四壁皆攘夷党なり ―― 文久三年五月、徳川慶喜の東下と辞表提出

あらまし

徳川慶喜は将軍の後見職という立場にありました。文久3年(1863年)5月、その慶喜は京都から江戸へ向かいます。外国を追い払えという天皇の命令を受けての東下でした。そして到着から1週間とたたないうちに辞表を出しました。

近江の土山駅では、岡部駿河守の泊まる宿が刺客に襲われます。慶喜は空のかごを行列に残し、駿河守を先に発たせました。京都と江戸の間120里に16、7日。遅れの理由は、生麦事件をめぐる賠償金10万ポンドにありました。支払いは避けられないと承知していました。

自分が着く前に済ませようと道中を緩めたと『徳川慶喜公伝』は記します。京都では関白らに内々の承認を得ていました。表向きは条約を破ると言い立てていたとも、同書は書いています。支払い期限の5月3日を過ぎ、英国代理公使の勢いはいっそう強まったと蘇峰は伝えます。慶喜は8日の夕、神奈川の宿で神奈川奉行の浅野氏祐らと会いました。

話を切り出そうとする浅野を手で制し、周りはみな外国を追い払う考えの者だから用心せよと告げます。そのうえで、賠償金を払う方針はよくない、強く談判せよと説きました。浅野の反対を聞かず、慶喜は今夜江戸へ入ると言い、近習4、5騎と駆けました。江戸の空気は京都と正反対で、外国を追い払うことに反対する声が濃厚でした。蘇峰の見立てでは、慶喜はもともと開国の考えで、追い払う側を装った役者です。

9日、慶喜は城に出て決行を説き、井上信濃守と杉浦正一郎を談判の委員に任じました。もっとも、幕府に初めから談判の意思はなかったと『徳川慶喜公伝』は述べています。14日、慶喜は江戸の幕閣に相談もせず、関白へ辞表を送りました。勝算はなく討ち死にの覚悟だったが、同じ考えの者は1人もいない、という内容。17日には老中の水野忠精と板倉勝静へ長い理由書を出します。

京都では手ぬるいと言われ、関東では無謀だと見られている、と訴えました。将軍に取って代わる気だといううわさは、慶喜には辞職の格好の口実になったと蘇峰は見ます。江戸では小笠原長行が独断で賠償金を渡しました。武田耕雲斎と大場一真斎は、これを天のとがめを免れない大罪だと書き送っています。蘇峰は、京都と江戸で言うことを変えたこの二重の態度を、公明さに欠けると評しました。

攘夷を命じられた慶喜が辞表に至るまでの経過を、蘇峰の評と『徳川慶喜公伝』の記述からたどれます。

目次

近江の土山駅。原文
刺客数人が、岡部駿河守の旅館を襲った。原文
駿河守は難を逃れた。原文
だが前途を案じた徳川慶喜とくがわよしのぶは、行列に空の駕籠を残し、駿河守を先に発たせた。原文
尊攘派が駿河守を、井伊、安藤の遺志を継ぐ者と信じていたためだ、と蘇峰は『徳川慶喜公伝』を引いて記す。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 272

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

攘夷(外国を追い払うこと)の勅旨を奉じ、五月十日の拒絶期限を控えての東下である。原文
ところが京江戸間百二十里(距離の単位でおよそ4キロ)に、十六、七日を費やした。原文
最も急を要する用件を抱えながら、なぜわざと遅れたのか。原文原文

熱田の一書と浜松の親書

答えは、生麦事件の償金にあった。原文
英国代理公使(外国政府の代表)と幕府との間には、十万磅の賠償問題が横たわっていた。原文
慶喜はその支払いを避けられないと熟知していた。原文
しかし自分がその責を負うことは避けた、と蘇峰は書く。原文原文

慶喜公伝によれば、慶喜は在京中から償金は払わねばならぬと覚悟し、関白(天皇を補佐する最高の官職)の鷹司輔熈、前関白の近衛、中川宮にも申して内密の承認を得ていた。原文
表向きは破約攘夷を断行すると声言して東下する。原文
そこで帰府以前に交付を終わらせようと、故意に旅程を緩めた。原文
胸中の秘密は公言しなかった、というのである。原文原文

その一方で慶喜は、四月二十六日、熱田駅から江戸の閣老へ攘夷実行の長文の書翰(手紙)を送っている。原文
いずれも表面の宣言であろう、と慶喜公伝は言う。原文原文

償金交付の期限は五月三日だった。原文
代理公使が小策に乗るはずもなく、権幕はますます激しくなった、と蘇峰は伝えている。原文原文

慶喜は東下の途中、神奈川奉行(幕府の役人)に命じた。原文
五月七日に小田原に着くから老練な組頭(組の長)一人を旅館へ出せ、神奈川に泊まった際には横浜居留地も巡覧する、と。原文
神奈川奉行の浅野氏祐は、組頭の松村忠四郎を小田原へ遣った。原文
すると慶喜は、居留地の巡見は止める、奉行両人は八日の夕に神奈川の旅館へ来よ、と命を改めた。原文原文

八日、神奈川。原文
浅野が口を開こうとするのを、慶喜は手を左右に振って制した。原文
「四壁皆攘夷党なり、注意せよ」。原文
四方の壁の向こうは皆攘夷党だ、気をつけろ、というのである。原文
やがて声を励まし、今般の東下は拒絶と鎖港のためであり、関東が償金に決しようとしているのは最も不可だ、強硬に談判せよ、と説いた。原文
浅野は侃々諤々、その不可を陳じた。原文
慶喜は聞くはずもなかった、と蘇峰は記す。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 273

斯くて奉行淺野氏祐は、侃々諤々として、兩ながら其の不可なるを陳じたが

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

慶喜は厠に立った。原文
座に戻り、卒然として言った。原文
思う仔細があるから今夜江戸に入る、この駅に馬はないか。原文
浅野は奉行所備え付けの駿馬数頭を牽かせ、慶喜は近習四、五騎を従え、一鞭を当てて江戸へ疾駆した。原文原文

九日の登城、十日の談判

帰府した慶喜は、江戸の空気が上方と真反対に、濃厚に否攘夷であることに驚かざるを得なかった。原文
彼はもとより攘夷に成算はなく、心中は攘夷反対論者だった。原文
勅諚だからといって錦旗の前に討死するほどの決心も熱心もなかった、と蘇峰は見る。原文
では何のために帰府したのか。原文
江戸で時機を見て辞職するためではなかったか。原文
京都の悪気流を脱して安全地帯に出ようとしたのではないか。
「兎にも角にも一橋慶喜は全く役者であつた」、開国家でありながら攘夷家の扮装をした、というのが蘇峰の断である。原文原文

九日、慶喜は登城(江戸城に出仕すること)し、諸有司に攘夷決行を諭した。原文
町奉行(江戸などの町を治める役人)の井上信濃守と目付(監察役)の杉浦正一郎を鎖港談判の委員とし、拒絶応接は委任したから存分に取り計らえと訓令し、十日から談判を開かせた。原文
幕府には初めから談判開始の意がなかった、と慶喜公伝は言う。原文原文

杉浦梅潭の談話が、蘇峰の疑いを補う。原文
四月、井上と杉浦は慶喜の前に呼ばれ、余り過激な取扱いはするなと言われた上で、仏か米かの外国船に乗り組めと命じられた。原文
「至て深き御旨意」で委細は言えぬが是非行け、と。原文
梅潭は、外国奉行(外交を扱う役)と目付を拒絶談判に遣ったという名目で漂航させ、日を稼ぐ間に何かの計略があったのではと臆測しつつ、「橋公御智慧深沈にて何分窺測し難き所あり」と述べている。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 276

此程一橋公御下著に相成候間、奧右筆組頭樋口喜左衞門達し有之候故、兩人一橋殿御前へ罷出、種々御申聞もありたれど、要」にに、餘り過激の取扱は致す間敷とのこと、殊に兩人、佛蘭西船にや、兩人參り乘組候樣との御沙汰なり

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

五月十四日、突然の辞表

帰府して一週間に満たぬ五月十四日。原文
慶喜は在府の幕閣(幕府の上層部)にも諸官僚にも諮らず、関白鷹司輔熈へ辞表を出した。原文原文

今回攘夷の聖旨を奉じて東帰したのは、まったく勝算があってのことではない、というのである。原文
綸言は汗の如く、幕意にも背けぬゆえ、ただ関東有司とともに討死する心底だった。原文
だが閣老以下同心(下級役人)する者は一人もなく、かえって臣を疑い、胸中に禍心を包蔵すると横議が生じ、勅旨は貫徹できない。原文
よって謹んで罪を闕下に待ち、当職御免を願う。原文
そう記している。原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 277

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

慶喜自身は後年これを否定した。原文
京都を離れて僅か四日、目付の堀宮内の言を聞いただけで重職の辞表を出すのは片手落ちで軽率だ、と。原文
蘇峰は、久しい年月を隔てた回想が精確かは明白でないとしつつ、第一の辞表が四月二十六日でも五月十四日でも大体に差支えはない、「問題は彼が出京当時の心事だ」と言い切る。原文
彼は帰府すれば辞表が結論だと予期していたのであろう、と。原文原文

因循と無謀のあいだ

五月十七日、慶喜は上方の老中(幕府の重臣)水野忠精、板倉勝静へ長文の理由書を送った。原文
熱田で堀宮内から償金が渡されると聞いて大いに驚いたこと。原文
神奈川で奉行両人が怒気を含み、どういう訳で攘夷の御請けをして帰府したのかと詰問したこと。原文
将軍の御身がどうなろうと皇国の御為には代えられぬ、この上強いて攘夷をすれば「小子を差殺候もの必出來可申」、私を殺す者が必ず出るだろう、と言われたこと。原文
江戸では、攘夷は名で実は大望あり、将軍滞京中に代わろうとする野心だ、との雑説が起こり「先年之嫌疑」が再び生じたこと。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 279

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

京都では因循と、関東では無謀と、それぞれ人に目を付けられている、と慶喜は書く。原文
これはいかにも実情だ、京都での姑息家は関東では過激家となる、慶喜は割の悪い役目を勤めた、と蘇峰は同情を寄せる。原文
同時に極密の追書で、後見(幼い当主を補佐する役)職御免の上は「何卒実家え御戻候様」、水戸家へ戻してほしいと願った。原文
将軍に取って代わろうとするとの幕吏の邪推は、慶喜には「勿怪の仕合」、辞職の恰好の口実になった、というのが蘇峰の見立てである。原文原文

慶喜には辞職が最も賢明だったかもしれない。
だが前には総裁職の松平慶永まつだいらよしながに去られ、今また後見職に去られる、丁年にも達しない家茂の心細さはいかばかりか、と蘇峰は書く。原文
一身の安逸のためではないという弁疏も「恐らくはその申訳は立つまい」と。原文原文

在府閣老への書には「淺智無識之至」、浅い知恵、無い見識の極み、と自ら記した。原文
誰もそうは思わぬ、彼は多智で多識だ、欠けているのは方針を定めて推し進める「経世的大度」だ、と蘇峰は評する。原文原文

小笠原長行の独断償金

水戸家の重臣、武田耕雲斎と大場一真斎が在京の水戸家老(藩の重臣)鈴木縫殿へ送った五月十四日付の書状は、硬派の見た江戸を伝える。原文
船には水野忠徳が乗り組んでいた。原文
両人はこれを「聞ゆる償金家」と呼ぶ。原文
払うものは払い、理非は明らかにし、約束は守る、それが忠徳の意見で、彼は幕吏中の硬骨漢だった、と蘇峰は補う。原文原文

九日の城中評定を、両人は「満営臆病神に被取付候者故」、城中の者が皆臆病神に取り憑かれていた、と書く。原文
応接に堪える人物さえ乏しく、夜には幕議が動いて杉浦は御免を願った。原文
そして小笠原長行が独断で償金を渡した。原文
巷説では夷人が大砲で取り囲んだためというが、両人はこれを「天下之大罪、天誅を不容者」、天誅を免れぬ者と断じる。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 289

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

小笠原自身は五月九日、井上河内守へ書いている。原文
これは予定の行動で、一時の出来心ではなかった、と蘇峰は察する。原文
大場、武田は責任を全て小笠原に帰した。原文
だが慶篤は当初償金支払いに賛成し、慶喜は出立前にそれを予見していた。原文
両人の良心がそう言い切ることを許すはずはない、と蘇峰は書く。原文
そしてこの事件で男を上げたのは、小笠原長行一人だ、と。原文原文

何処迄が本音か

慶喜を二重人格者と言わぬなら、その態度は二重態度と言わねばならない、と蘇峰は結ぶ。原文
京都では関白や中川宮に弁償のやむなきを承認させ、江戸では小笠原と黙契しながら、世間には償金反対、即刻攘夷を声言した。原文
そして一切の結論を辞表で了えようとした。原文
難局に処する心事は諒とすべきだが、直截と公明を欠く、と。原文原文

蘇峰はさらに広く見る。
当時の攘夷は不是、不可であるばかりでなく不可能だった。原文
不可能なものを中心に公武合体を成そうとするのは「空中の城」であり、波濤に向かって砂丘を築くより難しい。原文
孝明天皇の思召は平和的攘夷と平和的皇権恢復にあり、討幕の思召はなかった。原文
開国進取の道を天皇に啓沃する者がいなかったのは遺憾だ、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』第18章 NDL コマ 295

要するに攘夷を中心としての公武合體は、正しく空中の城であつた

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

その鞭の一振りに、どこまでの本音と、どこまでの声色が込められていたのか。原文
蘇峰が投げたその問いは、今も読む者に返ってくるのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228673
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻4』PID 1046672
日付・人名本文に日付が 11 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 8 名のうち 8 名が『維新史料綱要 巻4』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物徳川慶喜松平慶永年1863文久