淺薄なる罵詈 ―― 蜷川新が小栗の仏国借兵論を弁明する

あらまし

幕府が仏国へ送った使節・池田筑後守が滞在していた年の話です。この年、仏国政府の側から幕府に一つの案が示されました。長州を討つのに仏国の海軍を使ってはどうか、というものだったと蜷川新は記します。この案で、幕府の重職にあった小栗は国を売る者とまで呼ばれました。蜷川はその非難を浅い悪口と呼び、一章を使って弁護しています。

蜷川がまず挙げるのは、長州藩が京都で大砲を撃ったこと。毛利藩の正式な軍が天皇の住まいに向けて砲を放ち、これほど差し迫った危険は徳川の時代になかった、と書きます。当時の幕府は700年来の国のしくみで、正しい権力の担い手だったというのが蜷川の見方です。その秩序を破る藩を討つのは幕府の務めであり、小栗の責任感の表れだったとします。

外国の兵を借りて国内をまとめた例は各国の歴史にいくつもある、と蜷川は言います。200年前の天草の乱で、幕府はすでに和蘭の船を使っていました。同じ考えを持った者として、学者の福沢諭吉や紀藩の武内孫介の名も挙がります。幕府の側ではこの案を良しとするのが全体の空気だったといい、小栗だけを責めるのはうわさを信じた思い違いだと退けました。

佐賀藩は英国から大砲を受け、会津攻めにも使っています。薩州の西郷は木梨精一郎らを横浜へ送り、英公使パークスに助けを求めました。仏国の援助だけを責めるのは筋が通らない、というのが蜷川の問いかけです。小栗たちは、700年来の有力な藩をなくし、国を中央から治める形に改めよと説いていました。大名の地位と収入は徳川政府が与えたものだから、削る権利もあるという理屈です。

小栗の同僚で幕府から給与を受けていた勝海舟は、すぐには答えませんでした。後年の自著では、徳川家が大名を削って自ら政権を持つのはよくないと書いています。蜷川はこれを、役人としての忠実さを欠いた言い方だと退けました。主戦の主張は通らず、小栗は慶応4年(1868年)2月28日に神田駿河台の屋敷を引き払い、300年来の領地である上野国権田村へ移ります。

権田村では寺に身を寄せ、川の水を引いて田を作ろうと、毎日馬で工事を見回っていました。4日の朝、村は四方から囲まれ、5か所に火を放たれます。小栗は武力で追い払いました。蜷川はこれを単なる盗賊ではなく政治的な暴徒だと読みます。残った1門の大砲は反逆の備えと言い立てられ、小栗を殺す口実にされたのです。

借兵の噂から権田村の大砲まで、小栗への非難に蜷川新がどう反論したかを、『維新前後の政争と小栗上野の死』の一章に沿って読めます。

目次

幕府が仏国へ派遣した使節、池田筑後守が滞在していた年である。原文
この年、仏国政府の側から一つの方策が幕府に持ち出された、と蜷川新は記す。原文
長州を討つのに、仏国の海軍を使ってはどうか。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 44

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売国奴、という言葉さえ投げられた。原文
蜷川はそれを「淺薄なる罵詈」と呼び、一章を費やして弁明する。原文
その弁明の筋道を、順に追ってみたい。原文原文

蛤門の砲弾

蜷川がまず置くのは、長州藩の京都での発砲である。原文
組織ある毛利藩の公式の軍が、禁裏に向けて砲を放った。原文
「長州人の蛤門の襲撃程、禁裏の爲めに、危險急迫なりしことは、德川時代を通じて未だ曾て無かりし事」だった、と蜷川は書く。原文
放たれた砲弾が会津人だけに当たる都合のよい有機物であるはずもない、という一句が添えられる。原文原文

当時の幕府は七百年来の国家の制度であり、正当な権力の行使者であった、と蜷川は見る。原文
二百五十余の大名はいずれも三代将軍以来、参勤交替して臣従してきた。原文
その秩序を破る藩を討つことは、幕府の任務であり、幕府の重職にある小栗の「責任觀念の發現」だった、というのが蜷川の理解である。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 42

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会津藩と深く結び、東北に置かれていた会津を駿府に移すことを私に考慮した。原文
会津藩の当局も密かに人を出して駿府の国情を調べたことがある、と蜷川は聞いている。原文
ただしこれは書面として残らず、伝説として存する、と蜷川自身が断りを入れている。原文
国費の不足には外債を起こし、その資金を幕府覆滅の陰謀を策する一二の雄藩の討伐に充てる。原文原文

二百年前の和蘭船

外国の兵を使って国内を統一する。原文
それは列国の外交史上に古今幾多の例がある、と蜷川は言う。原文
二百年前の天草の乱で幕府はすでに和蘭船を利用した。原文
外国事情をよく知る幕府がこの先例を知らなかったはずはなく、「窮餘の一策として、巧妙に外人を利用せんとした」のだ、と。原文原文

蜷川はさらに、同じ意見を持った者の名を並べる。原文
学者の福沢諭吉もまた外国兵利用の建白(意見書の提出)を幕府に出した一人であり、その建白書は瀧本誠一博士が現に保管している、と博士自身が蜷川に語ったという。原文
紀藩の武内孫介の上書にもある。原文
老中(幕府の重臣)の小笠原壹岐守にもこの意見があった。原文
「當時此の方策を可となすこと、之れ幕府方一般の空氣であつた」と蜷川は書き、小栗一人を責任者と目するのは「流言に聽ける輕卒者の誤解」だと結ぶ。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 44

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先例はさらに世界へ広がる。原文
伊太利は仏国軍に助けられて墺国を討ち、「伊太利の建設」を成した。原文
墺国は土耳古に首府を脅かされたとき仏国軍に救われた。原文
米国の独立は仏国の武力と勢援、希臘の独立は英国の軍力資力、支那の長髪賊は英人の軍略によって平定された。原文
ビスマルクの統一も初めは墺と伊の力を借りた。原文
「列國間には世間並みの事とも云ふべき程の事」というのが蜷川の見立てである。原文原文

では、幕府を倒した側はどうだったか。原文
佐賀藩はアームストロング砲を英国から受け、会津攻撃にまで用いた。原文
そして征東軍は慶喜よしのぶが恭順した後も江戸攻撃を決し、薩州の総参謀西郷は参謀の木梨精一郎と渡邊を横浜へ遣わし、英公使パークスに援助を申し入れた。原文
蜷川は問う。
仏国の援助を不可とするなら、英国の援助も同じように非難するのが正しいのではないか、と。原文

六百万(当時のお金の単位)の借款

もっとも、仏国に深い執着があったとは蜷川も見ていない。原文
仏国が「一二隻の軍艦を日本に貸し、僅かに六百萬兩の借款を引き受けることを拒絕した」ことをもって、遠く深く執拗な陰謀を持たなかったことは明白だ、と蜷川は書く。原文原文

蜷川の見るところ、幕府の当局が考えたのは次のような形だった。原文
かつて英人の軍艦を利用して露の軍艦二隻を対馬から追い払った、あの手心を再び使う。原文
仏国海軍に長州の海岸を砲撃させ、幕府は自ら訓練した陸兵をもって長州を懲らす。原文
もし世上に伝えられる通りであれば「當時としては、必然に案出せらるべき一種の權謀的方策」だった、というのが蜷川の判断である。原文原文

この事は単に噂に終わり、実現されなかった。原文
それは「結構のことであつた」。原文
日本人としては外国の援助なく国内統一に進むのが最も正しい道であり、借兵の噂だけで終わったことを自分は慶賀する、と。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 47

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七百年来の雄藩も一挙郡県

借兵の噂を聞いて憤り、また恐れたのは第一に長州だったろう、と蜷川は言う。原文
小栗らは「封建を廢止して七百年來の雄藩も一擧郡縣となさん」と主張していた。原文原文

小栗の郡県制論を、蜷川はこう説明する。原文
世界の大勢に順応し、日本国民を世界各国民に対峙させるには、まず国内を平定し、進んで七百年来の封建の制を改めて「郡縣の制」にしなければならない。原文
開国に伴って当然到来する大勢を、小栗は観破した。原文
そして「現在自己の擔當しつゝある政府の力を以て、自ら此の一大事を斷行せんと欲した」。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 47

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当時の政治は輿論政治ではなく専制であり、当局の自信力で断行するのが政治道徳だった、と蜷川は言う。原文
大名の禄と身分は徳川政府が与え、または認めたものである。原文
ならば政府が自ら与えたものを自ら削る権利があるのは法理として明白だ、と。原文
維新後に薩長人が専制の代に所信を進めたことを不当と言わないなら、小栗が幕府の力で郡県を目指したことも同じ理路で是認されるはずではないか、というのが蜷川の論法である。原文原文

先づ自ら倒れろ

ここで一人の人物が呼び出される。原文
小栗の同僚であり、幕府の禄を食んでいた勝海舟かつかいしゅうである。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 47

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小栗が郡県制を説いたとき、勝は即座には何も答えなかった。原文
後年になって、勝は自著『海舟著聞国起原』でこう書いた。原文
「郡縣の議は、萬國交際起るに當つて、當然の議なるべし」。原文
だが徳川家が諸侯(大名たち)を削って自ら政権を持つのは大いに不可である、「先自ら倒れ、自ら削小して顧みず、賢を撰み能を擧げ、誠心誠意天下に愧づる事なき地位に立ち、然る後成すべきなり」と。原文原文

幕府の禄を食みながら「先づ自ら倒れろ」と言うのは吏としての忠誠心のない無責任者の言だ、と蜷川は断じる。原文
先に倒れれば所信は亡び、賢者登用の途も失われ、「忠臣は自ら憤つて死し、能臣は忌まれて反對者に斬らるべし」。原文
川路左衛門尉がそうであり、小栗がそうであり、会津藩の苦しめられたのもそれだ、と蜷川は例を挙げる。原文原文

福沢諭吉が『瘠我慢の説』を書いて勝を痛撃したことは、血ある人間なら同感と叫ばざるを得まい、と蜷川は言う。原文
英国公使サトウが後年、旧幕府方の某に向かって勝を「德川政府の爲めにならざりし人」と評したことも的中している。原文
勝を好まなかった栗本鋤雲くりもとじょうんが、明治半ばのある折、旧知の集まる面前で「勝ツ下れ!」と大喝したことも「栗本の情として洵に尤」だ、と。原文原文

勝は自ら「やせ蛙お辭儀のみして濟しけり」と詠んだ。原文
蜷川はこの句を引いて、勝はそういう人物だったと書く。原文
権略縦横の一大才人には違いないが、小栗とは全然型を異にする。原文
小栗は松平氏の一門に出た名家の忠臣、勝は飛び入りの微臣。原文
「二者の思想には、當然に血と水との如き差異があつた」というのが蜷川の結論である。原文原文

慶応四年二月二十八日、駿河台

主戦論は容れられなかった。原文
慶応四年(1868年)二月二十八日、小栗は神田駿河台の上屋敷を引き払い、三月朔日、三百年来の知行所である上野国権田村に着いた。原文
駿河台の屋敷には小栗が建てた江戸唯一の(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)造西洋館があり、後に土佐の土方久元がこれを占有して住み、主屋と西洋館を記念物として保全した、と蜷川は記す。原文原文

江戸を去る前夜、小栗は振武隊長の渋沢成一郎に語った。原文
自分は初めから見るところがあって開戦を唱えたが行われなかった。原文
主君恭順の上は何の名義も立たない。原文
「予は之れより去りて知行所權田に土着し、民衆を懷け、農兵を養ひ、事あらば雄飛すべく、事なければ頑民となりて終るべし」と。原文
大鳥や榎本に比べれば「鷹と鳶との比例也」と三宅雪嶺が評したのは当たっている、と蜷川は書く。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 55

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玄関に備えていた一門の大砲と小銃若干挺を、小栗は包装し、長持に納めて運んだ。原文
その重さから、幕府の官金数十万両を隠したのだろうと世の小人は噂した。原文
「小人は小人の心を以て、人を眺めるものである」と蜷川は言う。原文原文

権田村では住家がなく、寺院の東善寺に寓居した。原文
観音山と呼ぶ小丘上の平坦地に住宅を建て、河水を引いて水田を作ろうとし、日々馬で工事を督した。原文
その地域は今も残り、村民はよく知っている、と蜷川は記す。原文原文

四日の朝、権田村を四方から囲み、五か所に放火し、発砲盛んであった。原文
小栗は捨て置けずと武力で追い払い、正午十二時ころには逐い去った。原文原文

蜷川はこれを単純な盗賊団とは見ない。原文
七千という数は官軍(新政府側の軍)方の宣伝に相違なく、「小栗に七千人をも擊退し得る程の强固なる兵備あり」と吹聴する手段だったろう、と。原文
慶喜が正月に朝廷に奉った上書には「家來共浮浪ノ徒ヲ語合、屋敷ヘ屯集、江戶市中押入、强盗致シ」「其他野州總州燒打劫盜ニ及候迹分明ニ有之候事」とある。原文
薩藩の家来が浪人を集めて江戸で強盗をし、野州総州で焼打ちや掠奪をした跡が明白である、という意味である。原文
後に大音龍太郎の書いた届書にも「舊幕の苛政を恨候百姓(農民)共蜂起致」とある。原文
旧幕府の苛政を恨む百姓たちが蜂起した、と自ら政治的暴徒であることを白状している、と蜷川は読む。原文
西郷が浪人を関東に放った史実は萩野由之博士の『王政復古の歴史』にも明記されている、と付け加える。原文原文

一門の大砲

追い払われた暴徒が去った後、道路の傍に据えられた大砲が残った。原文
江戸の玄関に飾っていた、あの一門である。原文
監軍(軍を監督する役)の豊永某らはこれを見て「大砲備付ありたり」と反逆の準備のように言い立て、小栗殺害の唯一の好口実にした、と蜷川は書く。原文
一門の大砲で天下の諸藩から成る官軍にどう反抗できるのか、と蜷川は嘲る。原文原文

ただしそれは「追捕」であって「殺害の命」ではなかった、と蜷川は念を押す。原文原文

借兵は噂に終わった。原文
郡県は、小栗が敵とした側の手で成った。原文
権田村の道路脇に据えられた一門の大砲は、その一貫の最後の姿だったのかもしれない。
それを反逆の証と読んだ者と、忠誠の証と読んだ者と、どちらが小栗を見ていたのだろうか。原文

原文『維新前後の政争と小栗上野の死』第3章 NDL コマ 56

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1876405
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 63・64・66・67・68・69・70・71・73・74・76・77・78・79・81・82・83・84・85・86・87・89・90・92・93・94・96・97・98・99・101・102・103・104・105・106・107・108・109・110
日付・人名本文の日付 3 件・人名 2 件を、『維新史料綱要』2,071 項目と突き合わせました。

本記事は『維新前後の政争と小栗上野の死』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。

人物勝海舟徳川慶喜栗本鋤雲1868慶応