文久3年(1863年)正月、土佐藩の山内豊信が江戸から汽船大鵬丸で上方へ向かいました。途中で嵐に遭って引き返し、京都に入ったのは正月25日のことです。道中の出来事と、入京後に藩邸の前で起きたことを追った記事です。
出港した船は遠州洋で西北の強い風に遭い、南へ南へと流されました。揺れは激しく、一同は船がひっくり返ると覚悟したといいます。北へ向かい直しても島影は見えず、15日、ようやく出てきた下田港に戻りました。
下田には、海軍奉行の勝麟太郎がたまたま寄港していました。勝は寺にいる豊信を訪ねました。藩を出て罪に問われそうな土佐の者、坂本竜馬ら8、9人を預けてほしいという願いでした。豊信は酒を1杯飲ませたうえで身柄を任せると答え、証拠にと酒のひょうたんを描いた扇を渡しました。蘇峰は、これで坂本竜馬らが勝の門下として守られたと記しています。
豊信が上方へ向かうころ、京都では土佐勤皇党の動きが進んでいました。間崎哲馬と広瀬健太は、藩の守旧派を動かすため、宮から書面でのお言葉を求めていました。正月3日には、宮が武市半平太を呼び、自分の考えが疑われていると怒りを見せています。伏見で豊信を出迎えた平井収二郎は、朝廷の立て直しなど3つの案を述べました。しかし正月29日の夜に意見を申し立てて豊信の怒りを買い、2月1日、他藩との応接の役を解かれます。
そのころの京都では、殺された人の首が置かれる事件が続いていました。正月21日には池内大学、正月29日の夜には千種家の家臣賀川肇が殺されています。豊信が河原町の藩邸へ移ると、2月7日の朝、裏手の高瀬川の小橋に首が捨ててありました。添えられた札は、外国を追い払う期限を早く決めよと豊信に迫るものでした。豊信は松平慶永あての書面の末尾に、酒のつまみにもならぬ無駄な殺生だと書き添えています。
京都に入った松平慶永のもとへは、京都守護職の松平容保が案を持ち込みました。過激な浪士たちを取りまとめ、外国に向かう先陣として使いたいという中身で、慶永は即答を避けています。2月7日には12人の公家が御所へ参上し、期限を決めるよう関白に迫りました。華やかに京都へ入った豊信の前で、すでに波が立っていた様子が読み取れる記事です。
文久三年(1863年)正月十日。原文
品川沖に、一隻の汽船が錨を下ろしていた。原文
大鵬丸。原文原文
当時、将軍が海路で上洛する案があった。原文
海軍奉行(幕府の役人)の勝麟太郎は艦隊運動の演習をするため、諸藩の汽船を一時幕府に借り上げていた。原文
随行は小南五郎右衛門、乾退助、小笠原唯八ら。原文
同夜は品川沖に一泊し、翌十一日に纜を解いた。原文原文
遠州洋、南へ南へ
十三日、天候はまだ定まらない。原文
しかし和船が続々と帆を開いて出港していくのを見て、豊信は船長肥田浜五郎を促した。原文
ようやく出港。原文
遠州洋を駛ろうとしたところで、西北の烈風に遭った。原文原文
半途で針路を転じたが、ただ南へ南へと吹き付けられる。原文
船体の動揺は甚だしく、一同は転覆と覚悟したという。原文
翌十四日、四方渺茫たる大洋の中に漂った。原文
風力の緩むのを見て正北に針路を取り、およそ百里(距離の単位でおよそ4キロ)ほども回航したが、島影ひとつ見えない。原文
再び北東に取ること数十里、忽ち陸地を望み、十五日にようやく下田港へ戻った。原文原文
出港して二日。原文
着いた先は、出てきた港であった。原文
下田、酒瓢の扇
下田には、たまたま上方から江戸へ帰る途中の勝麟太郎が寄港していた。原文
勝は、上陸して宝福寺にいる豊信を訪ねた。原文
このときのやりとりは、勝自身の筆で伝わる。原文原文
豊信は勝を迎えて京都の近状を問い、勝は見聞したところを答えた。原文
そのうえで勝は一つの願いを出す。
土佐藩の士のうち、近ごろ過激のために亡命し罪を得ようとする者が多く、「坂本龍馬以下八九名、現に我が門下に潜匿す」。原文
彼らに悪意はない。原文
寛典をもって赦すか、それがかなわぬなら自分に託してほしい、と。原文原文
豊信は答えず、手にした例の酒瓢を取って言った。原文
君が一杯を尽くさねば、私は答えない。原文
勝は強いて一杯を尽くす。原文
豊信は掌を打って大笑し、「彼等の身事一に君に任す。再過激に失せしむる勿れ」と言った。原文
勝が「醉中の約、信をとりがたし」と返し、証拠に酒瓢を求めると、豊信はますます笑って扇を抜き、筆を揮って勝に与えた。原文原文
扇面には酒瓢が描かれ、その中に「歲醉三百六十囘、鯨海醉侯」とあった。原文
一年三百六十日、酔っている。原文
こうして土佐の亡命者坂本龍馬らは勝の門下生として庇護され、身を全うすることができた、と蘇峰は書く。原文原文
千載の馬上
正月十七日、再び下田を出港。原文
またも遠州洋の風浪は高く、十八日にようやく志摩の鳥羽港に入る。原文
二十日に出港し、二十一日、大坂に上陸した。原文
江戸を出て十一日目である。原文原文
勤皇派の下士、武市半平太以下は専ら長州の志士(国事に奔走した武士)と交わっていた。原文
一方で豊信の左右は、むしろ薩摩と提携する趣きがあった。原文
正月四日には乾と小笠原の両人が高輪の薩摩藩邸に大久保一蔵を訪ね、九日には大久保が土佐藩邸を訪ねている。原文原文
二十三日、淀川を溯る。原文
二十四日、伏見に一泊。原文
二十五日、入京。原文原文
海老茶の純子に枝柏を織り出した袴、黒魚子の羽織を裾長にまくり、腰に蝋鞘の名刀。原文
当年数えて三十六。原文
身の丈五尺六寸、色は白く、面は肉づいて眼中に異彩を放つ。原文
千載と名づけた逸物の馬に跨り、馬上ゆたかに大仏知積院へ入った。原文
見た老若は「天晴れの御大將よ」と誉め、供の藩士まで肩身が広い心地であったという。原文原文
「此の如く山內容堂は、意氣揚々として入京した。知らず彼は果して何事を爲さんとするぞ」。原文
蘇峰は、そう問いを投げている。原文
令旨と譴責
その京都では、土佐勤皇党の運動が着々と進んでいた。原文
藩の小留守居(江戸での藩の連絡役)役として公卿(朝廷の高官)と諸藩志士の間を周旋していた平井収二郎。原文
勤皇党の間崎哲馬と広瀬健太。原文原文
豊資は藩地にあって守旧党の背景となっていた。原文
藩地の改革には、まず豊資を動かさねばならない。原文
尋常の手段では動かない。原文
そこで宮の令旨を請うた、というのが蘇峰の説明である。原文
のちの自首状で、間崎と広瀬はこう述べている。原文
身分の低い自分たちが口頭でお言葉を伝えることはとてもできない、土佐藩のためを思ってくださるなら書面の令旨をいただきたいと申し上げたところ、お許しがあった、という意味である。原文原文
勤皇党は「我事成矣」と手を額にして喜ぶほどであった。原文原文
正月三日、宮は武市半平太を召し、怒色を面に表して、諸有志が自分の心事を疑っている、この上は隠遁するほかない、と言った。原文
武市は涙に咽びながら諫め、夜に入っても去らなかったという。原文原文
文久三年正月三日、靑蓮院宮は、武市半平太を召し、予の心事を疑ふ者あり、長藩も不平を懷き、兵衞等を斥す-に議論あるやに聞く。此上は決然隱遁の外なしと、
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くそして豊信の入京。原文
伏見に着いた二十四日、平井は真っ先に出迎え、朝廷の秩序を正し、御親兵を設け、幕府と大名に新たな貢献を求めるという三事策を述べた。原文
二十九日の夜、平井は特に謁を請い、時局への意見を具陳した。原文
忽ち豊信の怒りに触れ、譴責を受けた。原文
二月朔日、怒りはなお晴れず、平井は他藩応接役を免ぜられた。原文
たまたま訪ねてきた長州の久坂玄瑞と肥後の宮部鼎蔵は、これを聞いて大いに驚いたという。原文原文
平井は日記に、自分は天下のことを自らの任としてきたのに、老公が江戸から来るや「忽ち怒罵に遇ひ、公卿の門に出入するを禁ず」と記した。原文
同志は愕然として失望した。原文
豊信を攘夷(外国を追い払うこと)の魁首と仰ごうとした土佐勤皇党が、失望の余り彼に「因循家」の名を冠したのも不思議ではなかった、と蘇峰は見る。原文原文
高瀬川の小橋
京都には、首が転がっていた。原文原文
正月二十一日、安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件)の折に同志を裏切って軽罪で身を脱したと指弾されていた池内大学が、大坂長堀の豊信の邸を訪ねた帰途に暗殺され、首を難波橋上に晒された。原文
正月二十九日夜には千種家の臣賀川肇が殺され、二月朔日の暁、その両手が岩倉・千種両家に、首が後見(幼い当主を補佐する役)職徳川慶喜の旅館に投じられた。原文原文
豊信が知積院から河原町の藩邸へ移ると、ほどなく二月七日の朝、藩邸裏手の高瀬川の小橋に、風呂敷に包んだ生首が打ち捨ててあった。原文
木札が立っていた。原文
この首は千種家に入奸した唐橋惣助のものである。原文
老公(豊信)が上京してこの安危を謀るのなら、速やかに攘夷の期限を決め、人心の向かう先を定めてほしい、この首はその血祭りの証しとして門前に献ずる、というのである。原文
「如何にも容堂に對して、面當てがましき處置だ」と蘇峰は書く。原文原文
豊信は、上京中の親友松平慶永に与えた書面の端に、こう添えた。原文
「今朝僕が門下へ、首一つ獻じ有之候。酒の肴にもあらず、無益の殺生可憐々々」。原文
今朝わが門前に首が一つ献じられていた、酒の肴にもならぬ、無益な殺生で可哀想なことだ、と。原文原文
加茂川の仇浪
正月二十二日に築地操練所から乗船し、順動丸で二十三日品川沖を出たが、風雨のため浦賀、田子浦、紀州大島、由良と泊を重ね、二十九日にようやく大坂に着いた。原文
順動丸には勝麟太郎自身が艦長として乗り組んでいたと思われる、と蘇峰は書く。原文
二月朔日、勝は慶永に会い、「當今天下の形勢、危險既に極まる」と、甚だ激烈な言葉で決心を促した。原文原文
慶永は「京都大混亂の眞中に飛び込んだ」。原文
京都守護職(京都の治安を守る役)の松平容保は会津の武力をもってしても、浪人たちの乱暴を手に余していた。原文原文
入京翌日の二月五日、容保が慶永の邸を訪ねる。原文
慶永は感冒で発熱しており、越前の要人中根靱負が代わって対面した。原文
容保の案は、京中に集まる過激の浪士(主家を失った武士)を、名望のある武田耕雲斎に附属させ、兵庫港へ渡来した外国船に対する攘夷の先鋒に宛てるというものであった。原文
「私儀守護職にも御座候に付、右有志之者取纒め、攘夷之先手に相用ひ、勤王之心底爲相達度奉存候」。原文
自分は守護職でもあるから、これら有志の者を取りまとめ、攘夷の先手として用い、勤王の志を遂げさせたいと思う、という趣旨である。原文
これは「窮策」であったと蘇峰は見る。原文
上に過激の公卿、下に過激の浪士。原文
板挟みの中から出てきた思案だろう、と。原文原文
慶永は即答を避けた。原文
暴行者を制するために外国と戦を開くのは国家の長計ではない、まず朝廷の議を固めねばならない、と考えたからである。原文
十日付の一書では「攘夷之大號令を被爲發候御折柄」に有志が憤鬱を抱いていては人心一致の妨げになる、と述べている。原文
攘夷の号令が発せられたこの折に、志士たちが憤りを抱えたままでは国内の人心が一つにならない、という意味である。原文
だがその「朝議」が何を指すのか、文面は「朦朧たるを免れない」と蘇峰は書く。原文原文
二月七日には十二人の公卿が突然参朝し、攘夷の期限を定めよと関白(天皇を補佐する最高の官職)に迫った。原文
評定の結果は、将軍が江戸へ帰城した日をもって実行する、という答申であったが、京都の形勢はそれで落ち着くものではなかった。原文
過激派は朝廷に三条実美があり、大名に毛利家がある。原文
彼らを制止できぬ限り、民間の志士の取締りは「到底不可能だ」と蘇峰は断じている。原文原文
豊信には一首の和歌があった。原文
「加茂川にあたら仇浪立たせじと、思ひ定めて渡る月日か」。原文
加茂川に無用の荒波を立てさせまい、そう心に決めて日を送っている、という歌である。原文
蘇峰はこれを「正しく彼の心事を道破したるもの」とする。原文原文
千載に跨り、天晴れの御大将と誉められて入った京都。原文
その門前に、翌々週には首が置かれた。原文
波を立てまいと決めた男の前で、波はすでに立っていたのではないだろうか。
酒の肴にもならぬ、と書いた一行の軽さの奥に、何があったのか。原文
それを蘇峰は言わず、ただ「無益の殺生可憐々々」の一句を残している。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228673 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻4』PID 1046672 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 12 名のうち 11 名が『維新史料綱要 巻4』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
