あらまし
前将軍慶喜の身を惜しんだ勝一派が降参を選んだ、と蜷川新は見ています。慶応4年(1868年)7月16日、新政庁は江戸にある旧旗本以下の屋敷を取り上げる命令を出しました。江戸城が明け渡されてから3か月あまりのことです。
命令は、朝廷の政治が新しくなり江戸に軍の役所を置くためだと説明します。徳川の家臣、医師、奥女中、御用商人から一般の町人までが対象。その年1年分の地代だけは今までどおり渡すとされました。新しく朝廷の家臣になった者には、改めて土地を下げ渡すともあります。蜷川は、この1年分をとても寛大な扱いと呼んだ一枚の紙を冷ややかに見ています。
引き渡しの後の旗本屋敷は、御用があるから差し出せという一札で片づいた、と蜷川は記します。上位の旗本は上屋敷が2000坪、下屋敷が5000坪ほど。部屋は50も60もあり、家来の長屋が周囲を囲み、土蔵には300年の宝が納められていました。神田小川町にあったある相模守の家は地坪1700坪、建坪およそ700坪、部屋60、馬15匹。旗本は幕府直属の武士で、1万石を境に大名と分かれる身分でした。
奉行や目付として300年の政治を担った、と蜷川は説明します。大名と縁組みを重ねる、同じ格の身分でした。維新の後、旗本は俸禄を失い屋敷を追われ、明治の初めには暮らしの道を絶たれます。子女が芸妓や茶屋女となり、自ら命を絶った者や行方の知れない者も多く出たと蜷川は書きます。蜷川はこれをロシア革命のやり方に重ね、なぜ大名の屋敷は取り上げなかったのかと問いました。
屋敷を離れた人々は家財を売って駿遠参へ移り、働かずに細々と暮らしたといいます。空いた屋敷に入った勝者は急ごしらえの殿様となり、江戸の人を見下したと蜷川は伝えています。命令の前から江戸の空気は張りつめていました。蜷川の父は小石川の下屋敷で夕飯の最中に撃たれ、弾は座敷の横木に当たって無事でした。上野に放置された彰義隊の死者を葬ったのは、神田旅籠町の人足宿の三河屋幸三郎でした。
蜷川は幕末の10年に外国奉行、海軍、造船所、学校が整えられたと数え上げます。明治政府はそれを受け継いだにすぎない、と断じました。旗本の子孫が今も見下されるのは無理もない、と蜷川は認めます。そのうえで責める先を、敗者を導いた者と勝者のおごりに向けました。60の部屋と15匹の馬を持った家が、駿河で働かずに暮らす一家になったこと。その屋敷の地図は、今もその家に残っています。
屋敷の召し上げから旗本の暮らしの崩れまでを、蜷川新の記述に平山成信『明治戊辰の回顧』、万里閣の『戊辰物語』、山川健次郎の序文を重ねてたどれます。
慶応四年七月十六日、江戸
慶応四年(1868年)七月十六日。原文
江戸城が明け渡されて三か月あまり。原文
新政庁は、江戸にある旧旗本(将軍直属の武士)以下の屋敷を没収するという命令を発した。原文
蜷川新はその文面を、この章にそのまま掲げている。原文原文
文はこう始まる。
「朝政御一新に付、江戸へ鎮台被差置候に付ては、徳川家臣を始め、医師、奥女、其外用達町人平町人等に至迄」。原文
朝廷の政治が新しくなり江戸に鎮台を置くことになったので、徳川の家臣をはじめ医師や奥女中、御用商人から一般の町人まで、というほどの意味である。原文
続けて、身分や由緒によって江戸の町地を受領してきた分は「今般上地被仰出候間」とある。原文
このたび土地を召し上げると命じられた、と読む。原文原文
ただし、それでは長年住んできた者が急に困るだろうから、「当辰壹ケ年の地代は、是迄の通被下候」。原文
そして朝臣に取り立てられた者の受領地は、改めて下げ渡す。原文
一年分の地代を「格別寛大の御処置」と呼んだこの一札を、蜷川は冷たい目で見ている。原文原文
蜷川によれば、江戸城引き渡しの後、旗本の屋敷はすべて「御用有之上地仰付」という一札で処理された。原文
御用があるので土地を差し上げよ、との命令である。原文原文
神田小川町、一千七百坪
没収された屋敷とはどんなものだったか。原文
蜷川はその大きさを数字で残している。原文原文
上格の旗本は上屋敷が二千坪、下屋敷が五千坪ほど。原文
部屋数は五十間、六十間に及ぶ屋敷もあり、周囲を家来の長屋が取り囲む。原文
芝居で知られる吉良上野介の屋敷の形がそれだ、と蜷川はいう。原文
土蔵は多い家で五つも六つもあり、そこには「三百年来秘蔵せる得難き財宝」が納められていた。原文原文
蜷川は一例として、ある相模守の家を挙げる。原文
神田小川町に上屋敷があり、地坪一千七百坪、建坪約七百坪。原文
部屋の数は六十、乗馬は十五匹を飼っていた。原文
その屋敷の地図は今もその家に保存してある、と蜷川は記す。原文原文
では旗本とは何者か。原文
旗本とは幕府直属の武士、すなわち直参という身分の名であり、大名と並ぶ「地頭」である。原文
一万石(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)が二者の境で、それ以上を大名、以下を旗本と呼んだにすぎない。原文
旗本は老中(幕府の重臣)や若年寄(老中の補佐役)にはなれないが、「奉行(幕府の役人)」「目付(監察役)」の名で三百年間、国家の政治を司った。原文原文
大名と旗本は同格で、互いに婚姻を通じた。原文
相当大きな大名でも旗本から養子に入った例はいくらもある、と蜷川はいう。原文
足利の子孫である喜連川家は五千石だったが、代々朝廷から従四位を受けた。原文
従五位の大名より上である。原文
一万石から三万石程度の大名には居城もなく、陣屋があるだけという点で大旗本と変わらなかった。原文
禄高は少なくても暮らし向きは旗本のほうが楽で、三千石以上の家になると大名より富んでいたのは当然だった、と蜷川は書く。原文原文
この同格の武士が、維新後にどうなったか。原文
禄は奪われ、屋敷は追われ、地方の藩士には想像もつかない窮迫に陥った。原文
明治の初年には生計の途を失い、子女は芸妓や茶屋女となり、貧の極みに自殺した者、行方の知れなくなった者が無数に生じた。原文
「今日の所謂失業だ」と蜷川はいう。原文原文
蜷川はこの没収を、一九一七年のロシア革命がブルジョアの土地財産を取り上げたのと「同様のやり口」だと評している。原文
そして問う。
なぜ大名の屋敷はすべて没収して公平を保たなかったのか。原文
これが正しい社会政策といえるのか。原文原文
降参の主張者
なぜ旗本は「腰抜け」になったのか。原文
蜷川はこの問いに、旗本を罵るよりも理由を究めるほうが「世道人心上に意義が深い」と答えている。原文原文
旗本の中には、才能も胆力も反幕の人々に劣らぬ人物がいた。原文
そのほかにも多くの傑士がいた。原文原文
そして「同僚の数万人以下数十万は、全然犠牲にして顧みなかった」。原文
慶喜の身を惜しんで敵と内通した勝一派の「降参主張者の勝利」という奇怪な現象がなければ、旗本もあれほどの悲哀には落ちなかっただろう、というのが蜷川の見立てである。原文
「源濁れり、末流は汚水だ」。原文
上に立つ者を得るか否かで一党一派の浮沈が決まる、とも蜷川はいう。原文原文
豊臣の一類はみな死んで武家の歴史に輝きがある。原文
江戸城は空しく降服し、数万の武士は「唯だ永遠に生き耻を曝したるのみ」。原文
「悲惨なる哉」と蜷川は結ぶ。原文原文
旗本たちは薩長の配下となって江戸に留まることを「信義に合せず」と考え、一切の家財を売って駿遠参、つまり駿河・遠江・三河の地方へ移り、徒食しながら辛うじて暮らした、と蜷川は伝える。原文
空いた屋敷を占領した勝者は「成金式俄殿様」となり、江戸人を嘲りつつ栄華を夢みた。原文
これが「江戸社会の一大変化」であった。原文原文
錦の小切れ
没収の命令が出る前から、江戸の空気は殺気を帯びていた。原文
蜷川はその空気を、自分の家の話で伝える。原文原文
蜷川の父は将軍徳川家茂に侍した人で、慶応三年(1867年)の初めに小川町の本邸を引き払い、当時は片田舎だった小石川の下屋敷に住んでいた。原文
ある日の夕方、二階で夕飯をとっているとき、庭園に隣接する旧幕府の薬園の樹陰から狙撃された。原文
弾丸は座敷の長押に当たったが、父は幸いに助かった。原文
今の東京帝大植物園内、学生の集合場のある地点にその二階屋があった、と蜷川は場所まで書く。原文原文
彰義隊(旧幕府側の武士がつくった部隊)の戦いがあった夜には、三名の残党が下屋敷の山中に隠れた。原文
一家は「今夜こそは官軍(新政府側の軍)より襲撃せられて、一家皆な斬殺せられることであらう」と覚悟を決めた。原文
残党は夜中に去り、事なきを得た。原文
蜷川はこれを幼いとき母から聞いた、と記す。原文
官軍の兵は肩に錦の小切れを付けていた。原文
この小切れを付けた連中は「頗る暴慢無礼」で、少しでも体に触れれば即座に斬られるという風だった。原文
これも幼時に当年の老人から常に聞かされたことだ、と蜷川はいう。原文
死人が屋敷の前にあれば、その埋葬は屋敷の主人に命じられた。原文
これは河内全節という幕府時代からの漢方医から聞いた話で、「斬り捨て御免」であった、と蜷川は書く。原文原文
同じことは男爵平山成信の「明治戊辰の回顧」にもある。原文
昌平学校の同窓河島の父が、物好きに戦争見物に広小路へ出かけ、官兵の一人に斬りつけられ、自宅の門前まで逃げ帰って倒れて死んだ、と回顧録は記す。原文
蜷川はこれを、無辜の江戸人が「理由なくして」斬られた例として引く。原文原文
万里閣発行の「戊辰物語」からも、蜷川は数か所を引いている。原文
官軍が彰義隊の死者の内股の肉をえぐり取り、江戸っ子が「肉鍋にでもして食ふのだらう」と噂した話。原文
黒門町の吉祥閣は勅額が掛かっていたから砲撃されまいと安心していたところ、これが燃え、銅の屋根から青い火柱が立った話。原文原文
上野の山に累々と腐れ出した彰義隊の屍を見かねて葬ったのは、神田旅籠町の人足宿の俠客三河屋幸三郎だった。原文
三輪の円通寺住職と相談し、隊士の屍を引き取ってことごとく埋葬した。原文
官軍は人を殺してそのまま、大将である西郷隆盛も長州の大村益次郎も、埋葬という「人道的の事業」に何の注意も払わなかったと見える、と蜷川は書く。原文原文
幕末の功績と江戸の統治力
蜷川の筆は、殺伐の記憶から、消された功績へ向かう。原文原文
幕末の十年、幕府は外国の文化吸収に「少しも怠慢はなかった」と蜷川はいう。原文
外国奉行(外交を扱う役)が置かれ、旗本中の人材が当たった。原文
仏国士官の訓練で歩騎砲の三兵が整い、兵は侍からだけでなく一般人から募られ、入れ墨の町人も多くいた、と蜷川は古老から聞いている。原文
海軍もでき、造船所も製鉄所もできた。原文原文
昌平黌、開成所、医学所は今日の帝国大学の前身。原文
薬園は今の小石川植物園。原文
両替屋が今日の銀行の元で、紙幣貨幣も為替もすでに研究されていた。原文
北海道も小笠原島も開拓された。原文原文
外交も軍事も財政も経済も教育も拓殖も、幕府末年の十年間に奉行・目付の努力で始まり、明治政府に伝えられたにすぎない。原文
「明治と慶応とによりて、此等の政治が、俄然として一大進展した事実は決してない」と蜷川は断じる。原文
岩倉、木戸、大久保、伊藤らが外遊して西洋の文化を理解したのは明治五年のことであり、明治元年から十年までは国内の不平反乱が相次いだ、とも記す。原文原文
ここで蜷川は問う。
江戸を創めたのは太田資持、一大都市として開いたのは徳川家康である。原文
西郷隆盛は江戸の開祖ではなく、大村益次郎は江戸の建設者ではない。原文
それなのに東京には薩長人の銅像ばかり多い。原文原文
蜷川は文学博士高山林次郎の文章を四篇引く。原文
西郷は維新の功臣だが「其末路に於て国賊なり」、帝京第一の公園にその銅像を建てるのは「失体」だという論。原文
奠都三十年祭に熱中する江戸人のうち、前将軍慶喜の入京を歓迎した者が一人でもいたか、という問い。原文
甲州の男は脱帽して信玄を語り、仙台の走卒は額に手を当てて貞山公を説くのに、江戸人はなぜ「権現様に冷やかなる」か、という嘆き。原文
蜷川はこれらを、自身の主張の裏づけとして並べている。原文原文
安政の大地震のときは八百八丁に警戒が即座に行き届き、騒擾は起こらず、人々はただちに火災を防いだ。原文
これは町奉行(江戸などの町を治める役人)の能力であり、大正の大地震に比べて「遙に秩序ありし」と蜷川はいう。原文
彼が惜しんでいるのは屋敷ではなく、屋敷とともに消えた統治の力そのものだったのかもしれない。原文
武家に武器あるは
蜷川がこの章の途中に置いた、山川健次郎男爵の序文がある。原文
昭和三年八月の日付をもつその文に、こういう一節がある。原文原文
小栗は一回の訊問もなく河原に引き出され、荒筵に坐らされて縛首の刑に処せられた。原文
陣屋に武器が多かったことを彼らは罪としたが、「武家に武器あるは猶商家に商品あるが如し、何ぞこれを以て罪とすべけんや」。原文
武家に武器があるのは商家に商品があるのと同じで、それを罪とはできない、と山川は書いた。原文原文
同じ論理は、屋敷にもあてはまるのではないだろうか。
武家に屋敷があるのは、商家に店があるのと同じだったはずである。原文
それが「御用有之」の一札で消えた。原文原文
蜷川は旗本の子孫が今も馬鹿にされることを「無理はない話」と認める。原文
「武士の降参程意気地のないものは凡そ世の中に他にはあるまい」とも書く。原文
しかし責める先は敗者ではなく、敗者を導いた者と、勝者の驕りに向いている。原文
「勝者は驕るものである」。原文
「過去は未来への警めである」。原文原文
慶応四年七月十六日の一札は、地代一年分を「格別寛大」と呼んだ。原文
その寛大さの後に、六十間の部屋と十五匹の馬を持った家が、駿河の田舎で徒食する一家になった。原文
その家に今も残る屋敷の地図を、子孫はどんな顔で開くのだろうか。原文
| 元本 | 蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005 |
| 日付・人名 | 本文の日付 3 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 3 名は、元本との逐語一致で確かめています。この記事の年代は『維新史料綱要』の巻の範囲外です。 |
本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。
