一つ一つ将軍に伝え、家慶はもっともだと受け止め、追い払いの調べを命じました。斉昭はすぐに意見書を重ねて送り、外国の巨大な船とこちらの小さな漁船を数字で比べて見せます。しかし2年が過ぎました。嘉永2年に阿部正弘が意見を求めても反対が多く、斉昭の案が実行されることはありませんでした。
大奥を通して将軍へ届いた1通に何が書かれていたのかを、蘇峰の評とともにたどれます。
弘化三年(1846年)八月朔日。原文
夜が更けても灯が消えない。
宛名は大奥の老女(大奥の上級の女中)、姉小路。原文
末尾に一句が添えられていた。原文
眠れぬ夜に書いた乱れた筆跡、という意味である。原文原文
大奥経由の将軍への働きかけ
このとき斉昭は、将軍の怒りがやや解けて謹慎(外出や交際を禁じる罰)を許されていた。原文
だが藩政に手を出すことはできない。原文
駒込の邸に留め置かれたままである。原文原文
彼はすでに一年前、自著『明君一斑抄』を老中(幕府の重臣)阿部正弘の手を通して、将軍徳川家慶の目に入れていた。原文
表からの道である。
それだけでは足りぬと思ったのだろう。
今度は裏から、大奥を使う。原文原文
斉昭と徳川家慶は、ともに有栖川家から夫人を迎えている。原文
義理の兄弟にあたる。原文
大奥で最も力を持つ姉小路は、水戸家の老女花の井と姉妹である。原文
この線を通じて、斉昭はつねに将軍との連絡路を開いていた、と蘇峰は記す。原文原文
斉昭は「中々一通りや二通りにて、其の思ひ立ちたることを差し措く漢ではなかつた」。原文
思い立ったことを一度や二度の失敗であきらめる男ではなかった、と蘇峰は言う。原文原文
異国船脅威と造船の主張
手紙は季節の挨拶から入る。原文
残暑のなか、両(当時のお金の単位)御所様、つまり将軍家慶と世子(跡継ぎ)家定の機嫌がよいのを喜ぶ。原文
そこから一気に本題へ移る。原文原文
一昨年、弘化元年以来の異国船の噂は、奥向きでも耳にしているだろう。原文
自分は「三十年前より、必ケ様相成可申と心付居候」。原文
三十年前から、必ずこうなると気づいていた、というのである。原文
だが部屋住みの身で申し上げる手立てがなかった。原文
思いがけず水戸家を継いでからは、恐れをかえりみず上へも老中へも申し上げてきた。原文
それでも取り上げられず、ついに隠居(家督を譲って退いた人)にまで至った。原文原文
もうあきらめてもよいのだが、と斉昭は書く。原文
以来、十ヶ年前から誰も気づかぬうちに心を用いてきた。原文
いまは夜も眠れず、毎朝頭痛がし、ときには熱まで出る。原文原文
危機の図は具体的である。原文
琉球と蝦夷を奪われ、異人が出城を構えれば、日本は南北から挟み打ちにされる。原文
江戸は「数百万人の人」の町である。原文
一月でも廻米が滞れば餓死者が多く出て、江戸中が騒ぎ立つ。原文
そこへ異国人が攻め入れば、何の手もなく奪われる。原文
「只今より鏡に写し見候如く」。原文
いまから鏡に映して見るように明らかだ、と斉昭は言い切る。原文原文
防ぐ手は一つ。
相手より一段手厚い船を造り、異船を打ち払うこと。原文
万里の海を渡ってくる船は必ずどこかに支障がある。原文
こちらの勝ちは必定だという。原文
これも十ヶ年以前から阿部正弘に言い続けているのに、いまだ何の沙汰(通知・命令)もない。原文原文
天下は天下の人の天下
斉昭は姉小路に世界の図を見るよう促す。原文
「おまへ抔にては、日本は大国と被存候半が、只一つの小島にて」。原文
あなたは日本を大国と思っているだろうが、ただ一つの小島にすぎない。原文
異人はすでに世界の大国を手に入れ、残るのは日本だけ。原文原文
来年、弘化四年には琉球が危ない。原文
次いで蝦夷、松前。原文
評議が長引くうちに琉球も蝦夷も取られ、そのうえ日本丸ごと奪われる。原文原文
ここで斉昭は本丸の火事を譬えに出す。原文
本丸が焼けるとは、その宵まで誰も夢にも思わなかった。原文
火が出て目が覚めても消せるものではなく、一時に灰になる。原文
建物はあとで普請すれば元に戻る。原文
だが「一度此天下を夷狄へ御渡し被遊候へば、二度御取かへしは決て不相成」。原文
一度天下を異人に渡せば、二度と取り返せない。原文原文
そして、驚くべき一節が続く。原文
「天下は天下の人の天下にて、徳川計にかぎり候天下には無之」。原文
天下は天下の人々のものであって、徳川だけの天下ではない、というのである。原文
神功皇后は女帝でありながら海を渡って朝鮮を取った。原文
徳川の天下が国内に居ながら異人を防げず奪われては、天照皇大神宮にも東照宮にも申し訳が立たない。原文原文
日本德川の天下にて、萬々一御奪れ被遊候ては、天照皇大神宮御初へ御對し被遊候て、不被爲濟は勿論、左までには及不申候とも、此太平の天下を御亂し被遊候ては、東照宮へ御對し被遊候て、如何にも御申譯は無之候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く蘇峰はこの一文を重く見る。原文
言論は「随分激切」であり、これでなくては将軍の心を動かせぬと斉昭は考えたのだろう、と。原文
同時に、天下は天下人の天下という考えは、当時一般とはいえぬにしても識者の間に次第に発酵しつつあった思想であった、と蘇峰は指摘する。原文
斉昭は徳川宗家のためにこう言ったのだが、他人は必ずしもそうではない。原文
徳川将軍を奉ずることを生まれつきの約束のように思ってきた人心が、やや動揺し始めていたことは、この一文を一読しても察せられる、と蘇峰は記す。原文原文
御思案のうちに花や散るらん
斉昭はさらに東照宮の逸話を引く。原文
徳川家康が一夕、左の手に「是」の字を握る夢を見た。原文
占者は「是」を分ければ「日の下の人」、天下を握る吉瑞だと申し上げた。原文
しかし五代までは握っていても、六代目からは手が開き始め、十代を過ぎれば残らず開く道理ゆえ、ここが大切だとも申し上げたという。原文
和漢ともに二三百年太平が続くと武備を怠り、そこを他国に攻め込まれる。原文
だからいまのうちに、もう一度「是」の字を握り始めてほしい、と斉昭は言う。原文原文
引いたのは一首の歌である。原文
のどかだ、のどかだと春の歌を詠んでいるうちに、花は散ってしまうだろう、という意味である。原文
小田原評議で日を送れば間に合わない。原文
船ができあがる前に琉球も蝦夷も取られる。原文原文
神を頼むな、とも書いた。
弘安四年に異国が攻めてきた話を家康が語ったときも、神風は頼みにならぬとの考えであった。原文
神々が守ってくれるにしても、人の力で守らねばならない。原文
追伸ではもう一つの切言がある。原文
琉球で交易が始まれば琉球人は天主教(カトリックのキリスト教)になり、やがて大隅・薩摩も内々に信じるようになる。原文原文
蘇峰はここに斉昭の眼を読む。原文
斉昭は薩摩が陰で琉球において外国と貿易を始めたものと疑っていた。原文
弘化三年六月六日、世子島津斉彬は琉球の外国来航と貿易要求に関する処置を幕府から委任され帰国の途についていた。原文
斉昭の文はこの一件と対照すれば意味が自ずと明らかだ、と蘇峰は言う。原文
斉昭と斉彬は蘭書を貸し借りし、贈り物を交わし、表面は親密であった。原文
だが斉昭は薩摩に腹に一物あるかのように猜疑の眼を向け、斉彬も内心では斉昭の人物をあまり信用していなかった。原文
斉昭は当時の大名に比類まれな聡明、多知多学多才であったが、「其の術策を好み、表裏ある人物であつた」。原文
幕府が彼を油断ならぬ危険人物と見たのも、幕府だけを責めるわけにはいくまい、と蘇峰は評している。原文原文
八月六日夕刻の返書
返事は早かった。原文
姉小路の書は八月六日夕刻の日付である。原文原文
自分は風聞を承るだけでただ恐れ入るばかりだが、御為との事を私一人でしまい込むのも済まぬと考えた。原文
今日は将軍が静かにしておられたので、手紙のまま一つ一つ申し上げた、というのである。原文
将軍家慶は「御尤にも思召候」と承知した。原文
もっともだと思われた、との返事である。原文原文
今朝は表へも書付(文書)をご覧になった。原文
これは斉昭が阿部正弘に与えた書のことだろう、と蘇峰は推す。原文
そして「早くうちはらひの御事御調も仰付られ」た。原文
早々に打払いの件を調べるよう命じられた、というのである。原文
奥へ申し上げた事は表には沙汰せず、ただ気づいた点は追々沙汰する、とも伝えられた。原文
姉小路自身は「打払と申事は、私共にはいつかう心得申さぬ御事」と正直に書く。原文
打払いとは何のことか自分にはまったく分からない、というのである。原文原文
蘇峰はこう見る。原文
将軍家慶は斉昭の両書をことごとく一覧し、打払いの調査を命じた。原文
打払いとは、天保十三年の薪水(たきぎと水)給与の緩和令を廃し、文政八年の打払令(外国船を追い返す命令)を復旧することだろう。原文
将軍は私情では斉昭を好まなかったにせよ、万一の場合には頼もしい親類と認めたに違いない、と。原文原文
精力過絶の斉昭は返書を得るや、直ちにまた一書を送った。原文
今度は建白(意見書の提出)書である。原文
目的は単純な打払いではない、と蘇峰は強調する。原文
むしろ大艦巨砲、とくに大艦の製造であった。原文
斉昭は数字で迫る。原文
異人の船は「五六十間余、大筒も百梃、中小の筒も二三千余」。原文
五六十間を超える船体に大砲百門、中小の砲二三千を備え、黒鉄で張った船もある。原文
対するこちらは「わづか七八間に足り不申漁船」。原文
わずか七八間にも足りない漁船を借り、大砲を一発撃てば船が壊れる。原文
これでは必勝はおぼつかない。原文
まず国内の備えを厚くし、そのうえで打払いを命じるのが順序だ、と斉昭は説いた。原文原文
夷狄の船は、五六十間餘、大筒も百梃、中小の筒も二三千餘も備へ、黑鐵にて張り候船も御座候處へ、わづか七八間に足り不申漁船等借用ひ、大筒打候得ば、直に船やぶれ候位の危き船へ乘候ては、迚も必勝相成兼候譯に御座候へば
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く握り初めるべき「是」の字
その後の経過を、蘇峰は『徳川慶喜公伝』を引いて記す。原文
将軍は書取の趣を尤もと思し、打払いの調査の上で書面が出来たら示すと答えた。原文
だが何事もなく二年が過ぎた。原文
嘉永二年、阿部正弘は諸有司に、文政度の打払令を復旧すべきか意見を求めた。原文
対馬、南部、津軽、松前に黒船の通航が多く、アメリカ船が長崎に、イギリス船が浦賀・下田に来て測量にも及んだ、という前置きである。原文
ところが復旧を非とする者が多く、斉昭の意見は「遂に実行の機会を得ざりき」。原文
ついに実行される機会はなかったのである。原文
蘇峰は斉昭について非難も多いと認めつつ、その「不息不休の力行」は、泰平の世に人形のように並ぶ大名たちには夢にも及ばぬものであった、と記す。原文
眠れぬ夜の乱筆は、確かに将軍の机まで届いた。原文
将軍は「尤」と言った。原文
それでも船は造られず、花は思案のうちに散った。原文
家康が夢に握った「是」の字を、いま誰の手が握り直すのか。原文
それとも、この手紙を書いた男自身が、すでにその字に指をかけていたのだろうか。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 4 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 5 名のうち 4 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
