史料
維新前後の政争と小栗上野 続
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明治
「多謝々々」とパークスは言った ―― 明治二年二月二十八日、三条畷の刺客と攘夷論者の豹変
明治二年(1869年)二月二十八日、京都。この日、英仏蘭三国の公使が天皇に拝謁することになっていた。 -
幕末・維新
引き込む、と小栗は書いた ―― 文久元年七月、対馬から帰った小栗忠順の五通の手紙
手紙の用件は一つ、「今日ふい引込の儀」であった。 -
幕末・維新
三百年の屋敷を一札で ―― 慶応四年七月十六日、旗本屋敷の没収と江戸人
慶応四年(1868年)七月十六日。江戸城が明け渡されて三か月あまり。新政庁は、江戸にある旧旗本以下の屋敷を没収するという命令を発した。蜷川新はその文面を、この章にそのまま掲げている。 -
幕末・維新
天地人三巻の一夜 ―― 万延元年、渡米前の小栗忠順が藤川整斎の皆伝を得た
万延元年(1860年)正月。江戸下谷、一軒の隠宅の門を、夜半に叩く者があった。客は馬を飛ばして来た目付の小栗豊後守忠順である。 -
幕末・維新
喉を貫いた一発 ―― 慶応四年三月十五日、川路聖謨の自害を蜷川新はどう記したか
慶応四年(1868年)三月十五日の夜。江戸番町の屋敷で、一人の老人が起き上がった。半身不随の身である。沐浴し、礼服を着け、家人を退けた。遺書を書き、左手に兼貞の刀を取る。 -
史料解説
墓の木は長じて ―― 昭和三年十二月、小栗上野介をめぐる六篇の反響
昭和三年(1928年)十二月十二日、大阪毎日新聞の紙上。史家の花見朔己が、一冊の新刊を論じている。書名は『維新前後の政争と小栗上野の死』。著者は法学博士の蜷川新。
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