和の一字は封じて ―― 嘉永六年七月、徳川斉昭という切り札

あらまし

嘉永6年(1853年)7月3日、水戸邸に幕府からの伝えが届いた。藩の政治から退いていた水戸前中納言(朝廷の高い官位)・徳川斉昭への達しである。海岸の防備の用があるので、1日おきに江戸城へ来るよう求めていた。老中(幕府の重臣)阿部正弘の指示を、家老(藩の重臣)中山備後守が呼ばれて直接受けた。

2日後の7月5日、54歳の徳川斉昭は城に上がった。将軍徳川家慶には会えず、病気のためと知らされたが、実際にはすでに亡くなっていた。斉昭が会えたのは後継ぎの世子(跡継ぎ)で、老中たちと外国船の件を話し合った。その日、斉昭は松平慶永へ手紙を書き、喪が明けないうちの呼び出しに驚いたと述べた。自分には役に立つ良い考えもないとも書き添えた。

蘇峰は、慶永が起用を強く勧めたと斉昭が知っていたとし、手紙に感謝も混じっていたと見る。蘇峰が引く記録では、徳川家慶は病の重くなる前日、外国のことをおろそかにするなと言った。自分の死後に斉昭を呼んで外国の件を相談せよと命じたという。島津斉彬も6月10日、尾張慶勝への手紙で、いまは斉昭に任せるしかないと述べた。7月10日には斉昭へ、外国船の件を隠しすぎればかえって人々が疑うと書き送った。

7月9日、斉昭は防備についての意見書を阿部に示した。仲良くしてはいけない理由を10か条、防備の手立てを5か条並べた。まず和平か戦争かを決めて動かぬことを急務とした。貿易も退け、有用な金属を役に立たない織物に換えるのは害が大きいと述べた。和蘭(オランダ)に軍艦や蒸気船、船大工と航海役を差し出させ、漁師を兵に仕立てよという。

蘇峰は和蘭に大きな船と大砲、技術者を求めた一条だけを高く評価する。後の海軍の土台になったとする。その長い意見書には、性質の違う一行が付箋で挟まれていた。「和の一字は封じて」——和平という考えは表に出さないでほしいというのである。防備の担当だけが内々に預かる形にし、表向きは追い払うで押し通す。

蘇峰は、戦って勝つ見込みがないと知りながら表と裏を分けた点に弱点があると書く。勝海舟も、表向きの説を本意と取る者は斉昭を知らないと評した。横井小楠は8月15日、熊本から藤田東湖へ、斉昭が支えるのは大きな機会だと書き送った。斉昭は封じた一字をついに開かなかった。この記事からは、1枚の付箋に書かれた本音と、世間が仰いだ看板との隔たりが分かる。

この記事の本文から作った要約です。人名と日付は本文と照合しています。以下の本文は元本の文に沿って書き、各文は出典へたどれます。

嘉永六年(1853年)七月三日、水戸邸へ一通の達しが下った。原文
海岸防禦筋につき用があるので、しばらくのあいだ隔日ほど登城(江戸城に出仕すること)されたい。原文
隠居(家督を譲って退いた人)の身であるから表通りには及ばない、平川口から入り、風呂屋口から御控所へ通られよ。原文
老中阿部正弘あべまさひろの指図を、水戸の家老中山備後守が呼び出されて直に受けた。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 156

水戶前中納言殿、海岸防禦筋之儀に付、此節御用も有之候間、以來暫之內、隔日程にも御登城可被成候

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水戸前中納言、徳川斉昭とくがわなりあき原文
五十四歳。原文
藩政を退いていた男が、幕府の海防に呼び戻された。原文原文

目次

「驚入申候」

二日後の七月五日、斉昭は登城した。原文
将軍徳川家慶とくがわいえよしには会えなかった。原文
病気のため、と告げられている。原文
実際には家慶はすでに死去していた。原文
斉昭が目見えを許されたのは、世子の家定いえさだである。原文原文

その日のうちに、斉昭は松平慶永まつだいらよしながへ返書を書いている。原文
「扨又去る三日には忌御免被仰付、登城候儀被仰出、驚入申候」。原文
喪が明けぬうちに呼び出された、驚いた、というのである。
御座之間で家定に拝謁し、閣老一同と異船の件を談じた、と続けて、こう書き添えた。原文
「不才何一ツ御爲に可相成良考も無之」。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 157

則今日登城仕候處、於御座之間、右大將君へ(家定)御目見へ被仰付、其後閣老一同、異船之儀に付對談有之

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この手紙を、蘇峰は斉昭の満足の表れと読む。原文
起用にあたって慶永が阿部に強く推したことを、斉昭は知っていた。原文
吹聴のかたちを取りながら、そこには感謝も混じっていただろう、と蘇峰は記す。原文原文

死の床からの指名

なぜ斉昭だったのか。原文
蘇峰は勝海舟かつかいしゅう編『開國起原』を引く。原文原文

家慶は病が篤くなる前日、近臣に命じて病褥の上に肩衣を加えさせ、「伊勢を呼べ」と言った。原文
外国のことは決しておろそかにしてはならない。原文
自分は病に罹ってこの局を了えることができない。原文
水戸前中納言はこの事に多年心を用いてきた。原文
予が死んだのちに起して登城させ、共に外事を謀るがよい。原文原文

事実か風説かは分からない、と蘇峰は断ったうえで、「先づ斯くありさうな事であつた」と書く。原文原文

天下の望みも、そこへ集まっていた。原文
島津斉彬しまづなりあきらは六月十日、尾張慶勝へ宛てて、今度は老中も大仰天の様子である、今の情勢では水戸老公へ御委任のほかはあるまい、と書き送っている。原文
田邊太一の『幕末外交談』も、阿部正弘を幕府有數の良相と称するのは過譽ではないと評しながら、この時に一刀(当時のお金の単位)断の勇がなかったのは惜しむべきだと書いている。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 170

齊彬は、六月十日附(嘉永六年)にて、尾張慶勝に書を與へて曰く、今度は老中も大仰天之樣子此後又々渡來は無疑、當時の處にては、乍恐水老公へ御委任の外は有間敷と奉存候

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秘し過ぎることの害

その斉彬が、七月十日の日付で鹿児島から斉昭へ送った書中に、幕府への痛烈な一節がある。原文
異船の件をとかく秘しにしているようだ、と聞いた。原文
人心の動乱を老中たちが恐れているのだろう。原文
だが秘し過ぎれば、かえって人々は疑念を起こし、小事をも大事として言いふらす。原文原文

「日本に生れ候ものは、一人として、皇國をあしかれと存候者は無之事ゆへ」。原文
この度のことは秘すに及ばない、と斉彬は書く。原文
御三家(将軍家に近い尾張・紀州・水戸の三家)にも御三卿にも國持諸大名にも詳しく伝え、意見を尋ねて評決すればよい。原文
それが人心一和の基になる、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 155

御三家方、御三卿方は勿論、國持諸大名へも委敷被仰聞、存寄之御尋等も御座候而、御評決に相成候へば、人心一和之基ひにも可相成

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もっともな言だ、と蘇峰は認める。
そのうえで、当局者に定見がなく衆議に一任するようなやり方では落着先がつくものではない、と突き放す。原文
斉昭に異国の知識を求めるのも随分危険なことだ、とも書く。原文
斉昭は外国を全く夷狄視しており、世界の大勢については井底の痴蛙に過ぎなかった、と。原文
ただし、と蘇峰は続ける。
盲目國では片眼も亦た帝王だ。原文原文

十条と五事

七月九日、斉昭は海防愚存を阿部に示した。原文
和親すべからざる理由が十箇条、海防の手段が五箇条。原文原文

第一の急務は、和か戦かを決着させ、いったん決めたら終始動かぬことである。原文
米艦は浦賀へ乗り入れ、白旗を差し出し、願書を奉り、あまつさえ内海まで乗り込んで空砲を鳴らし、我儘に測量までした。原文
「實に開闢以來の國恥とも可申候」。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 159

然に此度渡來之アメリカ夷、重き御制禁を心得ながら、浦賀へ乘入、和睦合圖の白旗差出し、推て願書を奉り、剰內海え乘込、空砲打鳴し、我儘に測量迄致し、其驕傲無禮之始末言語同斷にて、實に開闢以來の國恥とも可申候

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交易も退ける。原文
金銀銅鐵という有用の品を、羅紗や繻子という無用の物に換えるのは、大害有之小益無之。原文
和蘭との交易さえ停止してよいくらいだ、と斉昭は書く。原文原文

手段の側は具体的である。原文
和蘭に軍艦と蒸氣船、船大工と按針役を命じて取り揃えさせ、献上させよ。原文
外国の長を採るのは神國の広大なところであり、五經博士をはじめ職人たちを三韓から献上させた例が古史にある。原文
海岸の要害には屯戍を置き、漁師を組み分けて土兵に仕立てよ。原文
彼らは筋骨丈夫で、海上に鍛錬されている。原文
槍劍の二技を練磨せよ。原文
夷賊が上陸せぬかぎり、その慾を逞しくすることはできない。原文原文

このうち蘭国に大艦巨砲と造船技師、航海士を求めた一条だけを、蘇峰は高く買う。原文
急には行われなかったが、他日の幕府の海軍、ひいては日本帝國海軍の基礎を築く基礎となった、と。原文原文

封じられた一字

その長文のなかに、一行だけ性質の違う文が挟まっている。原文
付箋にこう書かれていた。原文原文

「拙策御用に相成候はゞ、和の一字は封じて、海防掛(海防担当役)りのみの預りに致し度事に候」。原文原文

自分の策を用いるなら、和という一字は封じ、海防掛だけが預かる形にしていただきたい。原文
表向きは打払いで押し通す。原文
和はある、ただし表には出さない。原文

蘇峰はここを見逃さない。原文
表向きには堂々と打拂を主張しつつ、裏面では今日の勢いでは戦勝の見込みがないと知って方便をめぐらしていた——斉昭および水戸派の議論の弱点は実にここに存する、と書く。原文
勝海舟も『籬の茨』で、景山公の説には表に押し立てるところと裏にするところがある、その表説をもって公の本意とするなら、恐らくは公を知る者ではあるまい、と評した。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 171

勝海舟は、其著『籬の茨』に於て、按ずるに景山公の御說、其表に押立つる所あり、また其裏にする處あり。智者は必よく其說の表裏を伺ひ奉らむ。當時士氣の衰弱萎靡を撓めむには、其表に說き給ふ處、所謂頭上の一大針ならめ。若是を察せず、其表說を以て、公の御本意とせば、恐らくは公を知る者にあらず

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阿部はこの意見書に跋を書き、書名を「みおやのみたま」と名づけている。原文原文

見えていたのは表だけ

天下が見ていたのは、表の一字だけだった。原文原文

横井小楠は八月十五日、熊本から江戸の藤田東湖へ書き送っている。原文
老公が御後見(幼い当主を補佐する役)されるとは天下中興の大機会の到来である、江戸を必死の戦場と定め、夷賊を韲粉にすべきだ、と。原文
横井小楠は佐久間象山と並ぶ開國論の一大先達として知られていた。原文
それでいて口吻はまったく攘夷(外国を追い払うこと)家である、と蘇峰は指摘する。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第11章 NDL コマ 171

天命人心、尊藩に屬し、老公樣、御後見眞に以て天下中興之大機會到來仕り、何の悅か之に過ぎず。此時に於て列藩(各地の大名家)總て老公樣(齊昭)の尊意を奉じ、二百年太平因循の弊政を一時に挽囘し、鼓動作新、大に士氣を振興し、江戶を必死の戰場と定め、夷賊を韲粉に致し、我が神州之正氣を天地の間に明に示さずんばあるべからず

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その封じられた一字を、当の斉昭はついに開かなかった。原文
攘夷屋の看板を、自ら下ろすことをしなかったからである。原文原文

蘇峰の見立ては辛い。原文
斉昭は世襲の大名中では最も卓越した一人であったが、天下の期待する程の人物ではなかった。原文
意見はあったが、枝葉に密にして大體に疎であった。原文
知術も手練もあったが、餘りに見え透いていた。原文
期待す可らざる代物に期待した者共が、却て其の不明を恥づ可きだ——蘇峰はそこまで書く。原文原文

一枚の付箋に書かれた本音と、天下が仰いだ看板と。原文
その隔たりのぶんだけ、期待は後で裏切られることになったのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 6・7・9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・19・20・21・22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33・34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・45・47・48
日付・人名本文の日付 7 件・人名 9 件を、『維新史料綱要』3,726 項目と突き合わせました。
あらまし29 文を本文の段落と照合しました。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物勝海舟島津斉彬徳川家定徳川家慶徳川斉昭松平慶永阿部正弘事件プチャーチンの長崎来航ペリー来航と国書の受領1853嘉永
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