裂けた袖根 ―― 井伊直弼の覚悟と、六十日秘された死

あらまし

安政7年(1860年)2月28日、上州矢田藩主の松平左兵衛督が、外桜田の井伊直弼の屋敷を訪ねました。のちの子爵吉井信発にあたる人物で、大老として幕府の政治を一人で動かしていた直弼とは親しい間柄でした。

左兵衛督が持ち込んだのは、長岡に集まった水戸の有志が藩を離れ、浪人になりつつあるという話でした。危険は直弼自身に向かうから早く身を引けという勧めを、直弼は礼を述べつつきっぱり退けます。供の者を増やす案も聞き入れません。登城の時刻を告げる声が届き、立とうとする直弼を左兵衛督は服の袖をつかんで止めました。払って奥へ入ったとき袖の根が裂けた、と蘇峰は伝えています。

残された左兵衛督は、公用人の富田権兵衛に言葉を残し、うなだれて去りました。直弼は誰にも押さえられず思うままに事を運んだのだから、責任を一身で負う覚悟はできていたはずだ、と蘇峰は見ます。かつての大老は床の間の飾りのような名誉職。ところが直弼は自ら老中たちの詰める部屋へ出て、その仕事まで手に収めました。幕府の目付の野々山鉦蔵や、侍臣の田中雄助、宇津木左近が退くよう勧めても応じませんでした。

安政4年の初めには、自分の法号(死後の名)を選んで位牌を作らせていたといいます。安政7年の年頭には、自分の肖像に歌を書き添えました。近江の海の波のように、幾度も世のために心を砕いてきたという内容。桜田事変の前日の3月2日には、頼まれて土屋総蔵の肖像に、咲きかけた花房は散ってこそ香ると詠んでいます。蘇峰はこれを自らの遭難を言い当てたようだとし、桜田での死も本望だったかもしれないと書きます。

事件そのもの以上に幕府の威信を落としたのは、幕府自身の扱いだったと蘇峰は記します。白昼に首を持ち去られた事実を誰もが知っていたのに、幕府は井伊家に手傷を負っただけと届け出させました。3月3日の届書は、乱暴者が鉄砲を撃ち20人余りが駕籠に切り込んだので1人を討ち取ったとし、直弼は怪我をして帰宅したとします。死人が届書まで書くのは言語道断だと蘇峰は憤ります。幕府は3月4日と7日に使者を送り、薬として朝鮮人参、見舞いとして氷砂糖と鮮魚を贈りました。

3月5日の達書は、家が揺らがぬよう公儀の処置に任せ、末々まで安心せよと井伊家に伝えています。実際に次子の愛麿が4月28日に家を継ぎ、8月26日には掃部頭と称しました。不覚による横死は家名断絶という決まりを、幕府自ら崩したことになる、と蘇峰は書きます。その直弼を、蘇峰は一徹で思い込みの強い人物と評します。外国を追い払う願文や、西洋式の訓練をやめた施策を挙げ、開国の恩人と呼ぶのは当人も認めまいとしています。

身を引く勧めを断ってから死を隠されるまでの経過が、井伊掃部頭の名で出された3月3日の届書と3月5日の達書、そして『開国起原』『幕末外交談』を引く蘇峰の筆からたどれます。

目次

安政七年(1860年)二月二十八日。原文
外桜田の井伊邸に、一人の大名が訪ねてきた。原文
上州矢田藩主の松平左兵衛督、のちの子爵吉井信発である。原文
直弼なおすけとは親しい間柄であった、と蘇峰は記す。原文原文

左兵衛督が持ってきたのは、長岡に屯集していた水戸の有志が、藩を脱して浪人になりつつあるという話だった。原文
危険は近く直弼その人の一身に向かう。原文
いまのうちに速やかに身を引け、と彼は勧めた。
直弼はその好意を謝しながらも、断々乎として容れなかった。原文原文

ならば従士を増やして万一に備えよ、と左兵衛督は重ねて言った。原文
これも聴かれなかった。
前年の安政六年には夜間の供を増やしていたが、翌年にはそれを廃していたのだという。原文
なお論じようとしたところへ、登城(江戸城に出仕すること)の刻を告げる声が届く。原文
直弼が急に立とうとするのを、左兵衛督は袂をつかんで強いて止めた。原文
直弼はそれを払って奥へ入った。原文
袖根が裂けた、と蘇峰は伝えている。原文原文

残された左兵衛督は、直弼の公用人(主君の対外の用向きを担う役)富田権兵衛を顧みて言葉を残した。原文
そして「悵然として」――うなだれて、悲しみながら――去ったという。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 256

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床の間の置物ではなく

蘇峰はこの章の冒頭で、直弼の政策については「天下自ら是非の論ある可し」としつつ、一つだけ疑いのないことを置く。原文
直弼は誰の牽制も受けず、在職中は思うままに事を実行した人物であり、その全責任を一身で引き受けるのは「固より覚悟の前であつたらう」と。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 254

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従来の幕府の大老(幕府の最高職)は、ほとんど一種の名誉職であった。原文
「床の間の置物同様」で、重大事件のときに諮問に与るだけ。原文
しかもそんな重大事件はめったになく、日常の政治は御用部屋で老中(幕府の重臣)たちが扱っていた。原文
ところが直弼は自ら御用部屋に出張し、老中の仕事までも自分の手に収めた。原文
だから善も悪も彼一人の責任というほかはない、と蘇峰は書く。原文原文

政府の内外で、ほとんど誰一人として彼の「頤使に趨走せざるものは無かつた」。原文
顎で使われて走り回らぬ者はいなかった、という意味である。原文原文

身辺には長野主膳、宇津木六之丞のように、左右の手となって政策の実行を手伝い、さらに彼を刺激してますます極端に走らせた徒輩もいた。原文
その一方で、彼のために憂え、明哲保身の道を勧めた者もいた。原文
幕府の目付(監察役)野々山鉦蔵(のちに丹後守)は直弼に向かってそう忠告したが、聴かれなかった。原文
直弼の侍臣田中雄助、宇津木左近もしきりに勇退を勧めた。原文
安政五年十二月に鎖港延期の勅允が下り、政情が一段落を告げると、二人はふたたび辞職を勧告したが、直弼は所信一貫を語って肯わず、一首の和歌を書いて与えた。原文原文

位牌と三首の歌

直弼は安政四年の初めに「宗観院柳暁覚翁」という法号を自ら選び、位牌を作らせていたという。原文
これは大老就任の前年のことだから、これをもって決死の覚悟と断ずることはできない、と蘇峰は慎重に書く。原文
ただ、彼が若いころから禅学に志し、「生死大事の一件」には予て用意があった人物らしいとは見ている。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 255

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安政七年、すなわち万延元年の年頭には、自分の肖像に一首を題した。原文原文

近江の海の磯を打つ波のように、幾度も御世のために心を砕いてきたことよ、という歌である。原文原文

そして三月二日、桜田事変の前日。原文
人の依頼に応じて、土屋総蔵の肖像に和歌を賛した。原文原文

「咲かけし猛き心の花ふさは散りてぞいとゞ香に匂ひける」原文原文

咲きかけた猛き心の花房は、散ってこそいっそう香り立つ。原文
これはあたかも自らの遭難を予言したもののようだ、と蘇峰は記す。原文原文

袖根を裂いてまで登城した男、位牌を作り、散る花を歌った男。原文
これらを並べたうえで蘇峰は、井伊その人も当然一死を覚悟して事に当たったのであろうと認め、「或る意味から云へば、桜田の遭難も、或は本望であつたかも知れない」と書いている。原文原文

死人の届書

事変そのものが徳川幕府への一大打撃であったことは既に述べた通りだが、と蘇峰は続ける。原文
それ以上に幕府の威信を失墜させたのは、事件を扱った幕府自身の仕打ちだった。原文原文

白昼、井伊の首を携えて去るほどの出来事である。原文
誰一人この事実を知らぬ者はなかった。原文
ところが幕府は井伊家に命じて、この公然の事実を否定させ、単に手傷を負ったこととして報告させた。原文
三月三日付、井伊掃部頭の名で出された届書にはこうある。原文原文

「狼藉者鉄炮打掛け、凡弐拾人余り抜連、駕を目懸ケ切込候に付、供方之者共防戦致し、狼藉者壱人討留」原文原文

狼藉者が鉄砲を撃ちかけ、およそ二十人余りが抜刀して駕籠めがけて切り込んできたので、供の者が防戦し、一人を討ち取った、という意味である。原文
さらに「拙者儀捕押方指揮致候処、怪我致候に付、一と先帰宅致候」。原文
自分は捕り押さえの指揮をしたが、怪我をしたのでひとまず帰宅した、と。原文原文

これは幕府当局が井伊家公用人の宇津木六之丞と富田権兵衛を召して、書かせたものだという。原文
「死人に口無し」というが、死人が届書まで書くに至っては言語道断だ、と蘇峰は憤る。原文原文

別の文書でも、水戸殿家来およそ三十人ほどが短筒などを用いて乱妨に及び、「掃部頭にも怪我致し候」――掃部頭も怪我をした――と。原文
あくまで生存している体である。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 257

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三月四日には小納戸頭取の塩谷豊後守を上使として井伊邸に遣わし、薬用として朝鮮人参を下賜した。原文
七日にはふたたび若年寄(老中の補佐役)の酒井右京亮と御側御用取次の薬師寺筑前守を上使とし、病気見舞として氷砂糖と鮮魚を下賜した。原文
四月二十八日には次子の愛麿に家督(家の跡目)を相続させ、先例により御先手ならびに京都守護を命じ、八月二十六日には愛麿を左少将に任じて掃部頭と称させた。原文原文

幕府の制度では、大名であれ旗本(将軍直属の武士)であれ、自己の不覚から横死した者は家名断絶である。原文
それが直弼に限って横死を秘すること六十日に垂んとし、遺領を相違なく子に継がせた。原文
幕府自ら大法を乱すものだ、と蘇峰は書く。原文
しかしそれ以上に、死を秘したこと自体が世間を莫迦にした仕打ちで、「滑稽を通り過ぎて笑止千万」だと。原文原文

当時の川柳も引かれている。原文
そのひとつが「遺言は尻でなさるや御大病」である。原文
皮肉もここまで来るとかえって下品になる、と蘇峰は言いながら、それでもこれは秘死がいかに人心を刺激したかを知るに足るものだとする。原文原文

耳を掩うて鈴を盗む

井伊家の側にも憤懣の徒はいた。原文
家老(藩の重臣)の岡本半助などは上書を出した。原文
これは水戸側の記事に見える話だが、井伊家としても泣き寝入りするにはあまりに事件が大きすぎた、と蘇峰は見る。原文原文

幕府は百方これを慰撫した。原文
三月五日付の達書は、万一、一家が動揺するようなことがあっては以ての外であるから、すべて公儀の処置に任せ、そのようなことのないようにせよ、と言う。原文
跡々のことにも厚い思召があるから末々に至るまで安心していよ、とも。原文
この通りに実行したのが、前述の家督相続と昇進である。原文原文

蘇峰はここで『開国起原』の一節を引く。原文
直弼は責任を一人に帰し、「隻手狂瀾を挽回せんとす」――片腕で荒れ狂う波を押し戻そうとした――のであり、一身を犠牲に供して畏れ避ける念がなかったのは大丈夫と言うべきだ。原文
桜田の禍を機に過ちを改め、広く衆言を納れ、人材を抜擢していれば志士(国事に奔走した武士)の憤恨を慰める道もあったのに、依然旧轍を改めず、ついに幕威は地に墜ちた。原文
「惜哉」と。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 260

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伊勢外宮の願文

それでも執政(政務を執る役)として与えた影響は深甚多大であった、と蘇峰は書く。原文原文

その人物を、蘇峰はこう評する。原文
本来一徹の「剛愎漢」で、自ら信ずること甚だ篤く、大宰相の襟度も大経世家の遠識もなかった。原文
だが決して無為に地位にすわって禄を食む「瓦全漢」ではなかった。原文
功名心は水野忠邦に劣らぬほど多かったが、経綸の才では到底水野に肩を並べられなかった、と。原文原文

後世、直弼は日本開国の本尊として崇められている。原文
日本のみならず世界もそう認めている。原文
それは大老時代に日米条約が勅許を待たずに調印されたからであろう。原文
内閣首班として調印の責任者と言うのは当たっているが、開国の恩人とするのは当人も真面目に受け容れられまい、と蘇峰は言う。原文原文

政策上の開国家は阿部正弘あべまさひろ、見識上の開国家は堀田正睦。原文
日米条約の七、八分までは堀田の肝煎で出来上がった。原文
強いて一人を挙げるなら、ほとんど完全な意味で堀田を挙げねばなるまい、と。原文原文

直弼の開国調印は、当人としては不本意だった。原文
その不本意を余儀なくされ、責任を取らねばならぬ始末に立ち至った直弼の志を、蘇峰は悲しんでいる。原文
「若し井伊をして、水戸斉昭なりあきと、其地を換へしめたならば、彼は或は斉昭以上の攘夷(外国を追い払うこと)論を鼓吹したかも知れない」とまで書く。原文原文

その根拠として引かれるのが、嘉永七年、すなわち安政元年十一月、直弼が伊勢外宮に霊剣と幣帛を献げて上った攘夷の願文である。原文
鎌で草を切り払うように攘い排い給いて、国家は安穏、天下は泰平であれ、という祈りである。原文
これは紛れもない攘夷家の口吻だ、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 261

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安政元年のことで、安政五年の直弼はもう変わっていたという弁解もあろう。原文
それも一応もっともだが、直弼はそう容易に豹変する性格の持主ではなかった、と蘇峰は見る。原文
しかも執政以来、彼は着々と反動政治を断行した。原文原文

蘇峰は田辺太一の『幕末外交談』を引く。原文
安政六年二月、長崎で海軍伝習をオランダ人から受けることを停めた。原文
同じ月、講武所の銃隊調練に専ら西洋式を用いてはならぬと戒め、万延元年には全く停めた。原文
安政四年九月から郭門の守衛に西洋式銃を用いていたのを旧に復し、ふたたび弓を飾らせた。原文原文

反動政治家の真面目

これが「第三者の公平なる観察」であり、直弼がいかに反動政治家であったか、その真面目を看取すべきだと蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第19章 NDL コマ 262

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袖根を裂いて登城した男は、散る花を歌い、死後は六十日のあいだ生きていることにされた。原文
そして後世には、自分が最も忌んだはずのものの元祖として崇められることになった。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第43 櫻田事変』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228574
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文の日付 11 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 10 名のうち 6 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第43 櫻田事変』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼徳川斉昭阿部正弘年1860安政