あらまし
嘉永7年(1854年)2月10日、横浜の岸の会見所で、米国の提督ペリーと日本側5人の委員が向かい合った。前日には、日本側の役人黒川嘉兵衛が通訳を介して上陸の人数を確かめていた。
会見所は四方を幕で囲まれ、外から中が見えなかった。提督が士官に理由を問わせると、敬意を示すため、人が入り込むのを防ぐためという答え。提督は幕を外さなければ上陸しないと告げ、日本側はすぐ取り払った。沖には蒸気船3隻と帆船6隻、合わせて9隻が横一列。
前日に伝えられた人数は30人ほどだったが、実際に上陸したのは約500人だった。武装した士官や水兵が27隻の小舟で漕ぎ寄せ、楽隊3組も短銃を持って上がった。礼砲は17発、21発、さらに林大学頭に17発。形式を重んじる相手はまず驚かせる必要があると提督は考えていた、と徳富蘇峰は書く。2月7日には、近海の軍艦50隻に加えて100隻を20日ほどで集められると黒川嘉兵衛に語っていた。
畳に赤い布を敷いた広間で、米国側は委員一人一人を観察した。林大学頭は55歳ほどで応対が丁寧、伊沢政義は一番若く冗談好きで外国との行き来に自由な考えを持つ、と記されている。末席に離れて座った松崎満太郎は、ほかの委員を見張る役ではないかと見られた。主任の通訳は森山栄之助で、林大学頭の足元にひざまずいて指示を待った。
日本側の返書は、すべてを受け入れることはできないと切り出す。理由は前の将軍徳川家慶が亡くなり、新しい主の儀式が整っていないこと。そのうえで石炭、薪と水、食料、難破した人の救助は望みのようにすると述べ、港を決めるには5年ほどの猶予を求め、それまでは来春1月から長崎へ来ればよいとした。船の不足品に日本の産物を渡すという数行で、閉ざされた仕組みはすでに破れたと蘇峰は見る。
亡くなった水兵の埋葬をめぐり、日本側は長崎へ回すと答えたが、提督は拒み、横浜の寺の近くに葬ることが認められた。饗応の席では、異人が箸を使えず匙や小刀で食べ、菓子を紙ごと懐に入れる様子が日本側の覚書に残った。手渡された3通目の書付には支那との取引の数字が並び、和親の扱いがなければ争いの種になると書かれていた。添えられた条約草案は税や領事の扱いまで細かいものだったが、当時の日本側はその場を延ばすことしか考えられなかった、と蘇峰は結ぶ。
この記事からは、第1回の横浜会見で何が動いたのかが、日本側の返書と3通目の書付、日本側の覚書、そして昭和3年1月1日に山王草堂で筆を起こした蘇峰の評からたどれる。
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。原文
米国の提督(艦隊司令官)ペリーを迎える岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。原文
外からは中が見えない。原文
提督は士官を岸へ送り、理由を問わせた。原文
日本側の答えは、亜米利加人に敬意を表するため、また人民の闖入を防ぐため。原文
提督は「断じて無用」と言い切り、幕を取り去らねば上陸しないと告げた。原文
日本側は直ちに幕を取った。原文原文
この一幕から、徳富蘇峰は第一回横浜会見の記事を始めている。原文
西暦で三月八日。原文
沖には蒸気船三隻と帆船六隻、合わせて九隻が横一列に並んでいた。原文
「牢屋を其中に圍うてゐるかの如く」と見えた幕は、提督の一言で消えたのである。原文原文
三十人と五百人
上陸に先立つ二月九日、通詞(通訳)との問答があった。原文
日本側の黒川嘉兵衛が、上陸の総人数を尋ねる。原文
答えは、三十人ほどを上陸させるつもりだ、恐れながら申し入れておく、というものだった。原文原文
実際に上陸したのは、およそ五百人だった。原文
午前十一時半、武装した士官・水兵・水夫が二十七隻の短艇に分乗し、司令官ブカナンの指揮で漕ぎ寄せる。原文
士官は制服に肩章、剣と短銃。原文
楽隊は三組すべて上陸し、彼らにまで短銃を持たせた。原文原文
提督が大艇に乗り移ると、マセドニアンが十七発の礼砲を放った。原文
会見所に入るとさらに二十一発、続いて林大学頭に対して十七発。原文
ポーハタンの檣頭には日本の旗が掲げられた。原文原文
日本人のような「儀式張りたる矯飾的」な人民には、まず度肝を抜くことが必須だと提督は考えていた、と蘇峰は書く。原文
二日前の二月七日には、黒川嘉兵衛に向かってこうも語っていた。原文
「近海へ軍艦五十隻は留め有之、尙又カルホルニヤに五十隻用意致し置候間、早速申遣し候へば、二十日之程には、百隻之軍艦は相集り候」。原文
蘇峰はこれを「彼理の威嚇」の一例として挙げている。原文原文
鶴の画と五人の委員
会見所の中は、久里浜のそれとほぼ同じ大きさの広間だった。原文
畳の上に赤い布。
窓には油障子。原文
漆塗の台に載せた銅の火鉢に炭火が盛られ、壁には樹木や動物、とりわけ鶴の画が多く懸かっていた。原文原文
提督と士官・通訳が左側の上席に着くと、次の間から五人の委員が出てきた。原文
米国側の記事は、その一人一人を観察している。原文
林大学頭は五十五歳くらい、体格堂々、応対は非常に丁寧で「仁愛深き眼差し」をしながら、むしろ気難しい顔付き。原文
伊沢政義(美作守)は四十を多く超えない一番の若手で、冗談や駄洒落が好きな快活な男。原文
通詞の話では、外国交通について同僚よりずっと自由な意見を持ち、楽隊が始まるとじっとしていられなかったという。原文原文
鵜殿長鋭(民部少輔)は丈高く、顔面が突き出て蒙古人式。原文
そして松崎満太郎(純)。原文
当初四人と通じておいて後から加わった一人で、末席に離れて座り、側の書記が会見の経過を書き取り、時に松崎の助言を受けていた。原文
米国側はこれを「他の委員を監視する公式探偵であらう」と見た。原文
六十近い痩せた老人で、酷く近眼らしく、物を見ようとすると顔が一層歪んだ、とまで記されている。原文原文
最後の松崎滿太郞なる男は、其の役目が判らない。四人の委員と申し通じたる後に一人增加し來つた。其の增加せられたのが彼だ。恐らくは他の委員を監視する公式探偵であらう。彼は末席に、彼の側には書記が坐して、一切會見の經過を書取つてゐた。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く主任の通訳は森山栄之助だった。原文
委員が着席すると、彼は林大学頭の足許に跪き、恭しく指図を待った。原文
最初の五、六分は挨拶だけ。原文
煙草と茶と菓子が配られたのち、藍色の絹幕で仕切られた小部屋へ移り、いよいよ談判となった。原文原文
五年の猶予、正月の長崎
「悉く容るゝは、我國祖宗以來嚴禁の廉もあれば、今其挨拶に及び難し」。原文
日本側の返書はこう切り出す。原文
すべてを受け入れることは祖宗以来の厳禁に触れる部分があるので、今は答えられない、という趣旨である。原文
理由として挙げられたのは、先君主の死であった。原文
去年の夏、将軍徳川家慶が病のうちに薨去し、新君主が即位したものの大礼はまだ整わない。原文
魯西亜の使節も長崎に来たが、同じ事情で帰帆した、とも述べている。原文原文
しかしそのあとで、返書は一歩を踏み出す。原文
石炭、薪水(たきぎと水)、食料、破船の難民の救助は「止を得ざるの事」であるから、貴国の望みのようにしよう、というのである。原文
どの港にするかは提督の答えを聞いて定めることなので、およそ五年の猶予がほしい。原文
ただし場所が決まるまでは、来春正月から長崎へ来ればよい。原文
食料は何品か、石炭は何程か、船の欠乏の品には日本の産物を渡す。原文
数量や代価は黒川嘉兵衛と森山栄之助を通じて談判する、と結ばれている。原文
米国側の記事では、石炭は長崎で一八五五年一月十六日から渡すこととなっている。原文原文
この書付(文書)には森山栄之助の署名しかなかったため、提督は委員の調印を求めて一旦返し、翌日改めて受け取った。原文
この返書は米国側から見れば不充分だったに相違ないが、「其實は日本に於る一大讓歩であつた」。原文
船の需要に日本の物産を供給するとは、実は貿易を許したことにほかならず、ただ大びらで大仕掛けでないだけである。原文
「日本の鎖國制度は、此の返書其物のみにても、旣に破れたと認めねばならぬ」と蘇峰は記す。原文原文
死者の墓所と、盃
提督は返書を受け、あらためて条約の締結を求めた。原文
自分が成功しなければ合衆国政府はさらに多数の艦隊を派遣するだろう、と付け加えて。原文
そして英文・漢文・和蘭(オランダ)文の条約写しと、二通の書付、浦賀からの書への答えとを手渡した。原文原文
続いて埋葬の話が出た。原文
二日前、ミシシッピーの水兵が死んでいた。原文
提督は墓地を買収し、今後の用にも供したいと諮る。原文
委員は当惑し、別室に退いて相談した。原文原文
林大学頭からの返答は、外国人の墓所として長崎に別の寺院があるから、まず遺体を浦賀に送り、便宜の節に廻送する、というものだった。原文
提督は拒んだ。原文
「死人に墓所を與ふるは、萬國の通義である」。原文
拒むなら艦隊の碇泊地に近い小島に是非とも埋葬し、日本人に思い知らせる、と申し込んだ。原文
委員はこれに異を唱えたが、ついに横浜の一寺の付近、艦隊の見える場所へ葬ることを承知した。原文原文
その間に饗応が始まっていた。原文
提督は友誼の標として他日米艦で食事を共にしようと告げ、委員は外国の作法に慣れないながら喜んで承諾した。原文
第二、第三の委員も出て、酒杯を酌み交わした。原文原文
日本側の覚書はこう伝える。原文
上陸人数およそ六百人、うち大将分四十人が応接場に出た。原文
異人は箸の持ち方を知らず、懐中から匙を取り出して掬う者、小刀で刺して食う者。原文
味噌吸物は実だけ食い、蒲鉾は不思議そうにして手を付けず、カステラは旨いと言って食べた。原文
落雁を紙に包もうとするので美濃紙を渡すと、大変ありがたそうに紙ごと懐へ入れた。原文
給仕の者が半紙を四、五枚ずつ渡すと、三度も戴いて懐中した。原文
席には犬を二匹連れてきた。原文
「都て茶水乞候にも至てシトヤカにて少も殺伐の樣子なし」。原文
茶や水を求める様子まで至ってしとやかで、殺伐としたところは少しもなかった、という。原文原文
味噌吸物を吸樣を不知、中之實計給候樣子。口取、鳥芋抔給懸、小々宛給殘りは懷中致し、菓子アルヘイ、落雁、カステラ三品、
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く覚書は米国側の人物評も残している。原文
アダムスは「極六ケ敷相にて惡人物」と評され、鵜殿長鋭は日本なら大広間十八国主(その国を治める大名)とも言うべき人物だと語ったという。原文
談判中、隣の大広間では士官たちが馳走を受け、江戸から来た画工に無躾に肖像を描かれるのを面白がって見ていた。原文原文
幕の内側にあったもの
第三の書付は、蘇峰が三通のうち最も重要とするものだ。原文
支那との取極書草稿を添え、支那との茶の商法が年に三百六十万タイル、絹糸と絹布が三十万タイル、支那人およそ三万人が合衆国に来て自由に働き、三万から一万タイルの貯金を懐に帰る者もある、と数字を並べる。原文
鯨猟のためこの辺を通る船は五百艘を下らず、水と食料に欠けるとき港に入るのを許してくれれば「莫大之慈恩」だ、とも。原文
そして和親の取扱いがなければ「甚以奇怪之至」であり、かえって争端を招くと述べる。原文
はなはだ奇怪の至りで、争いの種を招くことになる、という意味であり、蘇峰はこれを「餘儀なく戰爭にも及ぶ可し」の含みと読む。原文原文
書面は一通り平穏だが、底にはこのままでは退却しない決心があり、幕府が注文に応じなければその後の責任は幕府が取らねばならぬという強意が含蓄されている、と蘇峰は言う。原文
併せて手交された条約草案は、米清条約をほとんどそのまま日米に置き換えたもので、運上、領事、荷揚の牌照、二重取立の禁止、両国人の処罰、十八ヶ月内の批准交換まで細かい。原文
ところが当時の日本当局は「只だ當面の延期一點張り」で、こうした条約の是非得失を考慮する余地はなかった、と蘇峰は結んでいる。原文原文
一通り平穩であるが、其の底には、此儘にては退却せざる決心あり、而して若し萬一幕府が此方の註文に應じなければ、其後の責任は幕府が取らねばならぬ强意を、十分に含蓄してゐる
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くここで思い返してみたい。
朝、提督は幕を取り去らせた。原文
見えないことを許さなかった。
五百人の兵と礼砲と三組の楽隊は、すべて「見せる」ための道具である。原文原文
一方で、その日いちばん大きな出来事は、誰の目にも派手には映らなかったのではないか。
巻いた一通の手紙。原文
五年の猶予と、来春正月の長崎と、船の欠乏品には日本の産物を渡すという数行。原文
蘇峰は、鎖国はこの返書一枚で「旣に破れた」と見る。原文
覚書を書いた日本人は、匙と小刀と半紙に目を奪われている。原文原文
蘇峰はこの章の途中に、昭和三年一月一日、大森の山王草堂で新年第一の史筆を始めた、と書き添えている。原文
七十余年を隔てて、幕の内側で何が渡されたかを見ようとした人がいたということだろう。原文
あの日の横浜で、幕を取り去られた広場に立っていた見物の群集は、矢来の外から、いったい何を見ていたのだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223901 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 5 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 6 名のうち 5 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
