琉球という痛手 ―― 島津齊彬はいかにして薩摩を継いだか

あらまし

江戸にいた島津斉彬のもとへ、薩摩から同じ日付の報せが2通届いた。一方は琉球は穏やかだと伝え、もう一方は不穏で容易ではないと伝えていた。中身は正反対だった。

高崎崩れ(薩摩藩で起きた家中の争い)という騒動が起き、近藤、高崎、山田らが命を落とした。斉彬に反対する側には好機だったが、手を出せなかった。蘇峰は4つの理由を挙げ、最も大きいのは島津斉興の琉球での扱いに弱みがあった点だとする。幕府が正面から調べれば、島津家の一大事になるからである。

斉興が幕府へ出した嘉永3年6月28日付の届けがある。そこにはフランス人は引き揚げ、人々の気分も落ち着いたと記していた。残るイギリス人も穏やかで、薬や菓子を与えていると書かれていた。しかし実際には、嘉永2年11月7日にイギリス船が来て、取引の開始を求めていた。薩摩の役人たちは、これを嘉永3年の夏まで隠していた。

斉彬は困った。事実をそのまま伝えれば父の届けとくい違い、黙れば偽ったことになると考えた。そこで嘉永3年8月23日、宇和島城主の伊達宗城に長い手紙で苦しい胸の内を伝えた。3件を届け出ずに隠しているのは済まされないと書き、琉球の状態を手遅れの病にたとえた。弘化元年に守衛の兵の人数を偽った件にもふれ、今度はそれより重いと記した。

伊達宗城は動き、幕府の中心にいる阿部正弘に事情が伝えられた。阿部正弘は表向きの処分はしないと述べたうえで、斉興はもう退くほかないと口にした。11月13日には西丸留守居上座(西丸留守居の筆頭)の筒井政憲が、島津将曹と吉利仲を呼び寄せた。筒井政憲は、退いてもらうほか手立てはないと告げた。表向きは斉興の名で隠した書類が、裏では斉彬の名で本当の書類が阿部正弘に届いた。

嘉永3年12月1日、斉興は年齢と持病を理由に、退きたいと願い出た。幕府は12月7日にこれを認め、残るイギリス人を早く退去させるよう命じた。嘉永4年2月2日、斉彬は42歳で家を継いだ。この記事からは、同じ日に届いた正反対の2通が、父を傷つけずに子が立つ流れにつながった経緯が分かる。

目次

薩摩からの正反対な報せ

江戸の島津齊彬しまづなりあきらの手もとに、薩摩から二通の報せが届いた。原文
一通は島津將曹から島津(米の収穫量で表す領地の大きさの単位)見に宛てたものである。原文
琉球は平穏、案じることはない、という趣旨であった。原文
もう一通は、島津豐後と末川近江から、同じ島津石見に宛てた内報である。原文
その中身はまるで逆であった。原文
琉球は不穏、事は容易でない、というのである。原文
同じ日付。原文
同じ宛先。原文
そして正反対の内容。原文
蘇峰は「されば齊彬は表面からは無事平穩、裏面からは多事不穩、全く同一の日時に、反對の報告を受取つた」と記す。原文
そして続けてこう問う。原文
齊彬はこれをどう処置しようとしたのか、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 251

右者伺越相成候而も、表立指圖は相成兼候事にて、兼而御委任も有之義、且此間御暇之節被相達候通り、何れ之道被遊御安心候樣取計方肝要にて候得者、唐國え爲懸合候得共、はかどり兼候はゞ、時宜次第內密薩摩守相談所存之通り、重々念入琉人を以、在留英人え爲懸合候而不苦。尤不伺越臨機之取計有之候とも、聊後日薩摩守不念には不相成事に而、萬端厚被致熟慮、後患無之樣精々念入被取計、取締等は彌嚴重に被相心得候樣、明年參府迄に落著候はゞ、別而手柄之義と存候

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高崎崩れの渦から外れた男

いわゆる高崎崩れである。原文
近藤、高崎、山田といった者たちが命を落とした。原文
その渦中から危うく脱し得たのは、単なる偶然の仕合わせとは言えまい。原文
騒動は齊彬の反対党にとって、まさに乗ずべき機会であった。原文
なぜ齊彬の反対党は、この絶好の機会を逃したのか。原文
蘇峰は四つの理由を挙げる。原文
第一に、齊彬その人が有力すぎて容易に手を下せなかったこと。原文
第二に、黒田、伊達、南部、奥平といった親戚や親友が救護に努めたこと。原文
第三に、幕閣(幕府の上層部)の中心人物である阿部正弘あべまさひろが齊彬の知己であり同情者であったこと。原文
そして第四が、蘇峰の言う「以上の有力なる理由」――島津齊興の琉球における措置に、非常な弱点があったこと。原文
もし幕府が正々堂々とこれを糺明すれば、島津家にとって容易ならぬ大事となる。原文
だから齊彬派の面々は「此の痛手を握られたれば」、高崎崩れの飛沫を齊彬の身に及ぼすことは到底できなかった、と蘇峰は見る。原文
痛手を握っていたのは、むしろ齊彬の側だった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 243

何れにしても嘉永二年十二月、嘉永三年三月の兩度に於ける高崎崩れ〔參照八一-八六)は殆んど彼を其の渦卷の中に捲き込み去らんとしたが、然も彼によりて窮すれば通ずるの眞理を、證據立られた

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「無異儀引拂」と書かれた届書

齊興が幕府に出した届書は、嘉永三年六月二十八日付である。原文原文

そこには「佛朗西人者無異儀引拂、英國人者未滯留いたし居候得共、國中一統人氣も平常に歸し、懸念之廉無之」とある。原文
フランス人は問題なく引き揚げ、イギリス人はまだ滞在しているが、国中の人心は平常に戻り、心配の筋はない、という意味である。原文原文

さらに、滞在中のイギリス人は「至極平和に罷在」、病人や盲目の者を見かければ治療してやろうと申し出て、膏薬や菓子を与えることもある、と。原文
医薬を学ぶよう勧めてくるが、中国の医術を昔から学んで用が足りているので、ほどよく応対している――そんな調子で続く。原文原文

ところが裏面はまるで違う。原文原文

嘉永二年十一月七日、イギリス船が琉球に来て、軍機大臣の書面を提出し、交易の開始を要求していた。原文
事態は「頗る容易ならざる情勢」であった、と蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 233

嘉永二年十一月七日、英國船琉球に來舶し、軍機大臣の書面を提出し、交易開始を要求し、事體頗る容易ならざる情勢であつた

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薩摩の当局者は嘉永三年の夏まで、この事実を隠して平穏無事の報道だけを続けていた。原文原文

忠ならんと欲すれば孝ならず

齊彬は当惑した。原文原文

事実をそのまま幕府に告げれば、父齊興の過ちを暴くことになる。原文
父の上申(上に申し出ること)を黙って見過ごせば、事実を偽ったことになる。原文原文

そこで彼は、親友の伊達宗城だてむねなりに苦衷を訴えた。原文
宇和島城主、幕府旗本(将軍直属の武士)山口直勝の子で伊達宗紀だてむねただの養子となり、当時「賢明なる大名の一人」として知られていた人物である。原文原文

嘉永三年八月二十三日付のその書翰(手紙)は長い。原文原文

齊彬はそのうち三条を挙げて言う。原文
イギリス船が来て商法を持ちかけた件、清国掛け合いの件、日本服従を言ってきた件――「右三條御屆不仕、秘密に仕候義、如何にも不相濟」。原文
この三つを届け出ず秘密にしているのは、どうにも済まされない、という意味だ。原文原文

琉球の現状を、彼は病に喩える。原文
「最早心肺之憂に相成姿故、十分之手後れに而、全治之處無覺束」。原文
すでに心肺を病んだような状態で、手遅れであり全快はおぼつかない。原文原文

そして父についてはこう書く。

弘化元年、フランス船が琉球に来航したとき、守衛兵を百五十人余り派遣しながら幕府へは七百人余と届け出た一件があった。原文
あれは調所笑左衛門の「惡智」から起きたことで、事柄も軽く、以後の改正のためにもなると考えて、黒田長溥らと内談のうえ事実を内奏した。原文
しかし今度はそれより重い上に、たびたび事実相違が重なっている――そう齊彬は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 236

先年人數相違之節者(弘化元年佛船琉球に來航の時、守衞兵百五十人餘を派遣し、幕府え七百餘人と屆出たる事實を斥す)笑左衞門(調所)惡智より事起り、其上事柄も從此節者輕く、又者以後改正之爲にも可相成哉と、美濃守(黑田長溥)等え及內談、事實及內奏候得共

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「御存知之通之都合ゆゑ、中々以難叶、甚だ當惑仕候事に御座候」。原文
ご承知のような事情なので、なかなか思うにまかせず、まことに当惑している、という意味である。原文原文

この一句に、齊興と齊彬という父子の間に蟠まっていた種々の事情が想像される、と蘇峰は言う。原文原文

「大隅も最早隱居せねば成らぬ」

書翰を受けた伊達宗城は動いた。原文
二十五日、留守居(江戸での藩の連絡役)が呼ばれる。原文
宗城の手記が残っている。原文
宗城は齊彬の心痛を伝え、内奏すべきか沈黙すべきかを問うた。原文
もし内奏の結果、何らかの沙汰(通知・命令)が下れば齊彬は不孝の名を負い、齊興の身にも障り、かえって内輪の混乱を引き起こして外患の手当てにも差し障る、と。原文
「扨々今にはじめぬ不埒之處置」――今に始まらぬ不埒な処置だ、と。原文
そして推測を加える。原文
齊興は委細を承知のうえで、自身の昇進の筋に響いては具合が悪いと考えて取り繕ったのではないか、と。原文
齊興は当時、正四位上宰相であり、琉球王子参府を機に従三位への昇進を望んでいた。原文
阿部の言う「其身昇進の筋」とは、おそらくこのことだろうと蘇峰は見る。原文
宗城は齊興を庇い、事情を知らぬのは齊興のほうで、家老(藩の重臣)の碇山將曹らが詳しく申し聞かせていないのだろう、「畢竟は將曹輩の不屆」だと述べた。原文
阿部は答える。原文
本来なら表向きの沙汰が当然だが、大家の不静謐は幕府の好むところではない、事実を承知しておくほうが考えの助けにもなる、沙汰筋は当面ないと心得て内奏するように――と。原文
宗城が礼を述べたあと、阿部の口から一句が出る。原文
「扨大隅も最早隱居せねば成らぬ事と存候」原文
齊興はもう隠居(家督を譲って退いた人)しなければならない、と。原文
「此が一大眼目だ、千壑萬流、悉く此の一歸結に會す」。原文
すべての流れがこの一点に集まる、というのである。原文
誰もが閣老の口からこの一句が出るのを待っていた、とも。原文
宗城はすぐに応じた。原文
齊興の隠居については先日も話が出ており、黒田長溥をはじめ近親のうちでも申し合わせている様子だ、と。原文
ただし「御沙汰筋無之樣」――処分は下さぬように、と念を押して。原文
表向きには齊興の名で隠蔽した書類を出し、裏面には齊彬の名で、宗城の手を経て、事実そのままの書類が阿部正弘の手もとまで届いた。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 240

及內內奏時に相成、修理如懸念、萬々一何等御沙汰筋御座候而は、不孝の名をおひ、又大隅身分にかゝり候のみならず、却而內輪混亂を引起し、中山(琉球)之處置も不行屆、內患彌增候計にて、外患の手當にも差障可申と相考候間

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落涙せぬばかりの家老

齊興は従三位への昇位を望んだが、先例なしとして容れられず、茶器拝領を内願していたのである。原文
その半月ほど前、十一月十三日の朝。原文
西丸留守居上座の筒井政憲つついまさのりが、薩摩藩家老の島津將曹と番頭(警備の隊の長)の吉利仲を呼び寄せた。原文
筒井政憲は齊彬の学問上の師であり、阿部正弘の信頼する幕府能吏の一人でもあった。原文
黒田長溥、南部信順、奥平昌高ら近親と伊達宗城が相談し、茶器下賜を機に齊興へ隠居を勧告しようとしていた。原文
この日の呼び出しは、その意を受けたものである。原文
筒井は言う。原文
内願の件を阿部正弘に願っておいたが、どうも挨拶ぶりが不審なので押し詰めて願ったところ、無理に賞品を取り計らって万一故障があっては齊興一代の勤功も無になる、と言われた。原文
昨日登城(江戸城に出仕すること)して伺ったところ、こういう次第である。原文
今となっては「最早別に致方も無之候間」――ほかに手立てもないので、よく申し上げて決心のうえ隠居なさるほかない、と。原文
二人はある程度予期していたのか、格別驚いた様子もなく、当惑の色を見せた。原文
筒井は自筆の口上控えを書いて渡した。原文
これを見せれば申し上げやすかろうし、齊興の疑念も出まいから、と。原文
二人は大いに喜んだ。原文
筒井は続けて念を押す。原文
南部信順と談じたうえ、一日も早く差し出すように。原文
そうしないと、万一近日中に何かの沙汰があっては「以ての外之事」だ、と。原文
このとき、二人は一言の申し訳もせず承知した。原文
齊興は「至而御正直にて、御小心なる御方」だから、さぞ驚かれるだろうと筒井が気の毒がると、將曹などは「落淚せぬ計之弱り之樣」に見えた――涙をこぼさんばかりに弱った様子だった、と手記にある。原文
蘇峰はこの一段をこう評する。原文
「如何に鐵拳に天鵞絨の手袋をはめて、筒井政憲が、阿部閣老の意を體し、諭旨隱居の沙汰を嚴命したかゞ判知る」。原文
やわらかい包みの中身は、鉄の拳だった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 246

尤是は段々申聞候內、大隅守樣(齊興)御性質は、至而御正直にて、御小心なる御方に候得ば、嘸々御驚も可被成と、氣之毒にも存上、又御案事も申候へ共。各方より不及是非所之譯柄能々御納得被成、御自身より御決心被成候趣、可被申上などゝ、段々主從之情合を察し候而、申聞候故にも可有之と存候へば實人心之誠難止所

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痔疾を理由に

嘉永三年十二月朔日、齊興は隠居の内願書を出した。原文
高崎崩れから約一年である。原文原文

願書には、琉球滞留の英人を戻す件について内命を受け、種々手を尽くしてきたが、「私事六十餘歲能成、其上持病之痔疾差起候節者、致難儀候間」――自分は六十余歳になり、持病の痔疾が起きると難儀するので、嫡子修理大夫が相応の年齢になったから家督(家の跡目)を譲って隠居したい、とある。原文原文

これは齊興が任意に出したものではない、まったく強制的に幕府当局者から、その当局者である阿部正弘から訓諭された結果だ、と蘇峰は断じる。原文原文

十二月七日、幕府は隠居願を苦しからずとし、同時に琉球について、残るイギリス人の退去を「一日も早く」取り計らうよう命じた。原文原文

ところが齊興の左右の者たちは、なお小細工をした。原文
琉球王への達書に、齊興が隠居しても「異國人一條之儀者、是迄之通被遊御指揮被下候樣奉願候處、其通之思召に候」と書き添えたのである。原文
異国人の件は今まで通り隠居後の齊興が指揮する、というのだ。原文原文

蘇峰はこれを「言語道斷の文句」と呼ぶ。原文
琉球問題があればこそ齊彬に襲封させる必要が加わっているのに、何たる非常識な仕打ちであろう、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 249

畢竟琉球問題があればこそ、齊彬をして襲封せしむる必要は、殊更ら加はりつゝあるに、異國人一條を是迄通り隱居となる齊興が指揮することは、何たる非常識なる仕打であらう

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それでも齊彬は隠忍した。原文原文

嘉永四年二月二日、齊彬は四十二歳で封を継いだ。原文
従四位上、左近衛中将、薩摩守。原文原文

攻める側に回った者

嘉永四年三月五日、齊彬はふたたび伊達宗城に託して、阿部正弘の意中を確かめさせた。原文原文

阿部は答えた。原文
明年の参府までに落着すれば「別而手柄之義」だ、と。原文原文

一八四五年九月に帆船で英国を発ち、翌年五月二日――弘化三年四月六日――琉球に上陸し、那覇の波の上護国寺に約九年滞在した。原文
滞在といっても禁錮同様で、あらゆる迫害を受けながら、施薬と診察と治療を一日も怠らず、種痘も行い、琉球語で聖書を訳した。原文原文

この程度の人間なら幕府や薩摩が懸念するほどではなかった、それより油断ならぬものが他にあった、と。原文原文

高崎崩れを梃子にして齊彬を不利の地に落とそうとした薩摩の執政(藩の政治を取り仕切る重臣)たちは、琉球事件によって齊彬に死命を制せられた。原文
攻める側と守る側が、入れ替わったのである。原文

それは齊彬が作意を凝らした結果なのか、自然の趨勢を導いた「水到渠成」――水が至れば溝はおのずと成る――のものだったのか。原文
蘇峰は「そは今爰に斷言の限りでない」と書いて、判断を留めている。原文原文

ただ一つ確かなのは、父を傷つけずに子が立ったということだろう。

同じ日付で届いた二通の、どちらも捨てずに使い切った男が。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』第15章 NDL コマ 245

是を以被仰上候得ば、少しは被仰上候にも被成宜、且大隅守樣御疑念も出申間敷と存候間、則是を進候と申、兼而之演舌案、相渡候所、大に悅び、兩人より段々御心入之御儀、難有と申書面を一覽致候

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431221
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 15・16・17・18・19・21・22・23・24・25・27・29・30・31・32・33・34・36・37・38・39・40・41・42・47・48・49・51・54・58・61・62・63・65・66・67・68・69・70・71
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本記事は『近世日本国民史 彼理来航以前の形勢』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物伊達宗城伊達宗紀島津斉彬島津斉興筒井政憲阿部正弘1851嘉永