大老(幕府の最高職)の井伊直弼は、将軍徳川家定の病が重くなるなか、城に長く詰めて動いた。そして7月5日、徳川慶恕には隠居(家督を譲って退いた人)と外山屋敷での謹慎(外出や交際を禁じる罰)が言い渡された。徳川斉昭には謹慎、松平慶永には隠居と謹慎という重い処分が下された。徳富蘇峰は、井伊の当面の課題が外国でも京都でもなく、反対する者を退けることにあったと読む。
前夜、大老と老中(幕府の重臣)は将軍の寝所に呼ばれ、翌日も同じ顔ぶれが呼ばれた。5日の明け方、井伊の公用人(主君の対外の用向きを担う役)である宇津木景福が呼び出され、老中の久世広周からの手紙を見せられる。中身は、今日のところは見合わせるべきだという延期の勧めであった。井伊は、このまま放っておけば大きな乱れのもとになると答え、「心得違と存候」と切り捨てた。つまり、思い違いだ、というのである。
井伊は素早く手を打った。宇津木に、間部詮勝、太田道醇、松平乗全の順で回るよう命じる。間部は人を遠ざけて会い、延ばして相手に漏れては大事だ、夜になっても今日中に取り計らうべきだと応じた。太田も同意し、すでに久世の欠席の断りに対して、押して登城(江戸城に出仕すること)せよと伝えていた。松平乗全のもとへは時刻が遅れて行けなかったと、宇津木は報告している。
水戸側では書き付けが回り、使者に大目付(上級監察役)が付き添うと聞いて、切腹を命じられるのかと案じた。だが駒込邸での謹慎と分かって落ち着いたのだろうと蘇峰は見る。翌6日、駒込邸のいたみがひどく引き移りの猶予を頼んだが、取り次ぎは難しいと言われた。同じ日、徳川慶篤も登城を止められ、隠居を願おうとして家臣に止められた。徳川慶喜にも、当分のあいだ登城を控えるよう命じられている。
6日はさらに人事が続き、若年寄(老中の補佐役)の本多泰固が役を解かれた。将軍のそばに仕える石河政平と、将軍を診ていた医師の岡も勤めを外され、隠居と謹慎になった。岡の処分は将軍の病の見立てによるといい、他の2人は井伊が嫌っていたと伝えられる。水戸側の記録は、病に苦しむ将軍がこれほどの処分を決められるはずはなく、責任は井伊にあると書く。蘇峰もこれに同意し、将軍の意向とされたものは井伊の意向だったとする。
この記事からは、7月5日の処分がどんな段取りで押し通されたかが分かる。また、責任は井伊にあるという点で、水戸側と井伊側の見方が図らずも重なっていたことも読み取れる。
七月三日、夜九半時の大奥
井伊直弼はいつもの刻限に登城し、この日の退出は夜九半時、午前一時に及んだ。原文
理由は、将軍徳川家定の脚気が悪化したことであった。原文
「公方(将軍の別称)樣御脚氣之御症にて、御勝不被遊」——将軍の脚気は重く、すぐれない、というのである。原文
その夜、大老と老中は大奥の寝所へ召された。原文
翌四日、同じ顔ぶれが再び大奥に召される。原文
そこで含められた用向きは、病気見舞いではなかった。原文
徳川慶恕の隠居と謹慎、徳川斉昭の謹慎、松平慶永の隠居と謹慎。原文
蘇峰はここに、井伊直弼の性格を読む。原文
彼の当面の問題は外国でも京都でもなく、「所謂る陰謀家の退治」であった、と。原文
挙国一致を旨とした阿部正弘の流儀ではなく、自分の流儀をあくまで押し通す一点に、その根本精神があったと蘇峰は記す。原文原文
七月三日例刻御附人にて御登城、御退出夜九半時(午前一時)一公方樣御脚氣之御症にて、御勝不被遊、殿樣(井伊直弼)御初御老中樣にも、大奥御寢所え被爲召候由。〔公用方秘錄〕
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く井伊側が徳川斉昭を元凶視
井伊の側に届いた一通は、六月二十四日の不時登城の内幕をこう伝える。原文
尾張家は登城を延ばそうとして少し気が進まない様子であったが、徳川斉昭は「今日は急度掃部頭に腹爲切可申」と言った、というのである。原文
今日こそ井伊直弼に腹を切らせる、というほどの意味になる。原文
その場で、田安慶頼はこう言い放ったという。原文
松平慶永は自分の弟だが、これまでこのような悪人とは思わなかった。原文
不忠であり、言語同断の振舞である。原文
厳しくお咎めを仰せ付けられたい、と。原文
この一通から、井伊の側が一切の元凶を徳川斉昭と見ていたことが判る、と蘇峰は述べている。原文原文
右延引爲致候手段にて、尾州家は少々不顧(マこ)由由もも候處老公被申候には、今日は急度掃部頭に腹爲切可申に付、一統揃不申ては不據惣御登城相成候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く久世広周、一夜眠れず
七月五日の暁。原文
公用人(藩の事務役)の宇津木景福が呼び出され、鎖口へ出た久世広周から手紙を拝見するよう命じられた。原文
その中身は、延期の勧告であった。原文
万々一のことがあれば徳川慶福は幼年ゆえ後見(幼い当主を補佐する役)も置かれることになろう、いずれにせよ今日のところは見合わせるべきだ、と久世は書いている。原文
そして末尾。原文
「昨日御請申上、今日彼是申上候段は、幾重にも恐入候得ども」——昨日は承知しておきながら今日になって異を唱えるのは恐縮の至りだ、というのである。原文
先方に同意しているわけでは決してない、とも念を押している。原文
一度は井伊に押されて賛成した久世が、再考して不穏当を悟り、一夜眠れずに書き送ったものであろう、と蘇峰は見る。原文
井伊の答えは短い。原文
将軍が大病であるから、万々一のことがあった時にこのまま捨て置いては「大亂之基」になる、大乱のもとになる、だからこそ仰せ出されたのだ——そう述べて、そのような申し越しは「心得違と存候」と切り捨てた。原文原文
右に付六之丞(宇津木景福)呼出し候やう被仰出候趣申來、早速罷出候處、御鎖口へ出御、大和守樣(久世広周)より之御手紙拜見被仰付、則拜見仕候處
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く宇津木景福、閣老を回る
井伊は動きが早い。原文
登城の上で評議になるが、久世に同調する者が出ては面倒である。原文原文
そこで宇津木景福に命じた。原文
第一に間部詮勝、第二に太田道醇、第三に松平乗全。原文
この順で回訪せよ、と。原文原文
間部詮勝はすぐに人払いをして会った。原文
書状を一覧し、このまま捨て置いては大乱のもとになる、それぞれの役方へ内意も達している、延引して先方へ漏れては一大事である、登城したら奉書を出し、たとえ夜に入っても今日の取計らいにしなければ一大事だ、と応じた。原文原文
太田も同意した。原文
しかも宇津木が着く前に、久世から病気欠席の断り状を受け取り、押して登城せよと申し送ったところであった。原文原文
而して宇津木が太田訪問以前、太田は久世より病氣缺席の理り狀を受取り、それを押して登城す可く申し送つたところであつた。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く時刻が遅れたので松平乗全のもとへは参上しなかった旨も、宇津木は報告している。原文原文
徳川慶恕の隠居処分
その日、井伊直弼は夜八つ時半、午前三時まで城にいた。原文
一日一夜を城中で過ごしたに等しい。原文
そうして徳川慶恕に申し渡された処分は、隠居のうえ外山屋敷へ居住、穏便に慎むこと、というものであった。原文
尾張家の相続は松平義比。原文
近親との面会も書通往復も一切禁じ、その旨を家老(藩の重臣)どもへ厳しく申し達せよ、と付された。原文
そもそも徳川慶恕は、徳川斉昭の党類と言えるほどではなかった。原文
松平慶永の一橋擁立の勧誘にも容易に応じなかった。原文
高須藩から入って尾張家を継いだ人で、「尾張殿の長所は、唯だ唐樣の書に巧みである」と言う者もあったという。原文
それでも尾張家としての矜持はあり、一個の了見もあり、対外意見では斉昭と揆を一にするところがあった。原文
尾張家は今後心を改めさえすれば別状はなさそうだ、という観測である。原文
それが七月五日にこの処分。原文
水戸の巻き添えになったのではないか、水戸だけを罰して尾張に及ばないのでは不公平だという意味合いからではないか、と蘇峰は問う。原文
いずれにせよ徳川慶恕の隠居は意外千万であった、と。原文原文
然るに七月五日に於て、此の如き處分に遭うたのは、或は水戶の爲めに捲き添へになつたのではあるまい乎。水戶のみを罰して、尾張に及ばずとすれば、不公平であるとの意味合からであるまい乎。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く上使入来と謹慎の報せ
水戸側の様子は、茅根泰の筆記が細かい。原文
城附の横山甚左衛門から書付(文書)が回ってきた。原文
尾張の家老が漏れているのを、徳川斉昭は不審に思った。原文
書付を見た斉昭と徳川慶篤は、三連枝(将軍家や大名家の分家)——松平頼胤、松平頼誠、松平頼縄——に加えて細川斉護、丹羽長国が出るからには、我らを打つに相違ない、と言った。原文
四更に武田修理が戻り、渡された書付を披露する。原文
尾張侯謹慎の幕命であった。原文
一同痛心しているところへ、また城附から報せが来る。原文
上使の連枝のほかに、大目付(監察役)池田播磨守が付き添って来る、というのである。原文
大監察が来るのは弘化元年五月の斉昭の幕譴の時にもなかったことで、検使(検分に立ち会う役人)のようにも聞こえる。原文
議論を尽くしても答えは出ない。原文
そこで松平頼誠に内々に会って探りを入れ、その上で上使を受けようという話になった。原文
斉昭は出会わず、慶篤が出る。原文
内容によっては受けられぬこともあり得る——そこまで話が進んだところへ、上使が入来した。原文
松平頼胤は途中から腹痛と称して自邸へ帰ったという。原文
書付は三通。原文
執政の岡田信濃守と武田修理が受け取り、両公へ申し上げ、請の口上を書き取って渡した。原文
「時既に五更に過たり」。原文
夜が明けようとしていた。原文
大目付が付き添うからには切腹でも命じられるのかと心配したが、駒込邸に謹慎と分かって安堵したのであろう、と蘇峰は見ている。原文
翌六日。原文
駒込邸は大破しており、引移の猶予を願い出たかったが、直には願い出にくい。原文
そこで松平頼誠の登城の途中に立ち寄ってもらい、頼んだ。原文
だが閣老へ申し立てるのは難しいという。原文
松御殿の中奥で見送った、と茅根泰は書き、「不堪感愴」と結んでいる。原文
感慨に堪えない、という言葉である。原文
同じ六日、徳川慶篤も登城を停められた。原文
慶篤は退隠を願おうとしたが、家臣に強く諫められて思い止まった。原文原文
「罪証なくして親藩を幽するは」
処分の責任は誰にあるか。原文
水戸側の記録はこう書く。原文
将軍の病は七月朔日に急に起こり、二日三日には既に危篤に瀕していた。原文
平生ですら虚弱沈黙な将軍が、生死の苦悶の中でこのような大処分の当否を裁決できるはずがない。原文
専決した責任は井伊直弼に帰さなければならない、と。原文原文
この論には何人も異議あるまい、と蘇峰は同意する。原文
将軍の思召なるものは、井伊の思召を将軍の名で発表したに過ぎない、と。原文原文
閣僚のうち、太田道醇も当初は異議者であったらしい。原文
「罪證なくして親藩を幽するは、後患をいかん」——証拠もなく親藩を閉じ込めれば後の禍いをどうするのか。原文
井伊はこう答えた。原文
京都を探索すれば必ず罪状はある、もし罪状がなければ自分がその責を負う、と。原文
太田は争えなかった。原文原文
蘇峰は、この老獪な太田が前日の御用部屋では故意に反対し、井伊に責任を負わせたのかもしれない、と疑いを差し挟む。原文
だが結論は動かない。原文
閣僚が挙げて賛成しようと反対しようと、責任者は井伊直弼その人である——この一点で、水戸側と井伊側の見方は期せずして一致していると蘇峰は記す。原文原文
七月五日の夜、井伊の側は六月二十四日の折にも増して警戒を固めていた。そこまで警戒したのは、深く自ら虞れるところがあったためであろう、と蘇峰は見る。原文原文
一橋慶喜には登城見合わせが命じられた。原文
六月二十四日の登城は不時登城ではなく、将軍が三卿に会う定日であった。それでも当分の間、登城は見合わせよ、と。原文原文
探偵に誤られた三人
七月六日は、前日に比べてまた多事の日であった。原文原文
若年寄本多泰固が役御免。原文
御側の石河政平が奉公召放、隠居謹慎。原文
奥医の岡櫟仙院も奉公召放、隠居謹慎。原文
その子岡良節には切米二百五十俵が下され、小普請入りとなった。原文原文
岡の罪は将軍の疾を診し誤ったことによるという。原文
本多は徳川家慶の寵任を得て数十年近侍し、堀田政権下で抜擢されて若年寄となった人物。原文
石河は諸官を歴任し才幹の称があり、松平忠固の薦めで一橋傅から側衆(将軍の側近)に入った。原文
いずれも井伊の忌むところであった、と伝えられる。原文原文
七月三日、家定の病に際して戸塚静海、伊東玄朴、遠田澄庵、青木春岱が召し出されて侍医を命じられ、各々二百俵三十口を賜った。原文
追って竹内玄同、伊東貫斎も召し出された。原文
岡櫟仙院は当初、御病を疝癪と診た。原文
六日の朝の拝候で、本日は外殿へ出ても差し支えないかと問われ、差し支えないと答えた。原文
その外殿で急に発動し、大漸に及んだという。原文原文
この三人の処分について、蘇峰は勝海舟の「牆の茨」を引く。原文
彦根の用人の草稿だという探偵書が、勝の手元に残っていた。原文原文
勝はこれに書き添えた。
二三人を讒する者があり、疑心暗鬼が生じ、ついに国家の紛擾を致す。原文
後々への戒めとしたいから、この一小醜記を捨てるに忍びない、と。原文原文
蘇峰は勝の位置を確かめる。原文
当時の勝は幕府創設の海軍に従事し、政争には全く無関係であった。原文
継嗣説でも一橋派ではなかった。原文
水戸派に好意を持ち過ぎる心配のない人物である。原文
その勝がこう言う。
だから、井伊がいかに探偵報告に誤られたかは局外者の等しく遺憾としたところであり、これはむしろ失策の手始めであろう、と蘇峰は見ている。原文原文
我彼を制せずんば
将軍家定の薨去が四日か六日か、京都からの勅書の到着が四日か六日か。原文
水戸側と井伊側で言い分が食い違う。原文
だが蘇峰は、そこは大問題ではないと退ける。原文原文
井伊が親類を処分した動機は、必ずしも勅書の内容のためではない。原文
少なくとも将軍薨去以前に、これだけの処分をなす必要を認めたに相違ない、と。原文原文
そしてこう言う。
井伊は、自分と水戸派とは到底両立しないと覚悟した。原文
我が彼を制しなければ、彼が必ず我を制する。
そう仮定して、自ら先んじて他を制した。原文原文
蓋し井伊に於ては、彼と水戶派とは到底兩立す可からざるものと覺悟し、我彼を制せずんば、彼必らず我を制す可きものと戯定し、乃ち自ら先んじて、他をかゝ制したるものであらう。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く夜八つ時半まで灯のともる城。原文
夕刻、上下を着けて駒込へ移っていく徳川斉昭。原文原文
制した側と制された側と、どちらがより多くの夜を眠らずに過ごしたのだろうか。
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 6・7・9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・19・20・21・22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33・34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・45・47・48 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件・人名 19 件を、『維新史料綱要』2,634 項目と突き合わせました。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
