あらまし
安政5年(1858年)4月、井伊直弼が大老(老中より上の最高職)に任じられます。その前日の正午過ぎ、井伊邸に徒頭(幕府の役職)の薬師寺元真が訪ねてきました。主君の一大事を人を通さずに伝えたいと、封書を差し出したといいます。
井伊は人を遠ざけて会い、話は数時間に及びました。薬師寺はその間ずっと涙を流していたといいます。午後4時頃に終わって湯漬が出され、薬師寺は望みを果たしたと大いに喜んで帰りました。約4時間の密談。蘇峰は、良くも悪くも情勢が差し迫っていた証しだと見ています。
井伊家はもとより大老を出す家柄で、望んでも無理な願いではないと蘇峰は書いています。ただ数を埋めるためではなく、燃えるような望みがあったといいます。徳川斉昭を中心とする動きを根元から覆すこと。徳川慶喜を城に入れ、斉昭が後見する企てをくじくのも使命と思い込んでいたらしい、と蘇峰は述べます。一橋家を退けるのが出発点で、慶福を立てるのが行き着く先だった、というのが蘇峰の見方です。
老中の松平忠固は、跡継ぎについて意見を出す者を仲間を組んでの押しつけだと叱りました。そこで一橋派は松平慶永を補佐役に推し、補佐役を置くときは大老も置く先例を持ち出します。数合わせに井伊を出しておけばよいという算段で、蘇峰はこの案が逆に使われたのではと見ています。一方、大奥では将軍生母の本寿院が、慶喜が跡継ぎになれば今すぐ死ぬと言わせました。御側衆の平岡道弘が将軍を育てた歌橋と連絡を取り、松平忠固も陰で賛成していました。
長野義言は、まず人気を取るのが大事だと京都の様子を書き送っていました。密談の日の午後5時半頃、老中の内藤信親から老中連名の書状が届きます。城使の富田権兵衛が内々に探ると、大老を命じられるとのこと、まったく急な話だといいます。井伊はこの時節に大任とは恐れ入ると言い、力を尽くして務めると答えました。婿を迎えるはずの日が大老就任の日になり、その夜の井伊邸は大混雑でした。
御用部屋に入った井伊は、一度辞退したうえで改めて命じられて受けました。蘇峰はこれを前から仕組んだ芝居で、職をさらに重くする手だてだったと見ています。そして老中の上座に座り、その日から政務に加わりました。従来の大老は別室で決裁するだけだったので異例で、これだけで老中を驚かせたと蘇峰は述べます。退出後は脇坂安宅とともに本寿院らへ礼を述べ、執政の第一日が終わりました。
4時間の密談から就任当日の座席までを、宇津木景福の記録、奥右筆の原弥十郎の話、長野義言の書状や『幕府衰亡論』の伝える話と蘇峰の見方からたどれます。
安政五年(1858年)四月、大老任命の前日。正午をまわった頃である。原文
井伊邸に一人の来客があった。原文
徒頭の薬師寺元真。原文
御客番の小野田小一郎が応対に出る。原文
「御上之御一大事」を申し上げたい、取次では申し上げかねる、どうか直接お目通りを、と封書を差し出したという。原文
主君の一大事を告げに来た、人を介しては言えない、という訪問である。原文原文
井伊直弼は人払いをして会った。原文
密談は数刻に及んだ。原文
薬師寺は終始、涙を流していたという。原文
七ツ時、午後四時頃に終わり、湯漬が出た。原文
薬師寺は「本意を達し候」と大いに喜んで退出した。原文
本懐を果たした、というのである。原文原文
およそ四時間の密談。原文
これを蘇峰は、形勢が善きにつけ悪しきにつけ切迫していた証拠だと見る。原文
翌日、井伊直弼は大老(幕府の最高職)に任ぜられる。原文原文
家柄と燃える志望
井伊家は、もとより大老を出す家柄であった。原文
直政、直孝の父子が徳川氏の初期に仕えたのは言うまでもない。原文
だから直弼が大老を望んでも「決して非望ではない」と蘇峰は書く。原文原文
ただし直弼は、単に員数に備わるために大老を望んだのではない、と蘇峰は言う。原文
外交にも内治にも、積極的で建設的な経綸は恐らく無かったであろう。原文
しかし一つの燃えるような志望があった。原文
彼ら一味の言葉で言えば「陰謀家退治」である。原文
もっと明白に言えば、水戸である。原文
徳川斉昭を中心とする陰謀を根底から覆し、一掃すること。原文
一橋慶喜を西城に入れ、斉昭が将軍の生父として後見(幼い当主を補佐する役)の実を行おうとする、その企てに一撃を与えること。原文
これを使命のように思い込んでいたらしい、と蘇峰は述べる。原文原文
紀州推戴が出発点で、一橋排斥が到着点。原文
同じ紀州派でも、紀州推戴が出発点で一橋排斥が到着点という者がいた。原文
仮に慶喜と慶福が地を換えて、慶喜が将軍の近親であったとしても、井伊は一橋派には与しなかったであろう。原文原文
大奥と京都からの後押し
井伊起用は、この時に急に生じたものではあるまい。原文
「長く久しく仕組まれたる脚色」がこの機会に現れたのだ、と蘇峰は見る。原文原文
だが老中(幕府の重臣)の松平忠固は、継嗣を建議する者を「結党要上」の所為だと叱り、廃立を謀る徒だと罵った。原文
そこで一橋派は、松平慶永を輔佐に推し、慶永によって廟議を挽回しようと図った。原文
輔佐を置くときは大老を置く先例がある。原文
藤森大雅と目付(監察役)駒井左京の問答には「具員計に掃部頭を出すべし」とある。原文
員数合わせに井伊掃部頭を出しておけばよい、という算段だった。原文
この議が、かえって紀州派に利用されたのではないか、と蘇峰は言う。原文原文
だが大奥は違った。原文
将軍生母の本寿院は、もし慶喜が養君(将軍のあととり)になれば「只今自害して果ぬべし」と言わせた。原文
今すぐ自害する、というのである。原文
それは「狐のつきて」申し上げることで、狐は将軍を育てた歌橋であろう、とその文は言う。原文
歌橋は、慶喜が定まれば将軍の光が消えるのを一筋に憂えていたという。原文原文
そこに御側衆(将軍の側近)の平岡道弘が歌橋と連絡し、松平忠固が陰に賛した。原文
井伊は松平忠固の再任のとき黄金三十枚を贈って祝ったことがあると、水戸側は伝える。原文
慶永の親臣中根雪江は、忠固はこれを受けず返した、と小川民蔵なる者から聞いたと書き残している。原文
受け取ったか、返したか。
いずれにせよ、井伊と忠固の間に黙契があったことは争えない、と蘇峰は言う。原文原文
長野義言は四月十三日付で井伊に京都の形勢を報じていた。原文
まず人気を取っておくことが大事だ、と勧めていた。原文
獲物は網際に近づきつつあった、と蘇峰は形容する。原文原文
乃ち安政五年四月十三日附、一橋を將軍に、紀を西丸へ、御家(井伊家)を御大老にして、關東にて御承引無之候はゞ、一致して强奏にても可仕と、寄評議も有之由。との京都の事情を報じてゐる
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く五つ半時の奉書
密談を終えた井伊は、側用人(主君のそば近くに仕え、老中との取り次ぎをする役)の宇津木景福を呼んだ。原文
井伊はただちに書状を認めて松平忠固へ送るよう命じ、奥へ入った。原文原文
五つ半時頃、午後五時半。原文
老中連名の奉書が、老中の内藤信親から届いた。原文
井伊は宇津木を鎖口に呼び、何の御用かと尋ねる。原文
宇津木は、御用部屋入か、役職の任命ではないかと答えた。原文
山本伝八郎に先例を調べさせておいた、とも言う。原文原文
やがて城使の富田権兵衛が帰ってきた。原文
奥右筆(文書を書く役)の加藤惣兵衛に内々に尋ねたところ、大老職を仰せ付けられるとのこと。原文
今日まで少しも様子は無く、俄のことだと言う。原文原文
井伊は「此御時節大任恐入候」と言った。原文
この時節に大任とは恐れ入る、というのである。原文
井伊は粉骨砕身して忠勤する、と答えた。原文
宇津木が、国家が太平に帰したら早々に辞職なさるように、と言うと、井伊は「是は如何成事早き約束」と言った。原文
なんとも早い約束だ、と笑ったのである。原文
君臣がいかに大願成就に満悦であったか想像される、と蘇峰は書く。原文原文
その夜、井伊邸は大混雑だった。原文
婿を迎えるはずの日が、大老就任の日になったのである。原文原文
宇津木はのちに、慶永を大老にとの伺いが上がったが、将軍が驚き、家柄といい人物といい彦根を差し置いて越前へ仰せ付ける筋はない、と言ったので俄に取り極まった、と聞いた旨を追記している。原文
どこまで信じてよいか、蘇峰は「姑らく一説として」掲げるにとどめている。原文原文
畳の温まらぬうちに
老中同道で御用部屋に入る。原文
堀田と松平忠固が言葉を尽くして留めても聞かない。原文
御側衆の平岡道弘を通じて辞退を申し上げ、思召により再度仰せ出されて、ようやく受けた。原文
この一応の辞退は、あらかじめ仕組んだ芝居であろう、と蘇峰は言う。原文
大老の職をさらに重くする方便としたのだ、と。原文原文
井伊は「一老之上坐」に着き、その日から議論に加わった。原文
老中の上座に座り、即日政務を聞いたのである。原文
書付(文書)には「向後勤方之義、先格之趣に不拘、繁々登城(江戸城に出仕すること)」とある。原文
今後は先例にかかわらず頻繁に登城し、老中列座で申し渡すときは列座せよ、という趣旨である。原文
従来、大老は御用部屋に詰めず別に詰所を定め、閣老の具申に裁可を与えるにとどまった。原文
井伊は当日から御用部屋の第一座を占めた。原文
これは異例で、この一事だけでも老中の胆を抜くに足りたであろう、と蘇峰は述べる。原文原文
『幕府衰亡論』は、井伊が御用部屋に出頭して内閣首相の事を執らせるなら大老を承知すると初めから約束した、と伝える。原文
蘇峰は、それは穿鑿に過ぎるとしつつ、就任の即日に実行したことは証拠立てられると言う。原文原文
奥右筆の原弥十郎は富田権兵衛に、井伊は座った畳が温まる前に異論を述べた、と話した。原文原文
退出の後、井伊は脇坂安宅と御広敷へ回り、本寿院らに御礼を申し上げた。原文
「日本の維新史に於て、最も重要の関係ある井伊執政の第一日」は、こうして終わった、と蘇峰は書く。原文原文
「員に具ふる而已」
幕吏の岩瀬忠震は、明日は御三家(将軍家に近い尾張・紀州・水戸の三家)へ相談の上で惣触があるらしく、大老職ができるかと思われる形勢だ、と言った。原文
しかし「縦し彦根なんどが任ずればとて、児輩に等しき男なれば、何の妨をすべくもあらず」。原文
蘇峰はこれを岩瀬の大なる不覚と断じる。原文
京都の情勢を軽く見て当惑を来したのに、また井伊を軽く判断した、と。原文原文
閣老は「彼人は員に具ふる而已なり」と答えた。原文
あの人は員数を満たすだけだ、と言ったのである。原文
これは遁辞ばかりとは思われない、と蘇峰は言う。原文
閣老たちは井伊を「高等責任受負所」にしようと考えていたのだろう、と。原文原文
大老は、条約中の畿内の湊は停めなければ叡慮が立たない、と陳腐の論を言い、岩瀬が利害を弁論すると閉口したという。原文
幕吏たちは井伊を凡庸漢と見た。原文
大老ができて驚き入った、英名も聞かず建議も無い人だ、と。原文原文
扨大老の申さるには、條約の中畿內の湊は、言新らし氣に言はるゝ故、岩肥州其利害得失を辯論せられしかさる事ならんには、爲んかたなしと閉口に及ばれ
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く児輩、無識、員に具ふる而已。原文
誰もが井伊を軽く見た。原文
松平忠固も、井伊を与しやすいと見て、井伊に大老の名を与え自ら幕政を専らにしようと目論んだのだろう、と蘇峰は推す。原文
だが座った畳の温まらぬうちに、井伊は御用部屋の第一座を占めていた。原文
「君公御英雄を女に御観し」と長野義言は言った。原文
君公の英雄ぶりを女のように見た、というのである。原文
その四時間ののちに舞い込んだ奉書を、井伊は驚かずに受け取ったのではないだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文に日付が 1 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 8 名のうち 6 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
