井伊側の色目鏡 ―― 安政五年十一月、水府事情探聞書と魔手が水戸に及ぶまで

あらまし

安政五年(1858年)十一月、井伊直弼の手元に一綴りの風聞書が置かれていた。題は『水府事情探聞書』。徳川斉昭を中心とする陰謀団の存在をつかむための材料である。

井伊の政治はほとんど探偵だけの政治だったと徳富蘇峰は記す。その左右の手だった長野義言と宇津木景福は、暗い所で動く者たちだった。斉昭本人を調べても手がかりは出ず、京都を洗い、周りの者に手を回して、動かしようのない証拠を探した。蘇峰はその結果を、まったくの無駄だったと言い切る。

探聞書は、信濃守真田幸貫の言葉として、斉昭は再び世に出してはならない人物だと伝える。一橋家の相続以来、斉昭は当主家定を暗君のように譏ったとも書く。閣老の阿部正弘には伝来の具足、備前守牧野忠雅にも贈り物。蘇峰は、これが慶喜を将軍に立てる野心の証拠として引かれたものだと説明する。斉昭自身は、自分の願いは松前・蝦夷を受けて北からの心配を除くことだと述べていた。

探聞書は将軍家定の結婚にも及び、薩摩守島津斉彬からの多大な働きかけに斉昭が折れたとする。斉彬は琉球との交易で国を富ませ、西国の大名に金を貸して恩を着せたとも書く。蘇峰は、金で人の心をつかんだという点は事実と違うと見る。越前守松平慶永は役人の道具に使われたとされ、家臣の橋本左内らが間に入って策を加えたと記された。左衛門尉川路聖謨は人を誑す姦人、外国奉行の岩瀬忠震は作法を乱した者として、長く書き立てられる。

探聞書と並んで、井伊の手は京都と江戸の双方に動いた。京都では九月七日の梅田雲浜の捕縛を始めに、十八日に鵜飼知信・知明の父子、二十二日に小林良典。江戸では九月十八日に飯泉喜内、二十七日の夜には日下部伊三治の家に役人が踏み込む。勝野豊作は手記を焼いて水戸藩邸に逃げ込み、妻と二人の子が連れ去られた。十月四日には藤森恭介が、着替えも許されないまま連れていかれた。

藤森の取り調べは淡々としたもので、役人は手がかりを得られなかったと蘇峰は見る。斉昭の一大陰謀の正体は、ついに突き止められなかった。それでも川路は姦人、岩瀬は疵物とされ、藤森は奉行所に引き立てられた。何が映っていたかは見る側の色眼鏡しだいだと、蘇峰は書き添えている。

証拠のない陰謀を追う目が何をとらえたのかは、『水府事情探聞書』の文面、水戸藩の茅根伊予之介の書状、そして藤森恭介の受け答えからたどれる。

目次

安政五年(1858年)十一月。原文
一綴りの風聞書が、井伊直弼いいなおすけの側に置かれていた。原文
表題は「水府事情探聞書」。原文原文

蘇峰はこれを、井伊派にとっての兵法の奥義書に喩える。原文
井伊の政治は「殆んど全く探偵政治であつた」と徳富蘇峰は書く。原文
探偵政治は徳川幕府の特色の一つで、井伊が開山というわけではないが、彼がもっぱらこれを使ったことは疑いない、とも記す。原文
安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件)そのものが、探偵政治の暴露と言っても差し支えない、というのが蘇峰の見方である。原文原文

井伊の左右の手だった長野義言と宇津木景福は、いずれも「暗黑中に飛躍する者共」であったと蘇峰は記す。原文
彼らが目指したのは、徳川斉昭とくがわなりあきを中心とする一大陰謀団の存在だった。原文
しかし中枢の斉昭を直接吟味しても要領は得られない。原文
そこで京都を詮議し、周辺の者に手を回し、「のつびきならぬ證據」を探した。原文
結果は「全く徒勞であつた」と蘇峰は断じる。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 50

井伊一派の目指したるは、水戶齊昭を中心とする一大陰謀團の存在だ。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

探聞書は、まず信濃守真田幸貫の言を借りる。原文
斉昭は「再び世に出すべき人には無之旨」を、幸貫がたびたび語っていたという。原文
再び世に出してはならない人物だ、という意味である。原文
次に、斉昭腹心の藤田誠之進と戸田忠太夫の名が挙がる。原文
異船渡来のたびの探索も、この二人の取り扱いで差し出されたとある。原文
この点だけは「間違あるまい」と蘇峰は認める。原文原文

斉昭の野心と弁明

「七郞磨と申上候砌より別て老公之御愛子」。原文
慶喜は七郎麿と呼ばれていた頃からとりわけ老公の愛子だった、と探聞書は言う。原文
一橋相続以来、斉昭は「御奸計强く」、当主徳川家定とくがわいえさだを暗主のように譏り、徳川慶喜とくがわよしのぶを並びなき名君のように噂させた、と探聞書は言う。原文原文

登城(江戸城に出仕すること)が繁くなった頃も、かつての海防論議に似合わず万事控え目で、役人の機嫌を取った。原文
閣老の阿部正弘あべまさひろには伝来の具足を、備前守牧野忠雅まきのただまさにも贈り物をした。原文
一方で幕府の差し支えになると見れば議論は強く、海防掛(海防担当役)の勘定奉行(幕府の財政を司る役)二人立ち会いで面会を願い、用談が済めば当主を議し、慶喜の噂をした。原文
すべては「御大望より、事を左右に寄」せた表裏反覆の処置だ、と探聞書は結ぶ。原文原文

蘇峰は、これを斉昭が慶喜を将軍とし、自ら後見(幼い当主を補佐する役)となって天下の政を専らにしようとした野心の証拠として引かれたものだ、と説明する。原文
ただし「色目次第にて、如何樣とも判斷が出來る」とも書く。原文
見る側の色眼鏡しだいだ、という意味である。原文原文

面白いのは、斉昭自身の弁が並べてあることだ。原文
幕府の士某の内話に、斉昭が慶喜を将軍に直し、自身は西丸に移って後見をしたいと京都まで周旋した、それでは御謀叛同様だ、とある。原文
これに対する斉昭の弁はこうである。原文
自分の宿願は松前・蝦夷を一円に戴いて北狄の患いを除くことで、天保午年から数度願ってきた。原文
東照宮が千辛万苦して太平にした天下を、我が子を立て自分が後見して、これ以上よく治まるはずがない。原文
「小人等自分の心に引あてゝ了簡をするより、天下の政道行違ふなり」。原文
小人が自分の心に引き比べて推量するから、政道が行き違うのだ、という文である。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 51

幕府の士某內話に曰、水府老公にて一橋君を將軍に御直し、後見被遊度御内願にて、京師迄御周旋被遊候由。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

薩摩守の山気

探聞書は将軍家定の結婚にも及ぶ。原文
阿部正弘が薩摩の姫との縁組を取り持ったのは、薩摩守から多額の賄賂を受けたためか、と探聞書は疑う。原文
その後、薩摩守島津斉彬しまづなりあきらから斉昭にも「莫大之仕向」があり、斉昭は賄賂に迷って承知した、と探聞書は言う。原文
蘇峰はこれを、阿部が斉昭の野心を絶つために縁組を肝煎り、斉昭は薩摩の賄賂で泣き寝入りとなったという意味だろう、と読む。原文原文

斉彬については、大禄高位の人に似合わず才気に優れ、「下人に等しく山氣も有之」とある。原文
下人のような山気がある、という評である。原文
琉球交易で国が富み、西国諸侯(大名たち)に貸金をして恩を着せ、「公邊機密は勿論、世上之形勢、當世之景氣を胸中に貯」えていた。原文
斉昭とは表で譏り合い内実は同腹で、京都の藩邸の家来も近頃増えた、と探聞書は続く。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 53

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

蘇峰はこの斉彬観を「或る點に於ては、見當違ひ」と評する。原文
斉彬は斉昭に毛頭敬服していなかったが、慶喜擁立には熱心で真面目だった。原文
金銭で人心を収攬したというのは事実に反する。原文
しかし世上の形勢を胸中に貯えていた点は「決して相違なき事實」だと言う。原文
当時まだ海軍練習生の長だった勝海舟かつかいしゅうのような幕府の属僚にまで腹心を布いていたのだから、と蘇峰は付け加える。原文原文

水戸家の狗

探聞書の筆は幕臣たちにも向く。原文
閣老や役人たちは斉昭の奸計を打ち明けられていた、と探聞書は書く。原文
蘇峰はこれを「實に驚き入りたる誣妄」と呼ぶ。原文
越前守松平慶永まつだいらよしながは役人の道具に使われ、いまは後悔して十一、二歳から十四、五歳の童子を小姓(主君の身近に仕える役)に使い謹慎している、しかし家臣の橋本左内はしもとさないらが間に立って種々奸計を加えた、と記される。原文
左内が「羅織」を免れなかった理由も、これを見れば首肯される、と蘇峰は書く。原文原文

左衛門尉川路聖謨かわじとしあきらには、藤田誠之進と槍術の相門で無二の交わり、奈良奉行の頃に斉昭手製の印籠を頂戴し、水薩両属の士である日下部伊三治を家来同様に置き、下田のロシア船応接にも連れて行った、とある。原文
「此れでは川路は全く水戶家の狗」だと蘇峰は書き、川路にとっては当惑千万だろう、彼はいかなる場合も幕臣たることを忘れなかった、と弁じる。原文
探聞書は川路を、諸人を誑し、御用部屋を一味に引き入れた「姦人」と呼ぶ。原文
蘇峰の言葉を借りれば、井伊側の探偵の眼中では「箸にも棒にもかゝらぬ姦物」だ。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 55

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

川路ら、名を挙げられた幕臣は、いずれも「疵物」となった。原文
要は一橋推戴説に加担したためだ、と蘇峰は記す。原文原文

外国奉行(外交を扱う役)の岩瀬忠震には、とりわけ長い。原文
秀才に任せて書生風で作法を乱し、堀田に深く取り入り、諸侯に公辺の機密を漏らした。原文
「部屋住之儀いたし方も無之、按摩を取り候事は、壯年より仕覺」。原文
部屋住みになっても構わない、按摩は若い頃から覚えている、と人目を憚らず言い触らした、という文である。原文
蘇峰はこの一句を「正しく岩瀨其人の口吻を活躍せしめてゐる」と評し、虚実混淆の中にあってこの一句は真に近いのではないか、という筆致で書く。原文
のちに岩瀬に下った処分の文言は、考えるところがあり、役を免じ、家督(家の跡目)も許さず、謹慎せよ、というものだった。原文
井伊側の憎悪の程度が思いやられる、と蘇峰は書く。原文原文

慶喜については、六月二十日頃に上野参拝の帰り湯島霊雲寺に立ち寄り、太元帥明王を拝礼したとある。原文
蘇峰はこれを、慶喜が将軍を調伏でもするかのように故意に報じたものだと読む。原文原文

九月二十七日の夜

探聞書と並行して、井伊の手は京都と江戸の双方に動いた。原文
京都では安政五年九月七日の梅田雲浜逮捕を手始めに、十八日に鵜飼知信・知明父子、二十二日に小林良典こばやしよしすけ。原文
江戸では九月十八日、旗本(将軍直属の武士)曾我権左衛門の家臣飯泉喜内。原文
二十七日夜、日下部伊三治の宅に幕吏が踏み込んだ。原文原文

水戸藩の有志茅根伊予之介の書状によれば、御用番松平泉州の指図で町奉行(江戸などの町を治める役人)所の与力(奉行の下で働く役人)が大勢押し込み、薩摩の留守居(江戸での藩の連絡役)立花直記らが付き添って呼び出され、別の留守居が書付(文書)類を捜索して持ち帰った。原文
「併京師手掛之書は無之と申候由」。原文
京都に関わる書類はなかったという、という文である。原文
前日から用心していたからだろう、と茅根は注する。原文原文

志士(国事に奔走した武士)の勝野豊作は禍が身に及ぶことを覚り、手記と文書を焼き捨て、水戸藩邸に投じて大野謙介の家に隠れた。原文
捕吏はその妻と二子正倫、正満を拘え去った。原文
勝野のもとには、まず貴兄が危ない、と知らせる手紙が届いていた。原文
勝野の逃亡は、この予備知識のゆえだろうと蘇峰は書く。原文原文

もう一通、勝野の手紙が残っている。原文
幕吏の手に触れてはならぬ文書を筐に納めて長谷川作十郎に渡し、他日息子の熊長が成長したら返してほしい、という内容である。原文原文

十月三日、幕府は水戸藩に、藩邸に逃げ込んだ勝野らを早く連れて出頭させよと求めた。原文
水戸藩は翌四日、両人不在で行先も分からぬと答えた。原文
「此の如く幕吏の手は、漸々と水戶に及びつゝあつた」と蘇峰は記す。原文
一方、水戸一藩の有志には暴発して江戸へ押し上ろうとする気勢があり、それは「薪に油を洒ぐもの」だったとも書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 68

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

羽織袴のまま

十月四日、幕吏の手は藤森恭介に及んだ。原文
天山と号する学者的志士で、斉昭から合力米十人扶持を受けていた。原文
夜五ツ時、与力が宅に来たとき、恭介は上野真如院で講釈中だった。原文
座敷の書付は引き上げられ、駕籠が真如院へ回された。原文
「一寸宿所へ著替致度」と恭介は言った。原文
ちょっと宿所へ戻って着替えたい、という意味である。原文
それには及ばぬと言われ、羽織袴のまま同道した。原文原文

恭介は、日下部とは何年か前に一度、その後一度会った程度、木村と飯泉は名も初めて聞く、勝野は随分心安く、水戸の動揺を聞くため往来した、と答えた。原文
公辺の御役方まで手を付けねば治まらぬと日下部らが申し合わせたのではないか、と迫られると、卑賤の身分で「所詮不及儀は心得居候」と答えた。原文
とうてい及ばぬことは承知している、という意味である。原文
証拠とされた二通の手紙は、門人(弟子)荒木犀五郎あての謀書だと述べ、何の構いもなく引き取った。原文
蘇峰はこの鞠問を「寧ろ淡々たるもの」と評し、幕吏は端緒を得ようとして得なかったのだろう、と書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 70

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

色目鏡

蘇峰はこの稿を昭和六年三月十五日午前五時、病のため東京木挽町の南病院で続けたと記している。原文
その筆が最後に置くのは、一つの比喩である。原文
探聞書は「井伊側の色目鏡」だった、と。原文原文

攘夷(外国を追い払うこと)派も開国家も、皆一味の奸計で連絡し、容易ならぬ陰謀を企てたものとして、事実と風評と想像を湊合し、思う存分に捏ね上げた。原文
その結果、陰謀派を一網に羅し尽くす大芝居が打たれ、「實に寒心に堪へざるもの」が出来上がった、と蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第4章 NDL コマ 60

この資料は原本のコマを直接ご覧ください。

国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く

斉昭の一大陰謀の正体は、ついに突き止められなかった。原文
それでも川路は姦物に、岩瀬は疵物に、藤森は羽織袴のまま奉行所に引き立てられた。原文
証拠のない陰謀を追う眼鏡は、何を映していたのか。原文
それは水戸の隠居(家督を譲って退いた人)ではなく、眼鏡をかけた側の恐れそのものだった、とも読めるのではないだろうか。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228565
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 17 名のうち 12 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼勝海舟小林良典島津斉彬川路聖謨徳川家定徳川慶喜徳川斉昭松平慶永橋本左内牧野忠雅阿部正弘年1858安政