箱根を開けて閉じる ―― 蜷川新が伝える小栗上野介の作戦と、その後の六十年

ヴェルニー公園の小栗忠順の胸像
横須賀・ヴェルニー公園の小栗忠順胸像(2026年9月撮影)

あらまし

小栗忠順(小栗豊後守、のちの上野介)の作戦は、徳川慶喜のもとで用いられませんでした。慶応4年(1868年)、上野の彰義隊との戦が済んだあとのことです。官軍(新政府方の軍)の参謀や軍監である大村益次郎と江藤新平らが集まります。そこで大村が、幕府があの策を実行していたら自分たちの命はなかっただろうと漏らしました。蜷川新は、この場面を菴原鉚次郎・木村知治の共著『土方伯』から引いています。

大村が伝えた作戦は、こういうものでした。有栖川宮が大総督となった関東征伐の兵は3万人を超えまい、という読み。箱根の関所を開いて官軍をすべて江戸に入れ、そのうえで箱根を閉ざす。東山道の方面は木曽路をふさぎ、閉じ込めてから戦えば皆殺しも容易だというのです。軍艦は半分で駿河を押さえ、残る半分で摂海を攻めます。

そうなれば関東の大名はたいてい徳川家の味方につく、と小栗は見ました。関西にも譜代大名や親藩があり、外様にも幕府に心を寄せる者がいる。徳川家を立て直す道も立つ、というのが小栗の論でした。その日の評議はこれで決まり、一同は城を下がります。ところが夜が明けると議はひっくり返り、小栗の側についた者は役目まで解かれました。

敵ながら気の毒だったと大村は語ったと、蜷川は記します。これに江藤が口をはさみました。決まったその場で持ち場を割り振り、すぐ発表しなければならない。ぼんやり帰って寝てしまうようでは実行できるはずがない、という言い分。聞いた者は皆その素早さに感心したと、蜷川は書いています。

蜷川は江藤の言い分をそのままには受け取りません。小栗は将軍ではなく、政治を思い通りに運べる立場ではなかった、というのです。三宅は、才略と度胸で小栗に並ぶ者はなく、勝海舟がいくらか当たる程度だと評しました。4月25日、板橋で捕らえられた近藤勇は斬られ、首は京都へ送られてさらされます。罪のなかった小栗父子と家来6人をさらした側について、蜷川は、国民の下す評価に時効はないと書きます。

蜷川は、14歳で建部政醇の屋敷を訪れた小栗の堂々とした振る舞いも書き留めています。花見でも川の水利ばかり論じ、刑の前には食膳に手を触れず、顔色を変えずに首を刎ねられたと伝えます。大正4年(1915年)、横須賀で造船所開設50年の祝賀会が開かれました。公園には小型の胸像が建つことになります。明治の45年間、役所の名で功績を認めた文書は一つも出ていない、と蜷川は書きます。小栗の言が慶喜に用いられていれば結果は違った、というのが蜷川の結論です。

箱根を開けて閉じるという策から小栗父子の最期、大正4年の胸像までを、『土方伯』からの引用と三宅の序文、そして蜷川新が幼い日に聞いた旧臣たちの話がたどらせてくれます。

目次

大村益次郎の命の危機

慶応四年(1868年)、上野の彰義隊(旧幕府側の武士がつくった部隊)との戦が済んだあとのことである。原文原文

大村益次郎と江藤新平ら、官軍(新政府側の軍)の参謀や軍監(軍を監督する役)が集まって、あれこれ話し込んでいた。原文原文

そこで大村が言い出す。原文原文

もし幕府が小栗豊後守(のちの上野介)の献策を用いて実地にやっていたら、「我々は幾んど生命がなかつたであらう」と。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 84

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自分たちは命がなかっただろう、という意味である。原文原文

蜷川新は、この場面を『土方伯』(菴原鉚次郎・木村知治の共著、第三百九十八頁から第四百二頁)から引いて記している。原文
土方久元の承認を得て編まれた本だと蜷川は断っている。原文原文

三万人を江戸に入れてしまう

大村が語った小栗の献策は、こうであった。原文原文

有栖川宮が大総督となり関東征伐と決まったが、率いる兵員は「僅に三萬人を越すまい」。原文原文

三万人を超えることはあるまい、という見立てである。原文原文

そこで「函嶺の關門を開いて江戶に官軍を入れて仕舞ひ」、そのうえで箱根を閉ざす。原文原文

東山道(内陸を通る街道筋の古い区分)方面は木曽路を塞ぐ。原文原文

官軍をことごとく江戸に入れておいてから戦えば、皆殺しにするのは容易だ、と。原文原文

さらに軍艦の半分で駿河を押さえ、残る半分で摂海(大坂湾)を衝く。原文原文

そうすれば関東の諸侯(大名たち)はたいてい徳川家の味方になる。原文原文

この一件を関ヶ原の役と見れば、関西にも譜代大名も親藩もあり、外様の中にも幕府に心を寄せる者が絶無ではない。原文原文

徳川家恢復の途も立つ、というのが小栗の論であった。原文原文

その日の評議はこれで一決し、小栗の策略によって実行することになって、一同下城した。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 85

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ところが夜が明けると、わずか一夜のうちに議がひっくり返る。原文原文

小栗派とこれに加担した者は、役儀まで免ぜられてしまった。原文原文

「如何にも敵ながら氣の毒な次第であつた」と大村は語ったと、蜷川は記す。原文原文

江藤新平の機敏と蜷川の批判

その声に応じて、江藤新平が口を挟んだ。原文原文

何が間抜けだ、と反駁する者がある。原文原文

この危急存亡の場合に、呑気な考えを持ってはいけない。原文原文

議が一決したなら、その場で直ちに部署を定め、誰はどの兵隊をもってどちらに当たれと決めてしまい、すぐ発表せねばならぬ。原文原文

それをぼんやり帰って安閑と寝るような間抜けでは、到底できるはずがない──。原文原文

この話を聞いた者は皆、江藤の機敏に感じたという。原文原文

蜷川はしかし、江藤の批判を額面どおりには受け取らない。原文原文

小栗は将軍自身ではない。原文
徳川慶喜とくがわよしのぶの時代の政治は、小栗の思うとおりに手軽に運ぶものではなかった。原文原文

負け惜しみの軽口だ、というのである。原文原文

薩長方で唯一の軍略家であった大村が正直に驚嘆を告白した、その事実のほうが小栗の人物判断には興味がある。原文
蜷川はそう見ている。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 92

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三宅雪嶺の「當時能く比肩する無し」

安藤はどうにかして国内を統一し、競い来る列強に当たろうとしたが、多年の慣例は急には改まらなかった。原文
親藩・譜代・外様が錯綜し、閣老に対しては「幾多姑小姑の如く」──小姑が何人もいるようなありさまである。原文
無事に済めば当たり前とされ、故障が起これば喧々囂々と咎められる。原文
そして、「勝てば官軍、負くれば賊」であった。原文
三宅は言う。原文
才略と胆力において小栗に拮抗できる者があるか。原文
勝はいくらか相当するが、他は甚だおぼつかない。原文
「恐らく鷹と鳶との比例なり」。原文
鷹と鳶ほどの差がある、というのだ。原文
そして「當時能く比肩する無し」──当時、小栗に並ぶ者はいない。原文
しかも現に少しも名が聞こえないのは、主として官軍に殺されたことによる、と。原文
蜷川はこの三宅の見方を「高所大局より、公正に二人物を觀ての正評」として支持している。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 82

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首を京都まで送ること

蜷川は、近藤勇のことにも触れる。原文原文

慶応四年四月二十五日、板橋で官軍に捕えられ、斬られた。原文
首は遠く京都まで送られて梟首された。原文原文

近藤は慶喜恭順のあと、勝海舟かつかいしゅうから軍用金を得て甲州で官軍と戦っている。原文
罪せられるべきものであった、と蜷川も認める。原文原文

それにしても、わざわざかつて近藤が活躍した京都に首級を送っての梟首は、王師のなすべきところではないだろう──蜷川は、山川健次郎が昭和二年(1927年)六月刊の『永倉新八伝』序文で「私怨を報いたる例也」と論じたのに追随して、参謀香川敬三らを責める。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 91

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人物ははるかに優り、国家の要地にあり、現実に功労があり、何らの罪跡も反抗もなかった小栗上野介父子と、その臣下六人を梟首した輩とその命令者はどうか。原文原文

「法律には時效あれども、國民的制裁には、時效と云ふものなし」原文原文

法の時効はあっても、国民が下す評価に時効はない、というのである。原文原文

駿河台の馬蹄、墨堤の水利

蜷川は、小栗の人となりを、幼時に聞いた話として細かく書き留めている。原文原文

小栗の夫人は禄高一万(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)、播州林田の藩主建部内匠頭の女であった。原文
建部政醇たけべまさあつのもとへ小栗が機嫌伺いに行った折のことを、旧藩士たちが蜷川の少年時代に語ったという。原文原文

小栗はまだ十四歳。原文
初めて建部家の客となって来邸したとき、挙動はまったく大人のようで、言語明晰、音吐朗々。原文原文

煙草をくゆらせ、煙草盆を強く叩き立てながら、藩主と一問一答した。原文原文

人は皆その高慢に驚きながら、後にどんな人物になるだろうと噂し合った、と。原文原文

蜷川相模守の家は神田錦町にあり、小栗の家は駿河台にあった。原文
小栗は毎朝登城(江戸城に出仕すること)するたび、蜷川家の侍長屋の前を通った。原文原文

旧臣の森山休平という老人が、蜷川の幼時に語る。原文原文

小栗の登城は輿ではなく、常に乗馬であった。原文
家の中に潜んでいても、馬の足音で「之れは小栗殿の登城也」とわかった。原文
必ず駿馬に跨るのが例で、その馬蹄の響きが他の馬とはまるで違っていた、と。原文原文

外国奉行(外交を扱う役)を勤めた朝比奈閑水に誘われ、遊船で墨堤の桜を見に行ったときのこと。原文原文

小栗は桜も酒も美人も眼中になく、あの川の瀬は水利上どうか、あの堰はもう少し高くすれば有利ではないか、いや低くすればもっと良いか、あちらの水田こちらの水利は民生のためにどうか、とばかり言い暮らした。原文原文

花見の客であることを、まるで忘れていたという。原文原文

斬首の膳に手を触れず

書画については、小栗はこう言ったと蜷川は伝える。原文
宋と言い明と言っても、目撃したわけではなく、鑑定家の臆測にすぎない。原文
真偽不明のものを無上に愛好するのは不見識である、と。原文原文

そこで当時の名匠大家に面前で揮毫させ、真物と知って初めて珍蔵した。原文原文

赤城山に三百五十万(当時のお金の単位)を埋めたなどというのは信じ難い風説だ、と蜷川は退ける。原文
殺害されたあと、住んでいた寺には拝領の黄金二枚が残っていただけであったという。原文原文

斬に処せられようとする折、官軍の人々は死刑の者に与える方式として、食膳に三片の交肴を添えて出した。原文原文

小栗は手を触れなかった。原文原文

斬首の折に喉口に飯粒でもあれば武士の不名誉だと思ったため、と伝えられている。原文原文

そして「神色自若」――顔色ひとつ変えず、恐れず、臆せず、誰をも怨まず、従容として首を刎ねられた。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 94

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五十年後の宣言

大正四年(1915年)、横須賀で造船所開設五十年の祝賀会が催された。原文
小栗が強く反対論を押しのけて船廠設立を成立させた功、という意味である。原文
その功績の一端が、五十年を経てようやく公に語られたのである。原文
明治の四十五年間、官憲の名で小栗の功績を認めた公文書は一度も出ていない、と蜷川は書く。原文
福地源一郎と島田三郎の二人だけが、密かに骨を折っていたという。原文
やがて横須賀の公園に小栗の胸像が建つことになった。原文
極めて小型のものではあるけれども、と蜷川は付け加える。原文
銅像建設費として皇后から金二百円が下賜され、大森皇后宮大夫が小栗家を訪れて思召を伝えた。原文
その大森大夫が、小栗家の人にこう語ったという。原文
私も過去には小栗上野介をよろしからぬ人のように聞いておりましたが、取調の結果、この人が国家の功臣であることを知り得ました──。原文
蜷川は、これを「缺席裁判」の例として書く。原文
片方の悪評だけを聞き、両面の説を聞かずに人物を判断すること。原文
世の中にはこういうことが甚だ多い、と。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 100

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一夜で覆った議

蜷川の筆は、終始一点に向かっている。原文原文

もし小栗の言が慶喜に用いられていたなら、という一点である。原文原文

徳川慶喜は薩長に降服する屈辱もなく、大政奉還の終わりを美事に結べた。原文
封建の制度は小栗の持論のとおり直ちに廃され、明治四年(1871年)を待たずに済んだ。原文原文

「小栗一人の死と生との爲めに、此の重大なる結果の成否が生じた」と。原文原文

ここまで一人に負わせてよいものか、と読む者もあるかもしれない。
三宅の序文にしても、蜷川の断案にしても、勝者の側の史料編纂に対する強い不信が土台にあるようにも読める。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第5章 NDL コマ 83

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ただ、大村益次郎が同輩たちに漏らした一言だけは、敵側の口から出たものとして重い。原文原文

議は一決した。原文
一同は下城した。原文原文

そして夜が明けるまでの数刻のあいだに、それは覆っていた。原文原文

ゆかりの地

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1876405
日付・人名本文の日付 1 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 4 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻8』は、まだ項目を作っていないため突き合わせていません。

本記事は『維新前後の政争と小栗上野の死』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。

人物勝海舟小栗忠順建部政醇徳川慶喜1868慶応