悪謀の四天王 ―― 安政五年の京都、浪人儒者という力の導線

あらまし

安政5年(1858年)正月16日、浪人儒者の梅田雲浜が青蓮院宮の屋敷に参上し、扇子3本を献上して宮に目通りしました。蘇峰はこの小さな儀礼の向こうに、のちの安政の大獄の誘因と口実の芽を見ています。

当時の京都では、公家の台頭とともに朝廷の権威を取り戻そうという声が高まっていました。28歳の孝明天皇は開国を喜ばず、それでいて幕府と手を携える公武合体を望んでいました。京都を動かす力は多くの場合天皇自身から出ていた、と蘇峰は書きます。

天皇の側近でとりわけ重んじられたのが、青蓮院宮こと尊融親王。寺の小僧として豆腐を買いに走った少年時代を持ち、五斗俵を持ち上げるほどの力自慢でした。祈祷のための参内からいつしか天皇の最高の相談役となり、討幕論者ではないものの、朝廷の権威を守ることでは最も強硬だったといいます。

京都には昔から浪人や儒者が多く住み、技芸を売って暮らしながら公家にも大坂の富豪にも出入りしていました。彼ら自身に力はなくても、雲の上と地下を結ぶ力の導線にはなりうる。井伊派が恐れたのはそこだ、と蘇峰は見ます。

その代表が、70歳の詩人梁川星巌と、小浜藩を追われた梅田雲浜でした。星巌は表に立たずに雲の上まで手を伸ばし、雲浜は妻子の困窮をおして大坂湾のロシア艦を討とうとし、長州の勤王論にも火をつけています。

宮の問いに答えた雲浜の意見書は、条約を許さず、従わない大名があれば天皇自ら兵を率いよという、一本調子の攘夷必勝論。この生一本の議論が宮の考えを強め、宮の議論が天皇の思いと響き合いました。堀田正睦が使命を果たせなかった理由の一つはここにある、と蘇峰は見ています。

浪人儒者の言葉が宮を通して天皇の周りに届くまでの道筋を、雲浜の意見書と、横井小楠・吉田松陰の雲浜評、蘇峰が描く当時の京都からたどれます。

目次

安政五年(1858年)正月十六日。原文
青蓮院宮の屋敷に、ひとりの浪人儒者(儒学の学者)が参殿した。原文
梅田源二郎、号は雲浜。原文
扇子三本を箱に入れて献上し、黒書院で宮に目見えした。原文原文

記録には、このたび屋敷への出入りを許された礼を述べ、扇子三本入りの箱を献上し、黒書院で対面を許され、宮の手から昆布を頂いた、とある。原文
手引きしたのは、宮の家臣で雲浜の門人(弟子)筋にあたる伊丹蔵人重賢と山田勘解由時章であったろう、と蘇峰は推す。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 64

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昆布一つ。原文
扇子三本。原文
だがこの小さな儀礼の向こうに、蘇峰は安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件)の「誘因」と「口実」の芽を見ている。原文
その芽を語るには、まず京都の空気を語らねばならぬ、と蘇峰は筆を進める。原文原文

二十八歳の主上

公家の擡頭とともに、朝権回復の声が起こった。原文
安政五年ごろには、志士(国事に奔走した武士)のなかに、口に討幕と言わぬまでも、眼中にもう幕府も徳川氏もない者が少なくなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 52

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ただ、孝明天皇の立場は明白であった。原文
外交では開国を喜ばれず、内治ではあくまで公武合体を望まれた。原文
承久や元弘の事を繰り返すおつもりは、まったくなかった。原文
主上はこのとき二十八歳。原文
しかしその御思慮の老練さは「群臣の企て及ぶ所」ではなかった、と蘇峰は記す。原文
京都の原動力は多くの場合、主上御自身にあった、と蘇峰は特筆する。原文原文

主上の言葉として、蘇峰はこう引く。
「開關以來不受外夷之點汚、當朕之世諸夷如此、有何面目謁見皇祖之廟」。原文
国を開いて以来外夷の汚れを受けなかったのに、自分の代にこのようになっては、どんな顔をして皇祖の廟に参れようか、という意味である。原文原文

当時の御製を蘇峰は添える。原文
「澄ましえぬ水に我身は沈むとも、濁しはせじな萬國民」。原文原文

五斗俵を上げる宮

主上の側近で信任厚いのは近衛忠熈と三条実万さんじょうさねつむの二卿であった。原文
だが、それ以上と言うべきは青蓮院宮、天台座主の尊融親王(天皇の子や兄弟)であった、と蘇峰は書く。原文原文

宮の来歴は数奇である。原文
伏見宮貞敬親王の御子として生まれながら、諸大夫某の子として本能寺の小僧になり、十二、三歳まで味噌こしを提げて豆腐を買いに行き、僧の手紙を届けて走った。原文
南都一乗院に空きが出て、仁孝天皇の猶子として入室したのはその後のことである。原文
奈良で頭角をあらわしていた宮を、当時の奈良奉行(幕府が要地に置いた長官)川路聖謨かわじとしあきらが早くから見抜いていた、と蘇峰は付け加える。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 54

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衆徒に武芸を命じ、庭に大俵を置いて自分も持ち上げ、ついに五斗俵を上げるに至った。原文
安政元年四月七日の禁中炎上のときは、すぐに長服を着て野太刀を帯び、歩いて駆けつけた。原文
頭を剃るのを嫌い、たまに剃るときは剃刀を五、六挺用意して一気に済ませた。原文原文

はじめは国家鎮護の祈祷のための参内(御所へ参上すること)であった。原文
それがいつの間にか「至尊の至高顧問」になった。原文
これは自然の趨勢と言うべきだろう、と蘇峰は見る。原文
やがて、職にない者たちが密かに集まって事を企んでいる、という非難も宮に向けられた。原文
宮は必ずしも討幕論ではなかった。原文
だが朝権擁護においては「最硬派」であった。原文原文

力の導線

京都はもとから浪人や儒者の安全な隠れ家であった。原文
功名を求める者は江戸へ向かったが、京都や大坂に踏みとどまる者も少なくなかった。原文
宝暦の竹内式部の事件を頂点に、幕政が弛むにつれ彼らの自由は増し、天保八年には大坂で大塩の事件さえ起こった。原文
天明・寛政のころ高山正之が京都の貴紳に近づいたのを端緒に、公家と浪人・儒者の関係も生まれていった、と蘇峰は辿る。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 56

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彼らは士の常職がなく、「藝を沽つて自ら給する」者であった。原文
技芸を売って暮らしを立てる、という意味である。原文
門戸を開いて全国から門人を集め、親王家や公家に出入りし、大坂の富豪や城代(城主に代わって城を預かる役)、所司代(京都に置かれた幕府の代表)、町奉行(町の行政と裁判を担う役人)、出入りできる門があればどこへでも走った。原文
主張があるわけではなく、どうやって口を糊するかが第一の問題であった、と蘇峰は冷静に書く。原文原文

それでも、尊王論が濃くなり外圧が切迫するにつれ、彼らのなかから現状に満足しない者が出てくるのは必然であった。原文原文

井伊派が彼らを恐れたのは、彼らが有力者だったからではない、と蘇峰は言う。原文
一方の手は雲の上に届き、他方の手は地下に届く。原文
「彼等は力ではないかも知れぬが、力の經由線である。力の導線である」。原文
彼ら自身は何もできない。原文
大塩は天満与力(奉行の下で働く役人)の隠居(家督を譲って退くこと)だったからこそあれだけのことができた。原文
だが導線となって諸藩の力を集め、通じ、合わせるに至れば、どんな驚天動地の仕事もしかねない、と蘇峰は見る。原文
事実、安政五年の春には越前藩の橋本左内(綱紀)が桃井伊織と名を変え、仮装浪人として京都で動いていた。原文原文

白頭の学究、兵を談ず

その一人が、詩人の梁川星巌である。
当時七十歳。原文
安政の七十は昭和の七十と同じではなく、本来なら「世外の人」であるべき齢であった。原文原文

若いころ、十七歳の紅蘭女史を娶る。原文
文政九年には京都で山陽夫妻とともに嵐峡の花を見た。原文
天保三年九月、病床の山陽を訪ねて生別と死別を兼ねた永訣をし、十月江戸に着く。原文
以後、弘化二年六月まで十二年八か月、江戸で玉池吟社を開き、当代の詩人はほとんどその範疇を出ない、という地位を得た。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 59

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ところが弘化二年六月、五十七歳で、なぜか隆盛の玉池吟社を突然閉じて故郷に帰った。原文
のちに京都へ移った彼の「最後の且つ光輝ある活動」は、この在京の間の出来事であった、と蘇峰は書く。原文原文

彼は詩人から道学者となり、道学者から慷慨家となった。原文
彼の詩に、世の中には数えれば怪しいことが多い、白髪の学者が酔って兵を談じている、という意の句がある。原文
その白頭の学究は他人ではなく彼自身だった、と蘇峰は言う。原文原文

慷慨家の外套に策士の本体を包んでいた。原文
彼は表に立たず、だが「彼の手は能く雲の上まで達してゐた」。原文原文

妻は病床に、児は飢えに

もう一人が梅田雲浜である。
若狭小浜、酒井家の臣籍である。原文
十六歳で江戸に出て山口菅山に学び、二十六歳で小浜に帰る。原文
天保十二年、父に随って関西・九州を遊歴し、大津で崎門学者上原立斎に学んだ。原文
浅見絧斎の衣鉢を継ぎ、尊王攘夷(外国を追い払うこと)を鼓吹して京都に一つの勢力をなした、と蘇峰は書く。原文原文

小浜藩政について上書を重ね、嘉永五年、三十八歳で臣籍を削られた。原文
安政元年正月、米艦再来の報に江戸へ急行し、夏には水戸に赴き、六月に京都へ戻る。原文
十津川郷士に擁されて大坂湾の露艦を撃攘しようとし、「妻臥病床兒叫飢」の一詩を賦して身を挺した。原文
妻は病の床に伏し、子は飢えて泣いている、という句である。
露艦退去で事は果たされなかった。原文
安政三年十一月には萩へ下り、毛利家重臣坪井九右衛門と会って長州の勤王論に油を注ぎ、長州と上方の交易の道をも協議した。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 63

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一介の浪人儒者の舌が、長州の当局者を動かし交易の要務を託されるに至った。原文
その力は「昭著」であった、と蘇峰は見る。原文
横井小楠は雲浜を、相変わらず頑固で困った人物だ、まったく滑稽だ、と評した。原文
だが同じ小楠が「とても一種の人物」と許してもいる。原文
吉田松陰は「事務には甚練達、議論亦正」と言い、また「靖獻遺言にて固めたる男」「但酒徒也」と評した。原文
いずれも彼の一面を見た適評だろう、と蘇峰は言う。原文原文

一本調子の必勝説

宮に目見えしたのは、冒頭の安政五年正月十六日である。原文
上京してきた堀田正睦への対案として、宮の下問に雲浜が答えた意見書を、蘇峰は掲げる。原文
条約を許さなければ各国が戦争に及ぶであろう、そのときの防御はどうするか、と宮が問うた。原文
雲浜は答える。原文
「普天之下、率土之濱、皆是王臣に候得者、一應は諸侯(大名たち)え勅命を可被下候」。原文
天下の者はみな天子の臣であるから、まず諸侯に勅命を下されるべきだ、という意味である。原文
従わぬ諸侯があっても、三公・列卿・百官と天下の有志をもって親征されよ、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』第3章 NDL コマ 65

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彼は徹頭徹尾、条約不許可論であった。原文
しかも消極的な不許可ではない。原文
天下が一度ひっくり返っても少しも驚かれぬように、という献言である。原文
米使が広東から英国を促し浪華に乱入するという江戸の風説を引き、それでも草莽の豪傑が奮起して追い払い、皇国の威光を海外に輝かすことに疑いはない、と書く。原文原文

「如何にも一本調子だ」と蘇峰は評する。原文
心配もなく掛念もなく、攘夷必勝説である。原文
海外事情に迂遠だった結果か、別に信じるところがあったのか。原文
いずれにせよこの条件も制限もない生一本の尊攘論が、もとから尊攘論者であった宮の所信を強め、宮の議論が主上の宸慮と照応した。原文
堀田が使命の要領を得られなかった所以の一つは、ここにあるだろう、と蘇峰は見る。原文原文

扇子三本と昆布の儀礼のあと、一介の浪人儒者の言葉が宮を透して「奈邊に及ぶ可き乎」、どこまで届くのか。原文
導線はすでに雲の上に達していた。原文
やがて起こる「思ひ掛けなき事件」――水戸への勅書下降――の前夜の京都とは、こういう空気であったのではないだろうか。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223987
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669
日付・人名本文の日付 5 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 5 名のうち 5 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第40 安政大獄 前篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物三条実万川路聖謨年1858安政