あらまし
小栗忠順は、幕府で目付(監察の役)を務めた人物です。安政七年(1860年)、すなわち万延元年の正月、その小栗が夜半に馬を飛ばし、江戸下谷の一軒の隠れ家めいた住まいの門を叩きました。相手は剣の師、藤川整斎でした。
この夜の場面を書き残したのは流泉小史の一文「剣豪秘話」で、蜷川新が『維新前後の政争と小栗上野 続』に全文を収めています。蜷川はこれを、小栗という人を知るために欠かせない材料と呼びました。日取りははっきりしません。使節が品川沖を出る正月18日の前々夜か、さらに一日前の夜か。正使は新見豊前守正興、副使は村垣淡路守範正、従者を合わせ71名がポーハタン号に乗る段取りでした。
小栗が誰に剣を習ったかについて、流泉小史は3つの説を並べます。枢密顧問官だった故某男爵の説では、島田虎之助に手ほどきを受け、のちに藤川整斎に入門したとされます。岡千仭の遺話では、最初の師は横川七郎で、その紹介により藤川の門で10年かけて皆伝を得たといいます。流泉小史の父である勘解由老人の説はさらに違い、入門の日に島田と議論して席を立ち、その日のうちに藤川の門へ移ったとします。
皆伝の約束自体は、ずっと前から伝えられていました。ところが日を決めては差し支えが出て、2、3度流れたまま延びていたのです。そこへ米国行きが決まり、万一を思った小栗が、以前の約束を果たしてほしいと願い出ました。整斎は多くを語る必要はないと答え、ふところから剣と槍と柔の奥義である天地人三巻を取り出し、そのすべてを授けます。出典は勘解由老人の手記『東奥野夫昔日記』だと流泉小史は書いています。
同じ文は、依田百川の遺録も引きます。型を捨てて竹刀の打ち合いばかりに走る風潮に、小栗は講武所教授の中条金之助へ苦言を述べ、中条は答えられなかったといいます。他人を認めない頑固者とされた整斎が、小栗だけは自分の流れを継ぐに足ると許していたと、流泉小史は伝えます。
慶応4年(1868年)2月29日、小栗は江戸城内の最後の話し合いで戦う案を退けられ、その日のうちに上州権田の領地へ引きこもりました。そこへ高崎・安中・小幡の3藩の兵1千が、謀反の証拠ありとして押し寄せます。流泉小史が数え上げた備えは、10斤砲1門と実用に堪えるスナイドル銃21挺ほど。小栗は相手の策略と知りながら自ら捕らえられ、翌日に息子の又一忠道が斬られ、6日の明け方、親子は武士にとって最大の恥である縛り首に処せられました。幕府が倒れる日に居合わせながら剣を実際に使う機会は一度もなかったと、流泉小史は惜しんでいます。
渡米直前の一夜に何が授けられたのかを、蜷川新が『維新前後の政争と小栗上野 続』に収めた流泉小史「剣豪秘話」と、そこに引かれた勘解由老人の手記『東奥野夫昔日記』からたどれます。
下谷の夜半
万延元年(1860年)正月。原文
江戸下谷、一軒の隠宅の門を、夜半に叩く者があった。原文
客は馬を飛ばして来た目付(監察役)の小栗豊後守忠順である。原文原文
この場面は、蜷川新が『維新前後の政争と小栗上野 続』に「敬意を捧げつつ」掲げた流泉小史の一文「剣豪秘話」にある。原文
蜷川はこの文を「小栗の人物を理解する上に必要なる材料」と呼び、その全文を自著に収めた。原文原文
日次は、その文でも判然としない。原文
遣米使節が品川沖で纜を解く正月十八日の、前々夜か、その一日前の夜か。原文
正使は新見豊前守正興、副使は村垣淡路守範正。原文
従者を合わせて七十一名が、米国の好意で借りたポーハタン号に乗る手筈だった。原文
三十二歳。原文
「今はときめく幕府の眼代」が、たかが市井の一老剣客(剣術家)の家を夜中に訪う。原文原文
男谷の門、藤川の門
小栗が誰に剣を学んだか。原文
流泉小史はここで三つの説を並べている。原文原文
枢密顧問官であった故某男爵の説では、手ほどきは「剣聖」男谷信友の門下の高足、島田虎之助。原文
のちに故あって島田門を去り、藤川整斎に師礼をとって允可を受けた、という。原文
鹿門こと岡千仭の遺話では、最初の師は島田ではなく、同じ男谷の流れをくむ名手、横川七郎。原文
横川の紹介で藤川の門を叩き、十年の螢雪ののちに皆伝を得た、とする。原文原文
三つ目は流泉小史の父、勘解由老人の説である。原文
小栗はまず横川の門を叩いたが、横川がこれを辞して島田に紹介した。原文
ところが入門の束修の日、小栗は島田と論を闘わせ、憤然と袖を払って去った。原文
「渠の言説根本を浮屠氏の糟粕に得、以て鬼面人を呵するに止る」と言い放ったという。原文
そして即日、藤川の門に入った。原文原文
三者三様。原文
のちに講武所で立ち合った男谷信友が「思ひきや斯人の劍にして、此の妙境に達せんとは」と嘆じたという話も、同じ文にある。原文
この人の剣がここまで達しているとは思わなかった、という驚きである。原文
天地人三巻
皆伝の内意は、実はずっと前に伝えられていた。原文
整斎は日を期して極意を授けようとし、小栗も感激してその日を指折り数えた。原文
ところが所定の日に果たせず、その後日を選ぶこと「両三」、いずれも障りがあって流れた。原文
そのうちに今度は小栗の側に支障が生じる。原文
皆伝する筈、される筈という了解が、そのまま延び延びになっていた。原文原文
そこへ降って湧いたのが渡米である。原文
親戚故旧と水盃を交わし「生還予め期し難し」と詠んで鬼が島へでも行く気の同僚たちとは、小栗は選を異にしていた。原文
未知の国に使して使命を全うしようとすれば、それだけ「万一の場合」の危険率は高くなる。原文
ならばこの際、師に曩日の約を請い、心残りなきようにしたい。原文
それが夜半の来訪の要旨だった、とこの文は言う。原文原文
整斎の答えは、勘解由老人が漢文で書き残している。原文
「吾子また多く言を費すこと勿れ」。原文
君はもう多くを言わなくてよい、老いぼれでも門に年を経た君の志くらいは知っている、というのである。
整斎は懐中を探り、当流の秘奥とする「剣槍柔の極意、天地人三巻」を挙げて悉く小栗に授けた。原文
多年の宿題だった免許皆伝は、この一夜のうちに実行された。原文
出典は勘解由老人の手記「東奥野夫昔日記」の一節だという。原文原文
流泉小史はこれを、新羅三郎が足柄山の月明で笙の秘曲を伝えた故事に似ると言いつつ、父が小栗のために筋を飾る筈もない、と断る。原文
一年で切り紙、二年で目録、三年で皆伝というような名人型の剣ではなかったろう。原文
押しも押されもせぬ一人前の剣客として通用したと見て差し支えなかろう、と結んでいる。原文原文
講武所の竹刀
小栗の剣を語るもう一つの材料として、この文は学海居士の依田百川の遺録を引く。原文原文
当時、諸流の新人剣士たちが型や組太刀を排し、竹刀の乱打をこれに代える風があった。原文
幕府直轄の講武所もこれに倣う傾向が著しい。原文
ある日、小栗は講武所教授の中条金之助に出会い、日頃の所懐を述べて苦言をすすめた。原文
「一劍死生を睹して勝敗を爭ふの時、よく竹刀亂擊の如きをなし得るとなすか」。原文
刀が鞘を離れて生死を賭ける時に、竹刀の乱打ちのようなことができると思うのか、という問いである。原文
中条は答えるところを知らなかったという。原文原文
藤川整斎は当時、保守派剣法の代表のように見られ、容易に他を許さぬ頑固者だった。原文
その整斎が小栗の剣を「真に衣鉢を伝ふるに足る唯一人」と許していた。原文
両者ともに時流に佞せぬ古流剣法の尊信者であったからか、と流泉小史は推している。原文原文
二千五百石の武器
慶応四年(1868年)二月二十九日。原文
小栗は江戸城内最後の評定で主戦論を否決され、即日冠を掛けて上州権田の采邑に隠遁した。原文原文
そこへ高崎・安中・小幡の三藩一千の兵が殺到する。原文
名目は「密々陣屋等を修理し、出丸其他嚴重に相構へ候のみならず、領內要所々々一箇ならず、砲臺ども築造候抔、叛逆の活證歷然たるもの有之」。原文
ひそかに陣屋を修理し、出丸を構え、領内の要所に砲台を築いた、これが叛逆の生きた証拠だ、というのである。原文原文
その「軍備」の実態を、流泉小史は当時の公私の記録から列挙する。原文
青銅製十斤砲一門と火薬百斤。原文
スナイドル先込単発銃二十一挺、小銃弾二千発、火薬五百斤。原文
大小刀剣約五十口。原文
長柄約二十本。原文
薙刀約二十本。原文原文
十斤砲は掛冠の日まで役宅の玄関脇に飾ってあったもので、流賊暴民を威嚇する「案山子の弓矢」代わりに持って行ったらしい、という。原文
真に使えるのは二十一挺のスナイドルだけ。原文
しかも幕府の軍役では百石(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)につき三名が戦時編成の常であり、二千五百石の小栗は七十五騎の将たる資格がある。原文
それに相当する備えがあっても叛謀と呼ばれる筋合いではない、と流泉小史は書く。原文原文
十艘の短艇
もう一つ、この話には挿話がついている。原文
最後の評定の夜か、その前後のことである。原文
小栗が世間話の末に切り出した用向きは、海軍付属の荷足かバッテイラを十艘、それに勝専用の四半の船印を船の数だけ借りたい、というものだった。原文
主戦論を吹きかけられると思っていた勝は、意外中の意外という面持ちだったという。原文
「権田村に隠退しやうと思つてな」、家財くらい持って行かねば明日から困る、と小栗は言う。原文
勝はじっと顔を見つめ、やがて「承知致した」と答え、八重洲河岸の外と、本所お竹蔵が空いていることを告げた。原文
一度も勝を褒めたことのない勘解由老人が、この一事だけは勝の「頭脳」を特記している、と流泉小史は書く。原文
こうして勝の船印を掲げた短艇で、江戸城内の秘宝は二夜にわたり本所お竹蔵へ移された。原文
運漕の首領は、小栗配下の御家人(将軍直属の武士)あがり、藤沢弘平であった。原文
四月四日、江戸城明渡しが決まる。原文
四月十一日、主客が入れ替わった。原文
城内十二戸前の宝庫は封じられ、二棟の屏風倉は徳川に、残る十棟は官軍(新政府側の軍)が没収した。原文
だがその宝庫には近く人の入り込んだ形跡があり、秘宝の影も形もなかった。原文
勝は悠然と答えた。原文
「小栗上野など在府なれば、それに訊すが一でござるが采邑退隱の後であつて見れば、それも出來ず」。原文
小栗が江戸にいれば彼に訊くのが一番だが、領地に退いたあとではそれもできない、というのである。原文
唇には嘲るような微笑さえ浮かべていたという。原文
「眠つて居た兒が搖り起され」た結果が小栗の虐殺だった、と勘解由老人の手記は言う。原文
栗本鋤雲、福地桜痴も同じ事実を肯定している、と流泉小史は添える。原文
ただし十中八九は蜷川の言う「維新前後の政争」が原因であり、この挿話は残る一分か一分五厘の隙間に割り込ませてもよい程度のもの、というのがその位置づけである。原文原文
烏川べりの一剣士
小栗を捕らえたのは、東山道(内陸を通る街道筋の古い区分)先鋒都督府監軍(軍を監督する役)の豊永貫一郎、その部下の監軍原保太郎、高崎藩物頭の大野八百之助であった。原文
小栗は彼らの詭計と知りつつ、求めるままに自ら進んで囚われとなった。原文
翌日、寸鉄を帯びない息子の又一忠道が捕らえられ、一言の陳弁も許されずに斬られる。原文
六日払暁、二百五十年の采邑を貫く烏川べりで、主従は武士として無上の恥辱である縛首に処せられ、首は梟木に掛けられた。原文
蜷川はこの死について、安政の大獄で刑場に消えた人々の中にも、小栗ほど「武士らしく落ちついた人」がいたとは聞かない、と記す。原文
辞世の歌があったと安中藩の人は伝えるが、歌は遺されていない、とも書く。原文
また蜷川は小栗を、部下に人望を得ようとする術策も、他人によく思われようとする粉飾もなく、弁解がましいことを毛頭しなかった「江戸武士の本質を具備して居た人」と見る。原文
流泉小史の文が惜しむのは、一点だけである。原文
幕府倒壊の日に当面しながら、この人は「その剣を実地に活用するの機」に一度も会わなかった。原文
思い返されるのは、万延元年正月の下谷で、懐中から出された天地人三巻である。原文
蜷川がこの一文をあえて全文載せたのは、政争の一書に、剣の一夜を書き添えたかったからではないだろうか。原文原文
| 元本 | 蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005 |
| 日付・人名 | 本文の日付 3 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 2 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻3』は、まだ項目を作っていないため突き合わせていません。 |
本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。
