暴政実に御歎息あり ―― 安政六年五月、四公落飾のあとに下った宸翰と賞賜

あらまし

朝廷の重臣・三条実万は、出家を願い出た4人のうちの1人でした。安政6年(1859年)5月、その願いが認められ、天皇から手紙と品々が下されました。出家後の名は澹空です。

前日に4人の願いが許されたことは、内々の知らせで幕府側へ伝えられました。これ以上の混乱が起きず、臣下に傷がつかぬようにという天皇の考えも添えられていました。所司代(幕府が京都に置いた役)からは、朝廷と幕府が一つになった政治をと返事が届きます。蘇峰は、これで交渉は一区切りついたが、願った側も許した側も心ならずだったと見ています。

贈られた品は、まき絵の箱に入った煙草入や黄金、焼物やさかずきなど。病の気晴らしになるようにという心づかいだったといいます。三条実万のもとへは、子の三条実美が病で御所へ上がれなかったため、一族の川鰭が使いに立ちました。封をしたままの箱を開けると、中には天皇直筆の手紙が入っていました。

手紙には、昨春以来国のために尽くした忠臣が、思いがけない難儀に遭ったとありました。何度も申し入れたが武家の力で押し切られた、なげかわしいことだ、とも書かれています。品はわずかで恥ずかしいが心を伝える印として送る、よい時節が来たら会いたい、と結ばれていました。蘇峰は、この手紙は出家した者たちみなに下されたもので、一連の処置は井伊直弼の差図だと断じます。三条実万はその日のうちに礼状を書き、手紙そのものは天皇の意向で返しました。

同じ日の午後10時ごろ、黄金20両と絹3匹が届き、三条実万は涙が止まらなかったと書き留めています。病の床では、子の三条実美と、菖蒲の根に父の長寿を託す歌をやりとりしました。

4人の件が落着すると、天皇は外国をめぐる件の終わりとして、多くの臣下に金や銀を与えました。久我建通、中山忠能、正親町三条実愛の3人には、別に手ずから品も下されます。中山忠能は、去年の秋以来の幕府への疑いと、細かなことにまで及ぶ乱暴な政治へのなげきを記しました。蘇峰は、天皇が古い国の法へ戻すという約束のために一切をこらえ、しばらく様子を見たのだと結んでいます。

処分のあとに何が贈られ、天皇が何を書いたのかを、宸翰の文面と蘇峰の評からたどれます。

目次

四公落飾願の交渉

奉書の切紙を、美濃紙で包んだもの。原文
内々の仰せを伝える、と断り書きがある。原文

文面は短い。原文
「昨日太閤以下四公落飾(髪をおろして出家すること)願之通被仰出候」。原文
続けて「此上彼是惑亂無之、人臣に無疵之樣と被思食候」。原文
これ以上あれこれ騒ぎが起こらぬよう、臣下に傷がつかぬようにと、主上はお考えである、との一句が添えられていた。原文原文

所司代(京都に置かれた幕府の代表)からは、後刻に返書が来た。原文
「最早此上は別而公武御一和上下御一致之御政道」と述べ、「乍恐被爲安叡慮候樣」と結ぶ。原文原文

この一往復で、四公に関する朝廷と幕府の交渉は「先づ一段落を告ぐる」と蘇峰は記す。原文
だが、それは書類の上の話である。原文
願い出た側も、許した側も、ともに「心ならず」であった、と蘇峰は見る。原文
武家の圧迫に余儀なくされて願い出た四人と、武家の圧迫に余儀なくされて許した主上。原文
「仁を求めて仁を得たり」といっても、彼らが安心も満足もできるはずはない、というのが蘇峰の見立てだ。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 262

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蒔絵の文匣、そして「悲哉」

蒔絵の講釈文匣。原文
その中に、銀糸の綴れ織の煙草入二組、黄金二枚、焼物の三つ重ね、盃一組。原文原文

近衛には黒塗蒔絵の文匣に煙草入一つ、文鎮一つ、三つ重ねの焼物と盃、黄金一枚。原文
鷹司には煙草入一組、黄金一枚、文鎮一対、焼物の糊入一つ。原文
三条には黄金一枚、煙草入、文鎮。原文
いずれも「御所勞御まぎれの樣にも」と、病気の気晴らしになるように、との思し召しであったという。原文原文

落飾後の号も伝わる。原文
太閤は拙山。原文
近衛は翠山。原文
鷹司は随楽。原文
三条は澹空。原文
議奏(天皇に意見を伝える役)から届けがあり、主上はこれを聞し召された。原文
さらに女房奉書によって、それぞれに絹三匹、黄金二枚が出されている。原文原文

「悲哉自今被稱入道准后了」。原文
悲しいことだ、今日から入道准后と呼ばれることになった、と。原文
この「悲哉」の二字は、決して中山一人の胸の内に止まらない、と蘇峰は記す。原文原文

五月三日の項では、中山はさらに筆を進める。原文
近衛忠熈と三条実万さんじょうさねつむは「殊被盡誠忠之處禍却及其身」。原文
とりわけ誠忠を尽くしたのに、災いがかえってその身に及んだ、というのだ。原文
「神明之照覽可疑」。原文
神はほんとうに見ておられるのか、と疑いたくなる、とまで書く。
中山は自らも「春來捨身命廻愚按」と、この春以来、命を捨てる覚悟で思案をめぐらせ、内藤豊後守のもとへ三度推参して問答したが、ついに甲斐がなかった、と記している。原文
蘇峰は、そこに「中山其人の慷慨悲憤の聲」を聞くようだ、と述べる。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 267

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井伊直弼の暴威と宸翰

本来は子の三条実美さんじょうさねとみが召されるはずだったが、病気で参内(御所へ参上すること)できなかったため、一族の川鰭が代わりに遣わされたのである。原文原文

川鰭が携えてきたのは、封をしたままの文匣であった。原文
三条は手を洗い口をすすいで封を解く。原文
中には宸翰、つまり主上の直筆があった。原文
恐れ多いが「君恩之厚、爲傳子孫」、子孫に伝えるためにこれを写し取った、と三条の幽居日記は記す。原文原文

その宸翰の写しが、蘇峰の元本に載る。原文
昨春以来、異国のことで国家のために種々配慮し、その忠魂は抜群であったのに、関東に差し支えの取り計らいがあったとかで、思いもかけず四公の難儀となった。原文
何度も色々と申し遣わしたけれども、武威をもって厳重に申し立てられ、承知されなかった、と主上は書く。原文
そして「武命とは乍申、忠臣却て如此相成候段誠に以歎息之至」。原文
武家の命令とはいいながら、忠臣がかえってこのような有様になったのは、まことに歎息のきわみである、と。原文原文

品は「甚輕少乍赤面送遣候」、ごくわずかで赤面するほどだが送る、とある。原文
「暫之間煩心爲慰、且朕之心中を申述印迄如斯候事」。原文
しばらくの間の煩いを慰めるため、また自分の心中を述べる印までに、こうするのである、という。原文
末尾には「又々宜時節到來候はゞ、面會之期只管待申候事」。原文
またよい時節が来たなら、会える日をひたすら待っている、と結ばれていた。原文原文

この宸翰は三条だけでなく、落飾した諸公いずれにも賜ったものだと蘇峰はいう。原文
そして「拜讀して、申上で可き言葉がない」と述べる。原文
これを読めば、井伊直弼いいなおすけとその党与がどれほど暴威を振るい、主上にこのような言葉を発せしめるに至ったかに、思いが及ぶはずだ、と蘇峰は記す。原文
四人の重臣を主上の側近から一掃して厳しく処したのは、出先の役人の仕事ではなく、明らかに江戸からの差図であり、その指揮者は井伊直弼であった。原文
井伊の功罪を論じる者は、この一事を忘れてはならぬ、というのが蘇峰の断である。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 265

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澹空の受書と、長きあやめ

三条実万は、その日のうちに受書を書いた。原文
署名は「澹空」。原文
「唯々恐入、思召之難有儀、感淚難抑畏存候」。原文
ただただ恐れ入り、お心のありがたさに涙をおさえがたい、と述べる。
ただし内密のことなので、口頭では返事を申し上げず、封をして文庫に入れ、中務大輔の富小路敬直から献上してもらうよう頼んだ。原文
宸翰そのものも、御旨により返上した。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 266

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同じ日の亥刻、午後十時ごろ。原文
本家から使者が来て、女房奉書とともに賜物が届いた。原文
「此黄金二十兩御絹三匹下され候」。原文
落飾が済んだので、黄金二十両(当時のお金の単位)と絹三匹を下される、というものだ。原文
三条は「感淚數行難抑、沾衣袖了」と記す。原文
涙が幾筋も止まらず、袖を濡らした、と。原文
そして神仏と先祖を拝礼し、君恩を申し上げた。原文原文

三条は病で寝床にあった。原文
「たらちねの行末遠きためしには、長きあやめの根をや引かまし」。原文
父の行く末が長くあるように、長い菖蒲の根を引こう、という歌だ。原文
三条は返した。原文
「子をおもふ澤べのたづのけふは猶、あやめの長き契りをぞしる」。原文
「此父にして此子あり、此子ありて此父あり」と蘇峰は記す。原文原文

異国一件終末の賞賜

四人の落飾が落着すると、主上は「異国一件」の終末として、在廷の諸臣に賞賜を行われた。原文
主上が幕府の威迫に折れたのは、鎖国の旧法に立ち戻るという条件があったからだ、と蘇峰はいう。原文原文

長橋局記が伝える賞賜の内訳は細かい。原文
帥宮の有栖川熾仁親王へ白銀二十枚。原文
議奏と伝奏(取り次ぎ役)の役人七人、すなわち久我建通こがたけみち、徳大寺公純、中山忠能なかやまただやす、裏松恭光、正親町三条実愛、広橋光成ひろはしみつしげ、坊城俊克ぼうじょうとしかつへ黄金二枚ずつ。原文
そのうち久我、中山、正親町三条の三人には、別に「極々御內々御手づから」、ごく内々に手ずから、銀糸の綴れ織の紙入に黄金二枚を入れて下された。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 268

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新たに議奏となった飛鳥井雅典へ金十両。原文
列参した堂上(朝廷の上級の貴族)八十四人へ金二両ずつ。原文
別段に建白(意見書の提出)した堂上六人へ五百匹ずつ。原文
列参した非蔵人五十二人へ三十両。原文
勤番の堂上百九十二人へ二百匹ずつ。原文
八条隆祐へ五百匹。原文
旧伝奏の万里小路正房へ金二十両、大原重徳おおはらしげとみ、千種有文、岩倉具視、富小路敬直へも同じく。原文
その原資は、嘉永七年の御炎上の際に関東から献上された一万両のうちの五千両であった、と長橋局記は記す。原文原文

昨春以来の異国一件で、久我、中山、正親町三条の三人が誠忠を尽くしたことに「深叡感之由」、深く感じ入っておられる、と種々の沙汰(通知・命令)があり、近々恩賜があると仰せられた。原文
中山は「實聖明之叡念及感泣」と書く。原文
まことに聖明のお心に、涙にむせんだ、と。原文
中山は祐宮、のちの明治天皇の生母中山慶子の父であり、久我は当時、主上の文事秘書官長の任にあった者だ、と蘇峰は説明する。原文原文

「暫御猶豫」と、御歎息

昨春、堀田正睦が上京して言上したが、仮条約の通りにすることは許容しがたく、関東の処置にも不審があった。原文
「偏に公武御合體にて外夷を相遠け、是迄之御國法に引戾し、御安意被爲在候樣可致旨言上有之」。原文
いまはしばらく猶予して、関東の処置と世間の事情を見ておられるお考えなので、各自沈静に心得るように、と。原文原文

主上はただこの一事、鎖国の旧法に引き戻すという言上のために、一切を犠牲にして辛抱された、と蘇峰は読む。原文
であれば幕府は、この辛抱について重大な責任を自ら負ったことになる、と蘇峰は書く。原文原文

大原へは戒めの内沙汰も添えられた。原文
忠勤はよいが「事不成就時は、却而英明を失ひ可奉候間、能々相心得、時勢も相考可申」。原文
事が成就しないときは、かえって主上の英明を損なうことになるから、よくよく心得て時勢を考えよ、というものだ。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第19章 NDL コマ 270

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主上は異国一件について種々物語りされた。原文
「去秋已來關東疑念重疊、枝葉之儀、暴政實有御歎息」。原文
去年の秋以来、関東への疑念は重なり、枝葉のことにまで及ぶ暴政に、まことに御歎息であった、と中山は記す。原文
そして中山の誠忠を賞して、手ずから一包を賜った。原文
紙入の中には判金二枚、煙草入一対、煙管筒、末広一握。原文
中山は過分だと再三辞したが、叡慮は決まっていると仰せられ、ついに拝受した。原文
「不計再蒙恩勅之儀、餘身深畏存令感泣」。原文
思いがけず再び恩勅を蒙り、身に余って涙した、と。原文原文

「暴政實有御歎息」の一句は、主上の胸中を「描き出して、遺憾なし」と蘇峰は書く。原文
主上は井伊一派のやり口に満足しなかっただけでなく、安心もできなかった。原文
一方には聖旨を奉戴するという保証があり、他方には威力で側近を圧迫されている。原文
だから「暫御猶豫」であったのだ、というのが蘇峰の結論である。原文原文

「面會之期只管待申候」。原文
会える日をひたすら待つ、とだけ書かれた一行を、当時の京都でいったい何人が読んだのか、と考えることもできる。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文に日付が 1 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 11 名のうち 8 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件) 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物三条実万三条実美中山忠能久我建通井伊直弼坊城俊克大原重徳広橋光成年1859安政