史料
近世日本国民史 彼理来航及其当時
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幕末・維新
プチャーチンの長崎入港 ―― 穏当な使節と四十日後の露国旗
嘉永六年(1853年)七月十七日。長崎の洋上、遥かに白帆五艘。三ヶ所の番兵が早速に注進した。奉行方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場… -
幕末・維新
大雨の西御役所 ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨とロシア使節の初談判
長崎は朝から終日の大雨だった。午前九時、ロシアの使節が西御役所に姿を見せる。使節との問答は、午後四時まで続いた。川路はその夜の手記に、開口一番の問いを書き残している。「魯西亞は、虎狼之國と世に申候。然るや、又は信義の國な… -
幕末・維新
焼船は借りない ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨の露艦往訪と返翰交付
議題は二日後のことである。前日十四日、長崎西御役所でロシア使節を饗応した。料理のあと長崎奉行らが着座し、「通辯之もの大はたらき」、つまり通訳が大いに働いて、午後四時過ぎに散会した。帰る時も船からは音楽が鳴り、三本の橋には… -
幕末・維新
五年も十年もぶらかす ―― 嘉永六年六月、駒込邸で徳川斉昭に告げられた幕府の本音
徳川斉昭は、甲冑をつけた八郎麻呂が杉馬場で馬に乗るのを見物していた。七つ半、午後五時頃である。知らせは馬場まで届いた。同時に、老中阿部正弘からの状箱も届いた。自分が出向く代わりに二人を差し出す、という内密の書付である。「… -
幕末・維新
長崎の三か月 ―― 露使プチャーチンと幕府の先送り
検使の大井三郎助が沖へ出た。向かう先は、港内に繋がれたロシア船。告げるべきことは、一つだけだった。将軍徳川家慶の死である。 -
幕末・維新
空谷の跫音 ―― 嘉永六年、諸大名の対米意見書と高島喜平の開国論
嘉永六年(1853年)十月。高島喜平。かつて四郎太夫秋帆と名乗り、西洋砲術を日本に伝えた人物である。 -
幕末・維新
和の一字は封じて ―― 嘉永六年七月、徳川斉昭という切り札
嘉永六年(1853年)七月三日、水戸邸へ一通の達しが下った。海岸防禦筋につき用があるので、しばらくのあいだ隔日ほど登城されたい。隠居の身であるから表通りには及ばない、平川口から入り、風呂屋口から御控所へ通られよ。老中阿部…
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