あらまし
安政五年(1858年)六月十二日、間部詮勝のもとを、井伊直弼の使いとして宇津木六之丞が訪ねる。よく話し合って帰るようにと命じられた使いだった。話題は二つ、仮条約と、朝廷への使者を酒井若狭守忠義にしてよいか。間部は、京都の事情に慣れた者がよいと答えた。
間部の歩みは速く、天保二年五月に寺社奉行の加役、同七年に大坂城代、同九年四月に京都所司代。所司代のときは京都の町に便所を設けさせ、街角に道筋を記した木の札を打たせている。天保十一年正月には老中に加わり、その後十五年は詩や書画に親しみ、仏の経典を写す日々。そして六月二十三日、再び老中に選ばれ、財政と外国のことを受け持つよう命じられる。
同僚の見方は冷たかった。老中久世広周によれば、間部は自ら望んだ役で、外国の事情には不案内。昔の所司代の経験から京都を手の内のように言うので、しくじるのではと危ぶまれる。外国人を犬と同じように語っていたという話も出ている。伊達宗城が酒井忠義や太田資始について尋ねた際の久世の答えも『昨夢紀事』にある。
徳富蘇峰は、間部を井伊の意向に従うだけの手先で、独自の見方もないと厳しく評する。幕府の構えは、第一線に酒井忠義、第二線に間部。井伊の腹心・長野義言の手紙を、蘇峰はこう読む。前任の本多忠民が公平で手先として役立たなかったため交代した、というのである。同じ手紙には、隠れた企ての者を罰してから上京すれば治めやすいとの見込みもあった。
ただ世間の口があるので、使者の役目が済んだあとにする、とも書かれている。それが七月四日の決定、五日の実行になった。将軍の重い病が予定を変えたのだろう、と蘇峰は見る。間部は浅い考えの人でも、筋書きを書いた者は浅くなかった、とも書く。酒井忠義は京都へ、間部が追って上京する旨を告げる。
京都到達は七月十日。酒井家の旧臣で今は浪人の梅田雲浜は、井伊に同意すれば朝敵だと書き送る。七月十六日には間部が京都へ持参する書付の下書きができた。安政五年七月、井伊派は勢いの頂点にあり、思うようにならないのは京都だけだった。戊午の大獄の責めの大半は幕府、なかでも井伊にあるというのが、蘇峰の最も公平な判断である。
使者の人選から京都への乗り込みまでを、井伊家の記録や『昨夢紀事』、長野義言の手紙からたどれる。
井伊と間部の密議
安政五年(1858年)六月十二日。原文
この日、井伊直弼の使いとして、家臣の宇津木六之丞が間部詮勝の屋敷を訪ねた。原文原文
井伊家の記録には、この使いについて「篤と御談じ申歸り候樣、被仰付候」とある。原文
よく話し合って帰ってくるように、と命じられた、という意味である。原文
側役を介して手紙を出すと、ほどなく面会となった。原文
話は二つあった。
一つは仮条約。原文
もう一つは、朝廷への使者の人選である。原文原文
「天朝え之御使は、酒井若狹守被遣候ては、如何哉」。原文
朝廷への使者は酒井若狭守忠義を遣わしてはどうか、と宇津木は問うた。原文
間部は答えた。原文
京都の事情に慣れた者がよい、若狭守で結構だ、という返答である。原文原文
井伊と間部の関係は、この五月末、間部の参府のあとに始まったらしい、と徳富蘇峰は記す。原文
六月十一日には参勤の礼に出た間部を、井伊は退去を待って迎えた。原文
そして十二日のこの面会。原文
「間部これより密議に參す」と『安政紀事』は簡潔に書く。原文原文
このとき井伊も間部も、六月十九日に条約へ調印することになるとは、夢にも思っていなかった、と蘇峰は言う。原文
使者が酒井一人でよかったのは、まだ調印以前だったからである。原文原文
十五年間の雌伏
間部詮勝とは、どういう人か。原文原文
越前鯖江五万石の城主。原文
先代詮允の養子で、文武の諸芸に達し、下情にもよく通じていた、と蘇峰は書く。原文
阿部正弘、堀田正睦、井伊直弼が、いずれも庶子や弟から家を継いだのと同様、間部もまた養子の賢君の一人であったという。原文
尋常一様の大名でなかったことは言を俟たない、というのが蘇峰の見方である。原文原文
経歴は速い。原文
天保二年五月に寺社奉行(寺社を治める役)加役。原文
天保七年に大坂城代(城主に代わって城を預かる役)。原文
同九年四月に京都所司代(京都に置かれた幕府の代表)。原文
所司代のとき、京都の市街に便所を設けさせ、街角に何町何通何へ入ると記した木札を打たせた。原文
事は小さいが、彼の恵政として伝記に残っている、と蘇峰は記す。原文
天保十年には仙洞御所の営繕方として力を尽くし、御手炉を賜ったという。原文
天保十一年正月、老中(幕府の重臣)加判の列。原文
「鰻上りに上りて」と蘇峰は形容する。原文原文
水野忠邦と意見を異にしたためと言われるが、蘇峰は、恐らく水野の天保政治に左程役に立たなかったからであろう、と見る。原文原文
それから十五年。原文
詩文書画琴棋の文雅に耽り、傍ら仏経を写し、誦んだ。原文原文
その閑散の身が、安政五年六月二十三日、再び老中加判の列に擢んでられ、勝手掛、外国掛を命じられた。原文
「抑も此れは何故であらう。問題は此事だ」と蘇峰は問う。原文原文
答えは、再任前後の間部の振る舞いにある。原文
六月二十三日、太田道醇(資始)、松平乗全とともに加判の列。原文
徳川斉昭らが松平慶永を大老(幕府の最高職)に推薦すべしと言うと、間部は、三家を四家にできないように大老も一人で足りる、と滑稽まじりに言って一座を笑い倒した。原文
知己の恩に酬いようと、いかに勉めたかがわかる、と蘇峰は記す。原文原文
蘇峰の評は厳しい。
間部は閣老の一人ではあるが「井伊の意を承けたる詭隨者」、つまり言われるまま従う者で、井伊の手先に過ぎなかった。原文
独自の見識も信念も抱負もない。原文
大なる悪形でもなく、大なる人物でもない。原文
しかしその施した仕事は、維新史の中で最も暗黒で、惨憺たる一齣の悲劇であった、と蘇峰は書く。原文原文
閣老の一人ではあるが、寧ろ井伊の意を承けたる詭隨者であつて、云はゞ井伊の手先であつたに過ぎない。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「掌握に入れたらん様」
間部が京都へ行く。原文
そう決まったころ、同僚たちの評は辛い。原文原文
『昨夢紀事』によれば、老中久世広周はこう語った。原文
使者は間部が「望みたるにて、先年所司代中經歷の覺えもあればと、京師の事は掌握に入れたらん樣に申居れり」と久世は語った。原文
自分から望んだ役で、昔所司代を務めた覚えがあるから、京都のことは掌の中にあるかのように言っている、という意味である。原文
外国の事情には不案内なのに、自身は事もなげに自負しているから、仕損じるのではないかと危ぶまれる、と久世は付け加えた。
同僚の言だから恐らく本音であろう、と蘇峰は見る。原文原文
久世はさらに、間部は「淺慮天狗」で、英も露も米も知らない、夷人は「犬同樣也」と言っている、と伝える。原文
犬が庭に入ったからといって不審もなく懸念もない、誰でも追い出すか捕まえればよい、コンシュルといっても取るに足りぬ、と間部が語ったという。原文原文
同日、伊達宗城が久世に酒井忠義や太田資始について尋ねると、酒井も当分の事には不通、太田は古い事は覚えているが今の事情には迂闊で遅緩の性質、と久世は答えたと『昨夢紀事』にある。原文
「此の如き內閣、此の如き特使」で京都との交渉をすれば、誰しも危ぶむだろう、と蘇峰は書く。原文原文
一線酒井、二線間部
幕府の陣立は、第一線に酒井忠義、第二線に間部詮勝。原文原文
酒井が本多忠民に代わって所司代となった理由を、蘇峰は長野義言の手紙から読む。原文
長野は井伊の腹心。原文
本多は比較的公平で、井伊の手先として働く程には役立たなかった、というのが蘇峰の読みである。原文原文
同じ手紙に「○役者」という符号が出る。原文
長野や島田は宮を眼の敵にし、その隠微を発こうと焦っていたが、本多はそれをしなかった。原文
その件は酒井もよく承知している、と長野は書く。原文原文
酒井自身、京都所司代は二度目である。原文
天保十四年十一月から嘉永三年七月まで、足掛け八年、正味六年九か月。原文
京都功者の一人であったに相違ない、と蘇峰は記す。原文原文
長野の手紙にはもう一つ、注意すべき点がある。原文
「右隱謀の方々被罰候上、御上京に候はゞ、治り安く」との見込みもあったが、それでは人の口があるので、間部の使命が済んだ上で、とある。原文
処罰を先にしてから上京すれば治めやすいという議論もあったが、世間の非難を招くので使者の役目が済んでから、という意味である。原文
それが七月四日に評決、五日に実行となったのは、将軍の大病、一層進めて言えば危篤が、予定を急変させたものであろう、と蘇峰は見る。原文原文
井伊派は決して無関心には京都に乗り込まなかった。原文
できる限りの偵察と準備をして、後にゆっくり間部を送り、一挙にその根本を衝こうとした。原文
「間部は淺慮の士であつたが、其の筋書の作者は決して淺慮ではなかつた」と蘇峰は書く。原文原文
所司代となった酒井は、京都への書面で、本多を溜詰の格とし、自分を所司代に任じたこと、外国取扱いの件で間部が使者として追って上京すること、を告げる。原文
京都到達は七月十日。原文
同じころ、徳川慶福を養君(将軍のあととり)とする旨も六月二十五日に奏聞された。原文
将軍徳川家定はすでに七月六日に薨去していたが、発表は八月八日、と蘇峰は記す。原文原文
もう一通、酒井が着任にあたって京都へ送った書面がある。原文
所司代としての立場を明白にするために注意すべき文書だ、と蘇峰は言う。原文原文
酒井はまず、旧交を陳べる。原文
次に家柄。原文
先祖の酒井忠勝が若狭を拝領して以来、代々家訓として朝廷を大切に心得てきた、という。原文
忠勝は徳川初期の賢相で、酒井家には山崎闇斎の学統が伝わり、梅田雲浜もかつてその家臣だったから、朝廷崇敬の筋に疎かのある筈はなかった、と蘇峰は補う。原文原文
さらに酒井は、近来の幕府当路の者は崇敬の心が薄いと憂え、「病に託し、久々引込罷在候處」、病気を口実に引き籠っていたところ、神奈川で仮条約が調印されたと聞いて驚いた、と書く。原文
そして堀田正睦と松平忠固を調印の主謀者とし、両人が翌日退役したのを「聊愉快に存候」、いささか愉快に思った、と述べる。原文原文
蘇峰はここで問い返す。
なぜ井伊のために城中で偵察者の役目を勤めたのか。原文
引き籠っていたと言いながら、井伊と手紙を往復し、自ら訪問しているではないか。原文
「彼も亦た偸安苟且と罵る徒輩と、同穴の狐ではなかつた乎」。原文
自分が罵った、目先の安逸を貪る者たちと同じ穴の狐ではなかったか、というのである。原文原文
この文書は七月十三日ごろ京都に着き、三条実万の手録によれば十四日に近衛忠熈から写しが届き、極内々に御前で拝見したとある。原文
京都では内意をもって迎えられたに相違なく、それが後に長野らから「生温い」と指弾される所以であろう、と蘇峰は見る。原文原文
もう一人、この再勤を憂えた者がいる。原文
梅田雲浜。原文
酒井家の旧臣で、いまは浪人。原文
雲浜は旧主の酒井に書き送った。原文
「彥根侯に御同意被成候ては、朝敵と申者にて、萬世逆臣之罪名を御蒙り可被成候」。原文
彦根侯に同意すれば朝敵であり、万世に逆臣の罪名を蒙ることになる、という意味である。原文
別紙には、御家来衆は「一統腹を御切被成候御覺悟より外無之候」とまである。原文
一同腹を切る覚悟のほかはない、というのである。原文原文
蘇峰の条約文案批判
さすがの井伊も、勅許なき調印については心中忸怩たるものがあった、と蘇峰は書く。原文
井伊自身が「大不出來」「小子もあきれ申候」と言っている。原文原文
七月十六日、間部が京都へ持参する書付(文書)の草稿ができ、御用部屋で少々添削された。原文
彼らがいかに自ら弁疏するかを示す最も切要な文書だ、と蘇峰は言う。原文原文
文案はまず、蒸気船の発明で「天涯も比隣」となり、今兵端を開いても勝算がない、と。原文
神奈川、長崎、箱館、新潟で試み、五、六年後に兵庫、十三、四年のうちに得失を見る、とも書く。原文
「一正一反、詮じ來れば、武備不十分であるから、當分條約免許」というのが蘇峰の要約である。原文
なぜもっと堂々と、開国が日本に有利であり宇内の大勢であると言わなかったのか、と蘇峰は惜しむ。原文原文
そして蘇峰が最も批判するのは、その後の論法である。原文
条約再議の年限まで各国と和親を結べば、日本の貿易品は乏しくなり、各国は利を均しくできず、抜け駆けして特約を結ぼうとする国が出る。原文
そのとき日本は有利な地歩を占め、皇統の徳を示して懐かせ、「我より彼を可制」、こちらから彼らを制御できるようになる、と。原文原文
「奇怪千萬」と蘇峰は言う。原文
有利な貿易品なら生産が増えるのは必然ではないか、茶や生糸なら尚更だ、と。原文
文案はさらに、献貢の品を持って来た国には交易に倍して報い、不敬の国は服従の国に謀って制御し、「三韓掌握之往古に復すべし」とまで書く。原文
三韓を掌握した昔に戻れる、というのである。原文
「愈よ出でゝ、愈よ妙」「餘りに甘い口上振り」と蘇峰は書き、堀田・岩瀬の上申(上に申し出ること)書に比べれば千里の差があるとする。原文
真に信じたなら愚、口実なら狡、二者その一に居らねばならない、というのが蘇峰の断である。原文原文
根本精神の誤り
なぜこの文案が生まれたのか。原文原文
先手は所司代酒井忠義。原文
打手の大将は間部詮勝。原文
その羽翼は、六月五日に浦賀奉行(浦賀を治める幕府の役人)から転じた京都町奉行(京都の町を治める役人)小笠原長門守と、七月十一日に禁中取締を命じられた伏見奉行内藤豊後守。原文
そして大獄の輪郭を製造した張本人は長野義言だ、と蘇峰は書く。原文原文
安政五年七月、井伊派は全盛。原文
将軍の喪を秘した井伊は、自己の意志を将軍の意志として天下を支配できた。原文
ただ京都だけが意のままにならなかった。原文原文
井伊は京都を、天皇、公家、草莽の有志の三つに分け、公家は浪人に左右され、天皇は公家に左右されると見て、浪人狩りを覚悟した、と蘇峰は推す。原文
天皇には独自の意見と責任の観念があった。原文
草莽を押さえ込めば朝廷はどうにでもなる、という考えは見当違いだった、と蘇峰は言う。原文
幕吏平山謙二郎が橋本左内に語った「承久の例もあれば」という井伊の言も、語勢に乗じたものかもしれない、と蘇峰は見る。原文原文
戊午の大獄の責任の大過半は幕府、幕府の中では井伊にある、というのが蘇峰の「尤も公平の裁斷」である。原文
斉昭は「五月蠅き親類」ではあっても、本家を潰す心はなかった。原文
「水戶殿御謀反」は反対派の幻影であった、と。原文原文
序文で蘇峰は、一国の大宰相は天下のために公を秉ることを第一義とせねばならぬ、と書く。原文
井伊は当初から水戸派打手の大将として出てきたから、することなすこと悉くその根本精神から割り出した。原文
「其の根本精神が、第一に間違つてゐる」。原文原文
六月十二日、宇津木六之丞が間部の屋敷を訪ねた日。原文
浅慮の使者を選んだのは誰か。原文
その筋書きを書いた者は、本当に浅慮でなかったのか。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223987 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文の日付 21 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 16 名のうち 11 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
