あらまし
長崎でロシア使節と向き合っていた川路聖謨は、嘉永6年(1853年)12月、相手の軍艦へ乗り込みました。17日のことです。翌18日には、阿部正弘ら老中6人が署名した10月15日付の返事を使節へ渡しました。署名は阿部正弘ら6人、日付は10月15日です。乗り込みの前には、宿で長い評議が持たれました。
14日、長崎の西御役所で使節をもてなし、午後4時過ぎに散会。船から音楽が鳴り、橋には色とりどりの旗が並んだと川路は書いています。蘇峰によれば、ふつうの儀式にすぎないはずでした。それでも互いの事情が通じておらず、艦へ赴くかどうかで評議になったと蘇峰は記します。その席へ、筑前国主の黒田長溥が別の用で顔を出しました。
長溥は、ロシア船が毎日帆を干し、いつでも出られる様子だと告げます。死を覚悟した家来19人を貸し、火薬を積んだ船1そうを供に加えたいという申し出でした。川路は言い分はもっともだとしながら、幕府に大国の敵を新たに作ることになると退けました。この役目を受けてから命は1日限りと思っている、と川路は書き残しています。筒井も古賀謹一郎も自分が行くと申し出、言い争いは果てなく、散会は真夜中。
16日の朝、長溥が訪ねてきました。川路は家来を貸す申し出に礼を述べ、見込みを説いて断り、万一のときは役目どおりにされたいと伝えます。暮れ方の書状には、望遠鏡で見るとロシア船は陸へ寄り、掃除が盛んで他意は見えないとありました。それでも家来を多く連れ、近くの下屋敷で終日この一行の船を守るという内容。川路はその深い心づかいを書き留めました。
17日、紋服で船を出すと、弓や鉄砲、旗が並び、長崎の港は目を驚かすほどだったと川路は記しています。ロシア船は音楽で迎え、使節みずから武器を置く所まで案内しました。川路は、小石のように並べた大砲の玉やガラスの灯りを細かく書き留めます。皇帝の肖像やフランスのぶどう酒、桜の金の飾りのある贈り物の刀のことも記しました。蘇峰は、こうした些細な記事からかえって当時の情勢が読み取れると見ています。
18日、西御役所で使節らを呼び、封のままの返事と写し1本を渡しました。境界は調べて話し合うが貿易は禁じてあり、3年から5年の時間が要るという内容です。蘇峰は、使節を特別に送った目的がほぼ無に帰する文面だったと記します。翌19日、4人は老中へ報告を送り、相手の礼は思いのほかあつかったが様子は悪賢いと書きました。川路は、人の情は少しも変わらず、どの国も同じだろうとも書き添えています。
黒田長溥の申し出を断つ評議から乗艦の日までを、川路聖謨の手記と老中6人の返事からたどれます。
焼船を供船に加える評議
嘉永六年(1853年)十二月、長崎。ロシア使節の艦へ乗り込むかどうかをめぐって、幕府の役人たちは筒井政憲の旅館に集まった。原文
議題は二日後のことである。原文
前日十四日、長崎西御役所でロシア使節を饗応した。原文
料理のあと長崎奉行(幕府の役人)らが着座し、「通辯之もの大はたらき」、つまり通訳が大いに働いて、午後四時過ぎに散会した。原文
帰る時も船からは音楽が鳴り、三本の橋には「七夕竹のごとく」に色とりどりの旗が付けられていた、と川路は書く。原文
「固より尋常一樣の儀式」で、何の面倒もあるべきものではなかった、と蘇峰は記す。原文
しかし当時は「彼我の事情疏通を缺きたる爲め」、体面上は承諾しながら、いよいよ相手の艦へ赴くとなると、筒井の旅館に集まって評議をせねばならなかった。原文
その席へ、筑前国主(その国を治める大名)の黒田長溥が別件で顔を出した。原文
長溥の言うところでは、ロシア船は日々帆を干して、いつでも出られる様子だという。原文
近頃の処置は「甚可怪」、はなはだ怪しい、というのである。原文
役人たちが乗り込んでも、自分たちの軍兵があるから安心だと誰かが言うと、長溥は首を振った。原文
走り出せば大砲はなかなか間に合わない。原文
そこで「死を潔いたし候家來十九人」を川路の家来の中に召し連れさせ、火薬を仕込んだ焼船一艘を供船に加える。原文
もし事が起きれば火を付け、一同で切り込む。原文
その時は役人たちのことも「無貪著火をかけ可給候」、つまり構わず火をかけてくれ、と。原文原文
料理畢而長崎奉行、其外一同著座いたし候と今般之開口いたす。聊之事なれど、云々有之候而、通辯之もの大はたらきなり。漸七つ時過(午後四時過)に相濟候歸り候節も音樂なり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く命は一日限り
長溥が帰ったあと、川路は口を開いた。原文
「美濃守申分尤なり」。原文
長溥の言い分はもっともだ。原文
しかしロシア船を焼き打ちにして役人の敵をその場で撃つのは有難いとしても、それは「公儀へ、大國之敵を新に拵候に當り、不相當なり」。原文
幕府に大国の敵を新たに作ることになり、不相当である。原文
畢竟、一人も死ぬまいとするからそうなるのだ、と川路は言う。原文原文
そして、川路の手記はこう続く。原文
「抑左衞門尉、此御用被仰付候而は、別而命は一日限之ものとおもひ」。原文
自分はこの御用を命じられてから、命は一日限りのものと思っている。原文
十七日にもしロシア人が手荒なことをすれば、荒尾は目付(監察役)であるから始末を見て老中(幕府の重臣)へ報告せよ。原文
筒井は「格別之高年」だから帰ってもらう。原文
「左衞門尉一人魯西亞船に殘り候て彼國え參り候はゞ、其帝王へ說候而、御爲を可仕」。原文
自分一人がロシア船に残り、その国へ連れて行かれるなら、皇帝に説いて国の為を尽くす。原文
そう言い切って、長溥の家老(藩の重臣)を呼び、家来と焼船の用意を断る旨を伝えた。原文原文
よりて中々に、美濃守家來、卒爾に火などをかけ候而、天下之事を傷ふことあるは如何に付、右等の用意を可及斷と存候依て同家老を、左衞門尉方へ呼、可及斷と申たり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くここで争いが起きる。
川路の配下の中村為弥が進み出て言った。返翰(返事の手紙)に「重臣貳人」と記されているのは筒井と川路である。原文
この二人がロシア人に押さえられて彼国へ渡るようなことになれば「御國體に拘り候間、決而不相成候」、国体に関わるから決してならない。原文
だから自分一人を総代として遣わしてほしい、と。原文
川路は「爲彌平日に似ざる不實意なり」、為弥らしくもない不実だ、と退けた。原文
配下を遣わして自分の「士道」が立つか、と。原文
筒井が言った。原文
自分は一旦御役御免になった身を、老年でここまで用いてもらったのだから「身を捨ることは、決而いとはず。われ行べし」。原文
古賀謹一郎も言った。原文
皆がこう言うのに一人残ることはできない、「決して謹一郞行かむ」。原文原文
「かくいひ爭てははてなし」、言い争っても果てがない。原文
そこで先にロシア側を試そうと書簡(手紙)を遣わしたところ、返事はよかった。原文
川路はさらに通詞(通訳)の森山栄之助を内密に尋ねさせた。原文
少しも仔細はない。原文
それでも栄之助は、もし見損じていたら申し訳のため「第一に使節に飛かゝりて、御先がけを仕らむ」と思い込んでいる様子に見えた、と川路は書く。原文
長溥からは四人へ直書が届き、明朝直接来て川路と談ずるという。原文
散会は「夜九ツ時」、午前零時であった。原文原文
望遠鏡の中の船
十六日、晴れ。原文
午前七時に長溥が来た。原文
旅中のことゆえ川路はそのまま居間へ案内し、主人の熨斗を出した。原文
海防論をひとしきり交わしたのち、川路は昨日の家来を貸すという申し出に礼を述べ、見込みを述べて、これを断った。原文
万一異変があれば、長溥は幕府の沙汰(通知・命令)どおり「打潰候とも、いづれとも、御役前通いたし」、船を打ち潰すのでも何でも役目のとおりにされたい、それに異存はない、と川路は言った。原文
長溥は「精忠之程、感嘆之由」と述べて帰った。原文原文
暮れ方、長溥から再び書状が届いた。原文
今日、望遠鏡でロシア船の動静を見詰めていたところ、船を「廿町程」陸の方へ寄せ、船中の掃除がおびただしい。原文
「實に招待のこゝろなるべし。餘意はみえず」。原文
本当に招待する心であろう。原文
他意は見えない。原文
それでも自分は家来を多く連れ、船の警固とは言わずに、ロシア船に近い下屋敷へ行き、終日人知れず一行の船を守るから安心されたい、という。原文
「其書狀に、深切之意顯れたり」、その書状には深い親切の意が表れていた、と川路は書き留めた。原文原文
美濃守は、家來を夥召連候而、船之固とは不申、魯船へ近き下屋敷え參候て、終日人しれず、我等の船を警固いたしくれ可申候間、安心候樣申參る
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く以上の所記は、今日から見れば「殆んど一笑にだも値ひせざる」ものだが、当時においては必ずしも無理のことではなかった、と蘇峰は言う。原文
何はともあれ、川路のような「責任感の最も充實したる吏員」が幕吏の中にあったことは、幕府にとって「洵に仕合であつた」、と蘇峰は評している。原文原文
五色のござ
十七日、晴れ。原文
午前十一時揃い。原文
継上下に御紋服を着用。原文
二階造りで緋ちりめんの幕を張り、筒井と川路の弓、鉄砲、船印、対槍、纒、荒尾と古賀の槍、細川の船手の弓や鉄砲が並ぶ。原文
長崎奉行所の緋ちりめん御紋付の幕を打った船も添い、太鼓と艫拍子で賑やかであった。原文
黒田・鍋島の番所や陣場、大村の陣場が幕を打ち、「長崎のみなと內、目を驚せしなり」、と川路は書く。原文原文
船が近づくと、ロシア船は奏楽で迎えた。原文
祝砲を打つのは西洋の礼だが日本では禁じている、と川路は原註に添える。原文
梯子には五色のござが敷かれ、その下まで下官が出、上官は船上で出迎えた。原文
船は三階造り。原文
使節みずから案内し、武器を貯えた所まで悉く見せた。原文
梯子では上官たちが筒井の手を取って引き下ろした。原文
「所謂くつを取らぬばかりのことなり」、靴を脱がせて履かせるばかりの丁重さである。原文原文
上の段に別に二階があり、使節は椅子、筒井らのためには床を造って花氈に似た立派な敷物を敷き、茶を出し、大筒小筒の足並みを見せた。原文
それが済むと、日本とロシアの船印を並べて染め出した幕のようなものを見せ、「かく迄に日本を親しく思ふ」と言った。原文
下の段にはギヤマンの掛燈籠。原文
柱の際をブリッキで張り、七寸ほどの鏡のようなものに、燈心一本の細い蠟燭を灯す。原文
芯が細いから蠟の減りが少なく、鏡に映るから明りがよい、と川路は細かく記す。原文
船縁には鉄の大筒がおびただしく、鉄の筋を縦縞のように渡し、その間に大筒の玉を「栗石のごとくに並べ」、その上を人が往来していた。原文原文
上の所に別段二階ありて、其ところに、使節は椅子、筒井其外のためには、床を造り、花氈に似たる立派なものを敷、その所にて茶を出し、大筒並小筒の足なみ等いたしみせ候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く使節の部屋は書籍の積み方が「特之外大造」、十五畳ほどもあろうかという広さで、大きな硝子窓があった。原文
左右には皇帝と王子、次男の肖像。原文
像をとる鏡に人が向かえば、その姿が鏡にそのまま止まって消えぬ、これは薬によるものだ、と川路は説明を試みている。原文
饗応の酒はフランスの葡萄酒。原文
多く飲んでも酔いが少なく、すぐ醒める。
米のような実用のものを慰みに費やさぬ考えが「甚おもしろし」。原文
燗酒もあり、終わりによい匂いの甘い、泡盛に似た酒が出た。原文
肴の数はことに多く、「もてなしぶりの上手なること、實に驚たり」。原文原文
暮れ方になり、留められるのを押して帰った。
使節は乗口まで送り、三階の上へ出ると皆が剣を抜き、太鼓を叩き、奏楽で送る。原文
下官は三本ある檣の帆桁に隙間なく三段四段に並び立ち、遙かに見送った。原文
本来は蒸気船にも乗り移るつもりだったが薄暮になり、「人の心もおもひて」急いで帰った。原文
十町ばかりで提灯となった。原文
その日、長溥は遊山と称して下屋敷におり、望遠鏡で始終船を見ていた。原文
鍋島の船手は大砲を載せた船を密かに所々へ隠し置いて内実の備えをしていた、と川路は伝え聞いている。原文原文
刀の講釈
土産は船中に飾られ、皆が案内されて見せられた。原文
筒井からは牡丹に蝶の蒔絵の料紙硯箱、五色奉書、大小の三所物。原文
川路からは富士山を蒔絵し、桜花の緒締と根付のある印籠。原文
これには「萬世も神の御孫のしろしめす、皇國の山の姿をもみよ」の歌がある。原文
広蓋二つには衣冠の人と馬上の図。原文
黒漆塗の盃三つ。原文
足に鶴の図があり、朱は外国のものゆえ用いず黒漆にした。原文原文
そして二尺六寸、大幅で重ねのある刀一本。原文
縁頭、鍔、目貫はみな桜花の金蒔絵、鞘も青貝で桜の図。原文
銘は次郎太郎直勝作、「川路左衞門尉佩刀」と彫る。原文
川路は通辞を通して講釈を付けた。原文
この刀で試しに人を切れば、三人並べて心よく胴切りにし、車骨を瓜のように切る。原文
重すぎて取り回せぬと思うな、自分はこの倍より重い刀を日々三千振ほど振っているから、この刀などは「苧がらを遣ふが如く」思っている。原文
人をどうやって試したかと問われ、刑人の屍を切るのだ、日本でタメシという、と答えさせた。原文
西洋人は修行しないから切れまいが、腕一本か足一本は必ず切れる。原文
こういう切れ味の刀を差すのが日本の常である、と。原文
荒尾からは五十三次の図と料紙硯筥、古賀からは画蠟燭十本と硯蓋二面。原文
ロシア側はことのほか喜んで見せた。原文原文
尤重過て不取廻しと思ふべからず。左衞門尉は、この倍より重き刀を、三千振位は、日々にふるなり。故に此刀など、苧がらを遣ふが如く、おもひ居候と申たるに
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くこの手記は「事極めて大局に關係なきも」、彼我の交渉の模様と真相がありのままに写されている、と蘇峰は書く。原文
「具眼者は斯る些屑の記事に於て、却て當時の情勢を會得するであらう」。原文
目のある者はこうした些細な記事から、かえって当時の情勢を読み取るだろう、というのである。原文原文
三五年の返翰
十八日、晴れ。原文
午前十時前に一同が揃い、西御役所へロシア使節らを呼び出して、老中の返翰を渡した。原文
宛名は「大俄羅斯國上宰相子也利羅德公閣下」。原文
署名は阿部正弘、牧野忠雅、松平乗全、松平忠優、久世広周、内藤信親の六老中、日付は嘉永六年十月十五日である。原文
浄書は筒井らの十月晦日の江戸出立に間に合わず、一行は途中でこれを受け取った。原文
幕府がどれほど手数をかけたかがそこからも知れる、と蘇峰は記す。原文
返翰は言う。原文
今回の使節が好意に出たことは疑いない。原文
境界のことは辺藩に調べさせ、大吏を差し向けて会同商議し、劃一に帰せしめたい。原文
貿易のことは祖宗の遺法に厳禁がある。原文
ただし「現今宇內の形勢變遷」、貿易の風は日に長じ、合衆国人も市を乞いに来た。原文
それゆえ「勢ひ三五年の時月を費さゞるを獲ず」。原文
まずは重臣二員を長崎に遣わす、と。原文
露使にとっては「待ち設けたる甲斐なき文字」であった、と蘇峰は書く。原文
何もかも三五年後でなければ埓が明かぬというのでは、わざわざ使節を特派した目的が「殆んど全く水泡に歸する譯合」だ、と。原文
返翰は封のまま与え、別に正写一本を授けた。原文
使節と次官には綿と紅白の綸子、惣中へは五斗俵百俵と豚二十疋。原文
料理は三汁九菜で、花飾りがあった。原文
翌日、漢文だけでは了解が十分でないとして蘭訳を求められ、通詞の西吉兵衛と森山栄之助が訳して渡した。原文
十九日、四人は江戸の老中へ報告書を送る。原文
露使は最初、役々がこちらの船へ来なければ出帆すると言った。原文
「本朝之禮法には不拘、出帆之義申出候段、事實相當之申條に無之」、日本の礼法を顧みずに出帆を言い出すのは相当な申し条ではない、とその場で諭して承伏させた、と述べる。原文
十七日の船中では「禮節向存外恭敬、懇切を盡しもてなし」、礼節が思いのほか恭しく懇切であった、とも記す。原文
そして結びに一言、「夷人之情態、わるかしこき樣子に付」、異人の様子は悪賢いから十分の掛け合いができるか甚だ心もとない、と。原文
焼船を断り、命は一日限りと言って乗り込んだ川路が、船の中で見たのは、栗石のように並べた砲弾と、皇帝の肖像と、フランスの葡萄酒だった。原文
言葉は通じない。原文
しかし三十日も一所にいれば大抵は分かるだろう、「人情少もかわらず、いづれ國も同からむ」、と川路は原註に記している。原文
人情は少しも変わらない、どの国も同じであろう、と。原文
その同じ手が翌日、「三五年」と書かれた返翰を封のまま差し出したのである。原文
十町ばかりで提灯となった帰り道、川路の目に長崎の港はどう映っていたのだろうか。原文原文
乍然此際に至、勝手儘之義申募り、左右に事寄、出帆可致との義、使節心得を以、いたし候義は格別、此方於て、强而可差留義には無之、旣に應接として重臣をも被差遣候は、畢竟其國え對し、禮節を盡し候筋に付、たとへ如何樣申聞候ても、此上之禮節を屈し、彼船え罷越候義は、國法に於て、難相成義之旨、爲申諭候處。承伏いたし
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 2 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 7 名のうち 4 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
