あらまし
薩摩藩の跡継ぎ(世子)だった島津斉彬。嘉永2年(1849年)の正月29日付で、家臣の野村伝之丞へ手紙を返しています。その前年の12月18日、藩の財政を長く一手に握った調所笑左衛門が血を吐いて死にました。薩摩の内輪もめは、ここから急に動き出します。
蘇峰は、ペリーが来る前の大きな藩の大名を並べ、最も賢いと評判だったのが斉彬だと記しています。幕府の老中・阿部正弘も早くから斉彬に近づいたと蘇峰は書きます。ただし薩摩の争いは、派閥の対立に家の跡目争いが絡んで厄介でした。斉彬は心が広く、よく耐え、よく待った人物だと蘇峰は見ています。
薩摩の政治は長く島津重豪の時代が続き、孫の島津斉興が自分で政治を執り始めたのは重豪の死後でした。そのとき斉興43歳、斉彬25歳。それでも財政の実権は調所笑左衛門の手にあり続けます。調所は斉彬の才を恐れ、西洋の砲術や地理の学問に金を使うのは無駄づかいだと父に告げました。蘇峰はこれを作り話とは見ず、調所が本気でそう思い込んでいたのだろうと述べています。
斉興の側室お由良の方は、実子の久光を跡継ぎにしようと動いていると、斉彬を推す側は見ていました。斉彬の子は生まれては死に、その死に方も怪しまれます。斉彬自身も手紙で屋敷の奥向きを心配し、あの女を退ける工夫を頼むと書きました。幕府の命で父を隠居させるのはたやすいが、それでは斉興の気持ちを損ねる。嘉永2年9月29日付の手紙では、来年まで堪えるようそれとなく伝えてくれと頼んでいます。
ところが仲間の1人が事情を聞き出して当局に密告し、相手側は話を大きくふくらませました。嘉永2年12月6日、近藤隆左衛門ら6名に役を解いて島流しを命じ、暗に切腹を伝えました。翌嘉永3年3月4日には赤山靱負ら4人が切腹し、罰を受けた者は40余人に及びました。赤山の首を落とす役を務めた西郷吉兵衛は、血に染まった肌着を持ち帰り、息子の吉之助に渡します。18歳の吉之助はそれを抱いて一晩じゅう泣き明かしたと、蘇峰は記しています。
島津斉彬が家の跡を継いだのは嘉永4年2月8日。それまでこの流血をただ見ているしかなかった斉彬の無念を、蘇峰は思いやっています。
調所笑左衛門の死から斉彬の襲封までの2年余りを、斉彬自身の手紙と蘇峰の評からたどれます。
嘉永元年十二月十八日(1849年)。原文
薩摩藩の財政を長年一手に握ってきた調所笑左衛門が、血を吐いて死んだ。原文原文
その翌年、嘉永二年正月二十九日付で、世子(跡継ぎ)の島津斉彬が家臣の野村伝之丞に返した手紙がある。原文
調所の側近たちは、さぞ驚天動地の思いであろう、という意味である。原文
彼女は目黒橋の和屋の娘で、二階堂の失脚に絶望したのだと、蘇峰は注記する。原文原文
一人の老臣の死。原文
一人の女の投身。原文
薩摩の内訌は、ここから急に動き出す。原文原文
然も一藩內の黨爭は、決して水戶のみに限られなかつた。特に薩摩に於ては、それが黨爭とお家騒動と、互ひに相ひ錯綜して、一層の難題となつて來た
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く二人の賢君
蘇峰は、ペリー来航以前の大藩の大名を並べて評価する。原文
賢君と言える第一は徳川斉昭。原文
文武に油断がないのは鍋島斉正。原文
若いながら有望と見られたのは松平慶永。原文
そして最も賢明の評判が高かったのが、薩摩の世子島津斉彬であった、と。原文原文
老中(幕府の重臣)の阿部正弘は、雄藩の大名を一人ずつ懐柔することに心力を尽くした。原文
徳川斉昭と結んだのはその一例。原文
阿部は早くから斉彬の人物を聞き、これにも近づいたと蘇峰は記す。原文原文
だが薩摩の争いは、水戸とは性質が違った。原文
党争にお家騒動が絡んで、いっそうの難題となっていた。原文
もし斉彬と斉昭が役目を入れ替えたら、水戸の党争は斉彬の手でほぼ平定されただろう。原文
そして薩摩の禍乱は、斉昭の手で「血で血を洗ふ」に至ったかもしれない、と。原文原文
斉彬は「寛裕大度」で、よく忍び、よく謀り、よく待ち、よく晦まし、よく耐えた。原文
それでも阿部正弘がいなければ、斉彬の困難はさらに大きかったであろうと蘇峰は見る。原文原文
但だ齊彬は寛裕大度にして、能く忍び、能く謀り、能く待ち、能く晦まし、能く慮り、能く耐へた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く五十余年の重豪時代
なぜ薩摩はそれほど難しかったのか。原文
蘇峰は藩政の来歴から説く。原文原文
島津重豪は宝暦五年、十一歳で家督(家の跡目)を継ぎ、天保四年に八十九歳で死んだ。原文
前後の十年ずつを除いても、中間の五十余年は重豪の時代と言ってよい。原文
その子斉宣は十五歳で継ぎ、三十七歳で隠居(家督を譲って退いた人)した。原文
その間の出来事は「近思録崩れ」のほかにない。原文
孫の斉興は文化六年、十九歳で継いだが、政治は祖父重豪の手にあった。原文
重豪が死んで、ようやく親政が始まる。原文
このとき斉興は四十三歳、その子斉彬は二十五歳だった。原文原文
だが財政の実権は、重豪の存亡にかかわらず調所笑左衛門に帰していた。原文
調所の生きている間、薩摩の政治はほぼ調所の政治だったと蘇峰は言う。原文原文
調所は斉興の寵を独占し、毎年江戸と鹿児島を往復した。原文
そして斉彬の英明を見て、これを憚った。原文
斉彬もまた傍観者として、調所の仕事の欠陥を見ていたであろう。原文
一方は年少気鋭の進取の青年。原文
他方は過去の成功に満ち、現在の幸運に酔う老人。原文
相容れないのは避けがたかったと蘇峰は書く。原文原文
調所が、斉興の寵妾お由良の方(岡田氏)の一味であったかどうかは詳らかでない。原文
だが斉彬を悪しざまに父に告げたことは間違いないと蘇峰は断じる。原文
斉彬は西洋の砲術(大砲の扱い方)や地理、物産の学問を藩地に開くため、洋書を翻訳させ、器具を購入して送っていた。原文
これを調所派は「洋癖に固まり」「無用の冗費」と言い立てた。原文
斉彬には高祖父重豪の風があり、驕奢に流れれば立ち直りかけた家が危ないと、父に吹き込んだ。原文原文
蘇峰はこれを、必ずしも讒言とは見ない。原文
調所は本当にそう思い込んでいたのだろう、と。原文
「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」。原文
小鳥に大鳥の志は分からない、という言葉で蘇峰は締める。原文原文
「奥の處、甚だ心配」
お由良の方は、実子久光を斉興の相続者にするため、あらゆる工夫を廻らしたと正義派は睨んでいた。原文
斉彬の子女は生まれては死んだ。原文
その死に方も、正義派の目には怪しく映った。原文原文
嘉永二年五月十六日付で、山田一郎左衛門が同志の吉井七郎右衛門に送った手紙。原文
江戸で御三男(実は四男の寛之助)が誕生したのはありがたいが、盛之進様にも「又々おかしな御病症に被爲在候由」と記す。原文
盛之進にもまた妙な病症が出たそうだ、という意味である。原文
盛之進は嘉永三年十月四日に夭折した。原文
山田は「彼賊等を、早誅討可致哉と晝夜安眠も出來かね候」と続ける。原文
あの賊どもを早く討つべきかと、昼も夜も眠れない、と。原文
一江戶表御三男樣(其實齊彬の四男寛之助)御誕生之御儀は、誠に難有之處、盛之進樣(齊彬三男、嘉永三年十月四日天死)にも、又々おかしな御病症に被爲在候由、如何仕候はゞ、彼賊等を、早誅討可致哉と晝夜安眠も出來かね候次第、御察可被下候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く斉彬自身の嘉永二年正月の手紙にも、屋敷の表向きはまず良くなったが「奧の處、甚だ心配」とある。原文
奥向きが心配なので「姦女退散之義折角工夫專一に賴み入申候」。原文
あの女を退ける工夫を第一に頼む、というのだ。原文原文
同じ手紙によれば、幕命で隠居を命じるのは容易だが、それでは斉興の感情を害する。原文
斉興への「間接射撃」だったと蘇峰は言う。原文原文
針の席に坐るような中で何の破綻も見せなかった斉彬は、尋常の人ではなかった。原文原文
「來年迄之處、こらへ候樣」
嘉永二年、斉彬は四十歳になっていた。原文
天下に賢明を歌われながら、なお世子のまま。原文
本人は辛抱できても、擁立を願う正義派の面々には辛抱ができなかった。原文原文
斉彬はそれを知っていた。原文
嘉永二年九月二十九日付、村野伝之丞への手紙にこう書く。原文
近藤は一途な気質で、前後の考えが薄いから、粗忽な振る舞いがないよう頼む、と。原文原文
家老(藩の重臣)の碇山将曹(島津将曹)についても、調所とは違い「惡み候程之ものにて無之」と言う。原文
それほど憎むべき者ではない、と。
それでも近藤は「一圖の心底」だから承知しないだろう。原文
だから「來年迄之處、こらへ候樣に夫となく可申候」。原文
来年まで堪えるよう、それとなく言ってくれ、と。原文原文
近へも其處申遣候得共、一圖の心底ゆへ、中々承知不致と存申候間、何となく、其方にも心得いたし、來年迄之處、こらへ候樣に夫となく可申候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く匹夫の勇を誇る壮士ではないと蘇峰は評す。原文
斉彬は手に汗を握り、再三再四なだめた。原文原文
裏切りと無惨な処刑
だが、事は破れた。原文
有志の一人肥後平九郎が、同志の吉井七之丞を賺して事情を聞き出し、当局に密告したのである。原文
但馬市助も裏切り、側役の伊集院平に告げた。原文
伊集院はお由良の方に取り入り、碇山将曹、吉利仲らと結んで斉彬に不利を謀る一人だったと蘇峰は記す。原文
彼らは事件を針小棒大に捏ね上げた。原文
集会で政事を誹謗した、花倉の茶屋で行った異賊調伏の修法は悪意あるものだ、家老島津将曹、番頭(警備の隊の長)吉利仲らを殺害する陰謀がある。原文
そう言い立てて、嘉永二年十二月六日、近藤隆左衛門、山田一郎左衛門、高崎五郎右衛門ら六名に免役(役を解くこと)遠島(島流しの罰)を命じ、暗に自裁を伝えて切腹させた。原文
薩摩の式法では、評定所への呼び出し状の文句次第で、その日付の夜半前に切腹せねばならなかった。原文
遅れれば門前に検死の吏が来て待っていることもあった。原文
事件は翌嘉永三年三月四日、再燃する。原文
山田が京都の町人塩屋勘兵衛に送った書状と、高崎の日記が当局の手に入ったからだ。原文
死体を晒して磔にし、近藤は鋸挽きの刑にする、というのである。原文
三月四日には物頭赤山靱負、野村喜八郎、中村嘉右衛門、吉井七之丞が切腹した。原文
吉井は二十五歳であった。原文
罪を受けた者は合計四十余人に及んだ。原文
大久保利通の父、大久保次右衛門も免職遠島の中にいた。原文
正義派に反対党に乗じられる隙があったことは否めない。原文
だが処置の無惨さは、何とも言うべき言葉がなかったと蘇峰は書く。原文原文
そは山田一郞左衞門より、京都市民の鹽屋勘兵衞に送れる書翰、當局者の手に入り、又た高崎五郞右衞門の日記をば、親戚某、藩吏の威喝に怖れ、之を藩に致し、此れが爲めに彼等に乘ず可き口實を與へ、正義黨を一掃するに至つた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く甘酒を持ち来れ
赤山靱負の死を、蘇峰はとりわけ悲壮だと言う。原文原文
赤山は島津一門の日置家、城代(城主に代わって城を預かる役)家老島津久風の二男。原文
誠実で識量があり、人々は他日の大器と期した。原文
一世遠島を申し渡され、暗に自裁を伝えられると、赤山は泰然として母に別れを告げた。原文
志士(国事に奔走した武士)が死に臨むには心が落ち着かねばならない。原文
酒は一滴も飲むべきでない。原文
甘酒を持って来てほしい、と。原文原文
介錯(切腹する人の首を落とす役)は西郷吉兵衛に頼んだ。原文
吉兵衛は用達として父の代から日置家に出入りしていた。原文
事が終わると、吉兵衛は血染めの肌着をもらい受けて家に持ち帰った。原文
そして息子の吉之助に向かい、武士ほど物憂いものはない、この形見を汝に与える、と嘆いた。原文
吉之助は十八歳。原文
肌着を抱いて終夜泣き明かしたという。原文原文
有村仁右衛門は遠国から帰ったばかりで刑を免れた。原文
だが糺明奉行(幕府の役人)の職にありながら処分を知らされなかったことを大夫に問い詰め、職を奪われた。原文
翌日、息子の俊斎を高崎五郎右衛門のもとへ遣わすと、高崎は既に自刃していた。原文
中村忠左衛門は「今夕死を賜ふならん」と言い、汝の父に自重して志を果たせと伝えてほしいと語った。原文
その夜、果たして中村に死が賜わった。原文
大久保次右衛門は微笑して、自分に流刑を願い出よという内命があった、奇怪ではないか、と言った。原文原文
中村自若として日く、余は目下謹愼中なり。恐くは今夕死を賜ふならん。汝の父は久しく國に在ざりしを以て、恐くは連坐の厄なからん。幸運と謂ふべし。願くは自重して宿志を果せ。余は此言を以て汝が父に傳へんことを望むのみと
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く城下幾万の士女は気力を失ったようで、「秋風落日の觀」があった。原文
秋の風、落ちる日の眺め。
そのように荒涼としていた、と蘇峰は引く。原文原文
島津斉彬は嘉永四年二月八日、ようやく家督を継ぐ。原文
だがそれまでの間、彼はこの流血を傍観せねばならなかった。原文
「如何ばかり痛恨の事であつたであらう」と蘇峰は書く。原文原文(この日付は元本の中で記述が割れている。第15章は嘉永4年2月2日、第14章は嘉永4年2月8日とする。)
賢君と呼ばれた男が、来年まで堪えよと書き送ったその手紙。原文
それを読んだ者たちの多くが、来年を待たずに死んだ。原文
斉彬の忍耐は、彼らの血の上に成り立っていたのかもしれない。
十八歳の少年が終夜抱いていた肌着の重さは、そのことを言っているようにも読める。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 8 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 7 名のうち 6 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
