あらまし
阿部正弘という幕府の老中のもとには、翌年にアメリカ船が来るという知らせが届いていました。嘉永5年(1852年)11月2日、島津斉彬が江戸の薩摩藩邸で弟の島津久光へ手紙を書きます。うわさは世間ではさほど騒がれず、老中たちだけが心配している様子だと言います。阿部から懸念を聞かされたものの、評議はまだ何も決まっていない、とも記しました。
蘇峰は、客が来る前触れはすでに届いていたと見ています。浦賀への来航を突然の出来事と受け取る人もいますが、阿部はよく承知していた、と。知っていた者が動かなかった理由を、蘇峰は4つ挙げます。知る者がごく少数で半信半疑だったこと、相手の狙いが読めなかったこと。さらに、時が来ればどうにかなると当てにし、世の空気が泰平に酔っていた点です。
松平慶永は、将軍徳川家慶を平凡で将軍の器ではないと評しました。蘇峰は、家慶が水野忠邦と阿部という2人の老中を得たことに触れます。厳しい霜のあとに春風が来た順序は幸いだった、と。阿部、水野忠邦、井伊直弼の3人では阿部を第一に置くのが蘇峰の見方です。水野は大名に対して天下を治め、阿部は大名とともに治めようとした、とも記しています。
阿部と斉彬を引き合わせたのは慶永でした。水野が薩摩は油断できないと言っていたが、どう思うか——阿部の内々の相談。越前邸での対面のあと、阿部は思い違いをせずにすんだと喜びました。2人はやがて手を結び、徳川家定と島津篤子の政治的な結婚も成ります。阿部は水戸家に命じて佃島で洋式の軍艦を造らせ、費用を惜しむ声を笑って退けています。
嘉永6年(1853年)2月2日、斉彬は国家老(国元で藩政をあずかる重臣)の島津久宝にも書き送ります。幕府の能吏筒井政憲の見立てでは、貿易を許せばロシアや英仏も言い立ててくる。言い争いが募れば、戦うしかない、と。備えが十分でないことを筒井は心配し、斉彬もまったく同じ考えだと書きました。軍艦こそ第一の良策だが、費用を嫌う勘定方に阻まれて通らない、とも述べています。
朝廷の側では、収入の少ない公家の救済が老中へ内々に持ち込まれていました。嘉永5年12月5日には、3万両を渡して貸し付け、年々の利息で救ってほしいとも求めます。これも行われず、安政6年8月12日に2万両を贈って決着しました。蘇峰は、阿部に内治の手腕はあったが、秘密政策を変える度量はなかったと見ています。外国船の来航を見込みながら世に公にせず、前触れは届いたまま閉じられていました。
嘉永5年から6年にかけて江戸で何が分かっていて何が止まっていたのかを、島津斉彬が島津久光と島津久宝へ送った手紙、市来四郎の談話『懐旧紀事』、『鍋島直正公伝』、そして蘇峰の評からたどれます。
嘉永五年(1852年)十一月二日。原文
江戸の薩摩藩邸で、島津斉彬が筆を執った。原文
宛先は鹿児島にいる弟の島津久光。原文原文
「來年『アメリカ』參候事は、何となく評判御座候へ共、世間にては格別には不申」。原文
来年アメリカ船が来るという噂はなんとなくあるが、世間ではさほど騒がれていない、という。原文
そのうえで斉彬は続ける。原文
「閣老中は餘程心配之樣子に而」。原文
老中(幕府の重臣)たちはかなり心配している様子で、老中阿部正弘に会った折にも、その懸念を聞かされた。原文
ただし「未だ御評議治定無之由」――評議はまだ何も決まっていない、と。原文原文
蘇峰はこの一節を引いて、こう書く。原文
「お客の來る前觸は、旣に到著してゐたのだ」。原文
米艦が浦賀に来たのを青天の霹靂のように思う人がいるが、それは市井の話であって、阿部などは「百も承知」だったのだ、と。原文原文
人或は米艦が浦賀に來つたのは、靑天の霹靂であるかの如く思うてゐる。然もそれは市井の民衆には、或は其通りであつたであらうが、幕府の當局者たる阿部などは、百も承知の事であつた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くこの手紙が、この章の一つの鍵になる。原文
知っていた者たちが、なぜ動かなかったのか。原文
冬日愛すべし
弘化嘉永の間、日本にはかなりの人物が出た、と蘇峰は記す。原文
大名では徳川斉昭、島津斉彬、伊達宗城、山内豊信、鍋島斉正、松平慶永。原文
越前の松平慶永自身が『逸事史補』にそう列挙し、「余は皆懇意の人々なり」と付け加えている。原文
それだけの人物が揃って、なぜ対外の大策が定まらなかったのか。原文
蘇峰は四つの理由を挙げる。原文
警報を知る者は要路のごく少数で、しかもその少数が半信半疑だった。原文
外人の狙いが和親貿易か、併呑かの見当がつかなかった。原文
時が来ればどうにかなると、当てにならぬことを当てにした。原文
そして世の空気が泰平に酔い、「知者却て愚者に制せられ」た。原文
その病根は、歴代の鎖国政策と秘密政策の「年貢の納め時」が来たのだ、と蘇峰は書く。原文
将軍徳川家慶については、慶永が手厳しい。原文
「愼德公家慶公は、凡庸の君にして、將軍の器量なく、老中水野越前守に愚弄せられたり」。原文
凡庸で将軍の器ではなく、老中水野忠邦にあしらわれた、というのである。原文
ただし蘇峰は、水野に聞かせれば「必らずしも然らざりし」ことを弁ずるだろう、と一言添える。原文
家慶は徳川二百六十年を通じて著名な老中二人を得た。原文
前に水野忠邦、後に阿部正弘。原文
「前者は夏日畏る可く、後者は冬日愛す可し」。原文
厳霜の後に春風が来たのは、順序としても仕合せだった、と蘇峰は言う。原文
阿部の前後と比べるなら水野忠邦と井伊直弼。原文
蘇峰は三人の順を、第一に阿部、第二に水野、第三に井伊とする。原文
水野の仕事は痛快だが「箱庭でも作るが如き心得」で不自然。原文
井伊は誤って天下に名を博したが、経綸も識見も手腕もない、と切り捨てる。原文
阿部には出身の道や、大奥の歓心を得るための迎合策に異議もあった。原文
それでも老中になりうる家柄の中では、阿部ほどの人物はいなかっただろう、というのが蘇峰の結論である。原文原文
越前邸の一夕
水野と阿部の違いを、蘇峰は一句に要約する。原文
「大名と與に天下を治む可き乎、大名に對して、天下を治む可き乎」。原文
水野は「対して」、阿部は「与に」。原文原文
水野は徳川斉昭を敬遠して在国の期を長くさせ、薩摩には「他日德川氏に不利なるもの、必らず島津氏ならん」と警戒した。原文
阿部は逆に有力大名を懐柔し、その力を合わせて幕府の寿命を延ばそうとした。原文
「彼は妥協者であり、而して實に大なる妥協者であつた」と蘇峰は書く。原文原文
阿部と斉彬が結びついた経緯を、蘇峰は市来四郎の談話『懐旧紀事』から引く。原文
仲立ちは松平慶永だった。原文
ある日、阿部は慶永に内話した。原文
水野が「薩摩は油断ならず、用心すべし」と言っていたが、どう思うか、と。原文
慶永は「薩摩守は決して、德川家の御不爲を計り候ものには之なし」と答え、一夕、私宅に招くので会ってほしい、と申し出た。原文原文
対面は越前邸で行われた。原文
阿部の感想は「成程仰の通り御爲めに相成べき人なり」。原文
水野の言だけを聞いていたら「とんだ間違ひ」があったところで、気付かせてもらって「大慶致す」と。原文
慶永がこの一件を斉彬に伝えると、斉彬もよく気付いてくれたと喜んだ。弘化の初め頃のことだろう、と市来は注する。原文原文
以来、二人は握手し、やがて徳川家定と島津篤子の政治的結婚も成立する。原文
蘇峰はこう惜しむ。
一方に阿部、他方に斉彬が提携して内外の衝に当たっていたら、幕末の歴史は今少し違ったものになったかもしれない。
「されど天は此の兩人に年を假さなかつた」。原文原文
斉彬は慶永より二十ほど年長だった。原文
『昨夢紀事』は、列侯も閣老も「畏憚せずといふ事なし」という斉彬を、慶永が若年の頃から頼もしく思い、二人は「天下の事も、國家の事も互に謀り」合ったと伝えている。原文原文
薩州侯松平薩摩守齊彬は、御大身といひ、謀慮深遠、英邁にして、奸雄の才逞しき御方なりければ、列侯を初、閣老衆とても、畏憚せずといふ事なし。公(慶永)よりは二十計の御長者なれば、公にも賴もしく思召て、御若年の頃より殊に親しくせさせ給ひ、侯(齊彬)にも大方ならず、公(慶永)を依賴し給ひて、天下の事も、國家の事も互に謀りものし給へり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く佃島の軍艦
阿部の施政を、蘇峰は雑誌『江戸』所載「燭籥記」で概括する。原文
天保十四年に老中となり、水野の改革の後を受けて「繁苛を除き」、大船製造の禁を解いて海軍を興し、講武所と蕃書調所を設け、洋砲の術を奨励した。原文
温雅で徳望があり、人と接するときは顔色を和らげ、言うところを尽くさせた。原文原文
天保十四年老中に任ず。水野忠邦革弊の後をうけて首として繁苛を除き時と休息し又大船製造の禁を解きて海軍を興し講武所蕃書調所を設け大に洋砲の術を奬勵せしが如きは其事業の最も見るべきもの也
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く同じ記事に一つの逸話がある。原文
阿部は水戸家に命じて佃島で洋式の軍艦を造らせた。原文
ある人が言った。
国家多事の時に巨万を費やすのは惜しい。原文
阿部は笑って答えた。原文
諺に「獅子一球を得て戲る」という。原文
この余地を与えなければ、獅子は怒って人に触れるかもしれぬ。原文
「數萬金決して惜むに足らず」。原文原文
蘇峰はこれを「與ふるの取りたる所以」を解した政治と呼ぶ。原文
水戸の内訌も薩摩の内訌も、阿部の「冥々の間」の周旋に負うところが多く、斉昭も斉彬も、阿部には頭が上がらないことが一つや二つはあった、と書く。原文原文
握手政策だけで目的が達せられるとは、阿部は考えなかった。原文
利と情の紐で天下の有力者を幕府の中心に集めようとし、「或る程度迄、それに成功した」と蘇峰は評する。原文原文
嘉永六年二月二日
前触れは、もう一通ある。原文
嘉永六年(1853年)二月二日、斉彬が国家老の島津久宝に宛てた手紙。原文原文
アメリカの件は何も仰せ出されていないが、浦賀の普請は盛んだという。原文
そして幕府の能吏筒井政憲に内々に尋ねたところ、こういう見立てだった。原文
商法(貿易)の許可は成らない。原文
アメリカに許せば、先年願ったロシアにも許さねばならず、英仏も願い出ていたから、必ず言い立ててくる。原文
「申つのり候うへは、戰爭之外無之」。原文
言い争いが募れば、戦争しかない、と。原文
そのときの手当については「御威光」で夷人くらいはどうにでもなると言う者が多く、十分な備えがないのは甚だ心配だ、と筒井は語った。原文
斉彬は「至極尤の事」と同感を記す。原文原文
同じ手紙は阿部にも触れる。原文
阿部もそう考えているようだが、多勢に言い立てられて、自然と先延ばしになりがちだ、と。原文
台場(大砲を据えた砲台)だけでは、たとえ打ち勝っても追い討ちができない。原文
第一の良策は軍艦だが、勘定(財政係)方に異国の実情を知らぬ者が多く、費用を厭い、大船の「御大禁」を持ち出して通らない。原文
「殘念至極」と斉彬は書く。原文原文
蘇峰はこれを読んで、「阿部正弘が困却したる以て知る可し」と記す。原文原文
『鍋島直正公伝』も同じ構図を描く。原文
だが一般の人士は「鎖國の底の盲聾」だった。原文
米国政府は漂着漁船の待遇を怒り、去年大統領フィルモアが軍艦特派を決め、ロシアも長崎に使節を送ると決めていた。原文
阿部らは秘密に鳩首して対策を謀っていただろう。原文
しかし「昏睡状態」の幕吏は旧習に沈み、幕府の体面と威光に囚われ、出納の吝から江戸の海防工事すら縮小した、と同書は伝える。原文原文
然るに米國政府は、二年前我邦に漂著したる漁船二艘の殘酷の待遇を受けたるを忿怒し、日本政府を嚴責して交通の便を開くべし、若し聽かずんば砲擊して各港を封鎖するか、若くは英佛と連合して銷國の陋習を撤せしむべしとまで激昂し、去年遂に大統領フイルモーアは使節の軍艦を日本に特派するに決したり。又魯西亞も、使節の軍艦を遣はし、我長崎に到りて要求するところあらんと、此頃已に決定しゐたり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く三万両の内談
蘇峰は同じ章で、朝廷の側にも目を向ける。原文
武家伝奏(朝幕の連絡役)の三条実万と坊城俊明が、年頭使を兼ねて江戸に赴く。原文
二百余年の形式は、まだ揺るがずに続いていた、と蘇峰は書く。原文
その在府中、二人は京都所司代(京都に置かれた幕府の代表)脇坂安宅を通じ、老中に一つの内談を持ち込んだ。原文
薄禄の堂上(朝廷の上級の貴族)の救助である。原文
「小祿貧困之堂上向、今日之家計凌方難澁に有之」。原文
そのため「其志も利分之事專一」となり、教導の趣意と齟齬する者も出て痛心している、と。原文
蘇峰は数字を並べる。原文
五摂家の筆頭近衛家でさえ二千八百六十石(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)。原文
九条家二千四十三石、二条家千七百八石、一条家二千四十四石、鷹司家千五百石。原文
内談を持ち込んだ三条実万は四百六十九石。原文
大藩の家老(藩の重臣)に一万石は数えるに遑なく、五万石の家老もいる世の中で、至尊の御料さえ三万石と銀若干に過ぎなかった。原文
当時の落首に「三文も梨木町の天保錢、忠義のことは百も御承知」。原文
この財政上の弱点が、最も幕府に乗ぜられるところだった、と蘇峰は記す。原文
幕府はこの申し入れを、何らかの理由で謝絶したらしい。原文
嘉永五年十二月五日、宮中は改めて脇坂に諭した。原文
「三萬金被進、猶又右を御貸附に被成、年々利金を救進候樣」。原文
三万両(当時のお金の単位)を進め、それを貸し付けて、年々の利息で救ってほしい、と。原文
これも行われなかった。原文
ようやく安政六年八月十二日、二万両の贈進で局を結んだ。原文
「幕府の朝廷に對する、决して篤しと云ふ可らず」と蘇峰は書き、同時に、朝廷がこう憐れみを乞わねばならぬのも「如何にも情けない」と添える。原文原文
幕府の朝廷に對する、决して篤しと云ふ可らずだ。さはあれ朝廷の側に於ても、幕府に向て、此の如く憐を乞はねばならぬとは、如何にも情けない次第と云はねばならぬ
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く知って行えず
朝廷は、外交の面で幕府に注文を付けていた。原文
武門の面々は西洋の事について小敵を侮らず大敵を畏れず、よく策を立てて「神洲之瑕瑾」――国の傷にならぬようにせよ、と。原文
蘇峰は問う。原文
こうした諭示が、家康や家光の時代に出てきたか。原文
綱吉や吉宗の時代に出てきたか。原文
一切の内外政務を朝廷から預かるという「德川幕府制度の根本義」が、ここで崩壊の兆しを見せたのだ、と蘇峰は言う。原文
阿部正弘は朝廷の外交上の干渉を受け入れ、外船渡来の模様を奏上さえしていながら、朝廷への従前の態度を改めることに「氣付かなかつた」。原文
蘇峰はそれを「彼の爲めに惜しまざるを得ない」と書く。原文
阿部の人物を、蘇峰はこう描く。原文
「發强剛毅、能く持するの資に乏しかつたが、寬裕公平、能く容るゝことあるの襟度の持主」。原文
英雄を操縦する手腕はなかったが、彼らを近づけ信頼させる練達はあった。原文
内治についてはほとんど遺憾のない手腕を示した。原文
しかし、幕府の秘密政策を一変する胆識はなかった。原文
群議を排して国策を一定する経綸もなかった。原文
外船の来航を予期しながら、それを天下に公にし、天下と共に準備をする「大政治家的作用」に乏しかった。原文
そして「弊船が駸々乎として、急湍を下り、瀑布壺に陥らんとするを、坐視傍觀するの外なかつた」。原文
それは阿部一人のためではなく日本のためにも遺憾だった、と蘇峰は書き、続けて、阿部にのみ責めるのは無理だったかもしれない、とも書く。原文
松平慶永が『逸事史補』に残した幼い日の記憶がある。原文
六、七歳の頃、田安の邸で、慶永はある名僧に問うた。原文
将軍が悪いときは誰が叱るのか。原文
天子様が叱る、と僧は答えた。原文
天子様が悪ければ。原文
唐人が叱る、と。原文
慶永は明治になってこれを「未來記」と呼ぶ。原文
阿部はまさにそういう時代に出た、と蘇峰は言う。原文
権力だけでは幕府を支えられぬと覚悟し、春風で人を集めた。原文
だが知っていることを、天下と分け合うことはしなかった。原文
嘉永五年十一月、島津斉彬が弟に書き送ったあの一行――評議はまだ定まっていない、という一行は、そのまま浦賀まで持ち越されたのではないだろうか。原文
前触れは届いていた。原文
届いたまま、閉じられていた。原文原文
予(松永慶永)六七歲の頃は、未だ田安の邸にありしころ、ある名僧あり。予この僧にきくに天下樣(將軍)あしきときは、天子樣しかるとこたふ。天子樣あしければ、唐人(外國人)がしかるとこたふ。今(明治の初期)を以て之をみれば、未來記とも云ふ可きなり。(逸事史補
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 5 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 15 名のうち 15 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
