喉を貫いた一発 ―― 慶応四年三月十五日、川路聖謨の自害を蜷川新はどう記したか

あらまし

外国奉行(外国との交渉にあたる幕府の役職)を務めた川路聖謨は、慶応4年(1868年)のころ、病を得て江戸番町の屋敷に退いていました。その3月15日の夜、半身の動かない体を自ら起こし、命を絶ちます。蜷川新は、塚本氏の『奉公』に載る川路の伝記によってこの場面を書いています。

数刻前、幕府の外交家水野筑後守が一つの知らせを屋敷へ運んでいました。屋敷の一室にこもって謹慎する、という内容。蜷川によれば、川路は深く沈み、歯を噛んで憤ったといいます。降参とは何事か、気骨のある旗本は一人もいないのか、と言って熱い涙を落としたと蜷川は記します。

川路は湯を浴び、礼服を着け、家人を下がらせ、遺書を書き、左手に兼貞の刀を取りました。腹を刺そうとしたそのとき、戸の隙間からのぞいていたのが夫人の大越氏です。驚いて部屋へ走り込もうとする夫人に、川路は目を閉じたまま大声を上げました。近寄るな、おまえを傷つけるのが怖い、と。そして傍らの銃を取り、一発で喉を貫いて亡くなりました。

蜷川は、銃を手にした素早さに迷いのなさが残るとも読んでいます。夫人は静かに部屋に入り、血を拭い、腹と喉を白い布で包み、遺体を床に安置しました。夜が明けると官軍の人々が家を取り囲み、外との行き来を断ちます。ここで蜷川は、官軍の冷たさを強い言葉で責めました。夫人は夜中の2時、町が寝静まるのを待ち、不忍池のほとりの大正寺に一人で夫を葬ります。

死の数日前、川路は詩を作っていました。床について4年、主君の恩に報いられないまま身を天へ返すばかり、という意味だと蜷川は解しています。この死を惜しんだ人として、蜷川は長州出身の乃木大将を挙げます。話すたびに感極まって涙したと蜷川は書きました。長州派の安広伴一郎も、山崎有信の『彰義隊戦史』の序文で、一死をもって主家に報いた人だと記しています。

蜷川はこれを受け、降参を説いた勝海舟一派は敵側からも見限られていたのではないかと見ます。武士が降参するのは道に背く行いであり、二度と繰り返させてはならない、というのが蜷川の結びです。石川諒一は昭和2年(1927年)の雑誌『国本』に載せた『外相川路聖謨伝』で、川路が自ら弾丸を呑んで倒れたと書き、当時の外交への批判を添えました。

番町の一夜から不忍池のほとりへの埋葬までを、塚本氏の『奉公』に載る川路の伝記と、石川諒一が『国本』に寄せた『外相川路聖謨伝』の文からたどれます。

目次

番町の夜

慶応四年(1868年)三月十五日の夜。原文
江戸番町の屋敷で、一人の老人が起き上がった。原文
半身不随の身である。原文
沐浴し、礼服を着け、家人を退けた。原文
遺書を書き、左手に兼貞の刀を取る。原文原文

かつて外国奉行(外交を扱う役)として国のために策を練り、力を尽くした人であった、と蜷川新は書く。原文
その人が、この夜、腹に刃を当てた。原文

蜷川はこの場面を、塚本氏の「奉公」に載った川路伝に依って記している。原文
最後の江戸城会議のあった頃、川路はすでに病を得て番町に隠退していた。原文
四年、床の上にあった老人が、なぜこの夜を選んだのか。原文
その答えは、数刻前に屋敷へ届いた一つの知らせにある。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第5章 NDL コマ 98

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川路の切腹未遂

知らせを運んだのは、幕府の外交家水野筑後守であった。原文
屏居、つまり屋敷の一室にこもって謹慎(外出や交際を禁じる罰)するということである。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第5章 NDL コマ 94

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これを聞いた川路は、老いの身で「悵然として痛恨し、切歯して慷慨し」たと蜷川は伝える。原文
悲しみに沈み、歯を噛んで憤った、ということだろう。
そして言った。原文

言葉はさらに続く。原文
降服とは何事か、八万騎の旗本(将軍直属の武士)のうちに気骨のある者は一人もいないのか、すべては終わった。原文
(当時のお金の単位)眼から熱い涙が落ちた、と蜷川は記す。原文原文

ここで川路は起きた。原文
沐浴、礼服、遺書、刀。原文
腹を刺して割腹しようとしたその時、戸の隙間から様子を窺っていた者がいた。原文原文

「近く勿れ、汝を傷けるのを恐れる」

川路の夫人大越氏である。原文
蜷川は「賢夫人」と呼ぶ。原文
夫人は大いに驚き、室に走り込もうとした。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第5章 NDL コマ 96

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川路は目を閉じたまま、大喝一声した。原文
「近く勿れ、汝を傷けるのを恐れる」。原文
近寄るな、おまえを傷つけてしまうのが怖い、と。原文
そして傍らの銃を急に手に取り、轟然と一発、喉を貫いて死んだ。原文原文

刀で腹を割き、銃で喉を撃つ。
半身の利かない老人にとって、刃だけでは果たせぬと見たのかもしれない。
蜷川はその理由を書かないが、銃を「急に」取ったという一語に、迷いのなさが残っているとも読める。原文原文

夫人は静かに室に入った。原文
血を拭い取り、白布で腹と喉を包み、遺骸を床の上に安置した。原文
ここまでが、一夜のうちの出来事である。原文原文

夜半二時、不忍池畔

夜が明けても、事は終わらなかった。
官軍(新政府側の軍)の人々がこれを聞き、川路の家を取り囲み、外部との往来を断ってしまった、と蜷川は書く。原文
夫人は葬式を営むことに困惑した。原文
「官軍なるものゝ冷酷を知るべし」と、蜷川はここで筆を強めている。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第5章 NDL コマ 97

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そして夜半二時。原文
市中の人が寝静まるのを待ち、夫人は一人で夫の遺骸を守りながら、不忍池のほとりの大正寺に埋葬した。原文
「悲痛なる事件である」と蜷川は結ぶ。原文原文

死に先立つ数日、川路は詩を賦していた。原文
病の床に横たわってもう四年、中風の衰えた老人は日ごと涙にくれる。原文
山のような主君の恩はわずかも報いがたく、ただこの身を天に帰すばかりだ、という意味であろう。原文
四年という数字は、江戸城会議の頃にはすでに隠退していたという記述と重なる。原文原文

この四年より前、川路は外国奉行(幕府の役人)として動いていた。原文
床に伏す直前まで、外交の現場にいた人であった。原文原文

乃木大将の涙、魚河岸の出刃

蜷川は、この死を悼んだ人々を並べる。
一人は長州出身の乃木大将である。原文
川路の自害を賞賛し、その有様を深く究め、この話を口にするたびに感極まって落涙するのが常だったと伝えられる、と蜷川は書く。原文
「忠誠の士好く忠誠の士を知る」と蜷川は言い添える。原文
忠義の人こそ忠義の人を理解する、ということである。原文原文

もう一人は、長州派の安広伴一郎である。原文
山崎有信の著「彰義隊(旧幕府側の武士がつくった部隊)戦史」の序文に、安広はこう記した。原文
「累世徳川氏の恩沢に沐浴し、主家の将に傾かんとするを見て、切歯憤慨、唯一死以て主家に酬ゆるの外他なしとした」。原文
代々徳川家の恩を受け、主家が傾こうとするのを見て憤り、ただ一死をもって報いるほかないとした、という趣旨である。原文
安広はこれを、義を見ながら行わない者たちと比べて「霄壊の差」、天と地ほどの違いだと書いた。原文原文

蜷川はこの言葉を受けて、降服は徳川方の武士がすべきことではなく、降服を主張した勝一派は敵からも実は見限られていたのではないか、と読み取っている。原文
敵側の長州の人の「正しき涙」と共に、われらもまた涙なしにはいられない、と蜷川は書く。原文原文

そしてもう一つ、小さな場面が添えられる。原文
当時、日本橋魚河岸の若衆が、外国奉行を勤めて名を知られた旗本朝比奈甲斐の許に総代を送った。原文
この魚河岸だけは自分たち若衆で守る、出刃包丁で勢揃いをする、長年の恩には身も心も捧げて報いる、と。原文
「此意気や愛すべきであつた」と蜷川は記し、今日の魚河岸の江戸っ子諸君はどう感じるか、と読者に問いかけている。原文原文

蜷川はさらに、昭和二年(1927年)一月一日号の『国本』に載った石川諒一の「外相川路聖謨かわじとしあきら伝」の末文を引く。原文原文

氷や雪よりも厳しい節操と気骨、という意味であろう。原文
石川の記述では、川路は江戸城を拝して血涙を流し、「君辱めらるれば臣死す」の時だと言って「自ら弾丸を呑んで斃れた」とある。原文原文

石川の文は大正十五年十二月七日朝の脱稿である。原文
末尾には、英米二国の鼻息を窺う当時の「追随外交」への批判が置かれ、幕末の外相の風を聞いて惰眠から醒めよ、と結ばれている。原文
蜷川がこの一文を長々と引いたのは、川路の死を過去の逸話にとどめず、昭和の外交への鏡にしたかったからではないだろうか。原文原文

一発の意味

蜷川はこの章の終わりで、自らの見方を明らかにする。
「降服するは武士としてあるまじき悖徳である」。原文
降服は武士として道に背く行いだ、という断言である。原文
日本の武士道は古来こう教えてきたのであり、降服を説いて実行し、それで名を上げた者は勝海舟かつかいしゅう一派のほかに例がなかろう、と蜷川は言う。原文
勝一派が反幕側に都合がよかったために、反幕側から称揚されたのだ、というのが蜷川の見立てである。原文
「日本人は斯る事の再びせらるゝを禁ぜざる可らず」、こうしたことが二度と繰り返されるのを許してはならない、と蜷川は書く。原文原文

この評価は、蜷川という一人の著者のものである。原文
勝の側に立てば、江戸を火の海から救った判断だという見方があり得るだろうし、蜷川自身も、乃木や安広という「敵側」の証言を集めることで、自分の主張の重みを増そうとしているとも読める。原文原文

ただ、番町の一夜の細部は、評価とは別のところに残る。原文
沐浴と礼服。原文
遺書と兼貞の刀。原文
「近く勿れ」の一声。原文
そして夜半二時、一人で池畔へ運ばれた遺骸。原文原文

四年間、床にあった老人が、自分の身体で最後に選んだのは、腹ではなく喉であった。原文
その一発は、降服した城へ向けた抗議だったのか、報いきれぬと詩に書いた君恩への返礼だったのか。原文
蜷川は前者として読み、石川は後者の色を濃くして読んだ。原文
どちらに読むにせよ、江戸城が開かれたその同じ夜に、一人の幕臣が己の喉を貫いたという事実だけは動かない。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005
日付・人名本文の日付 2 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 2 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻8』の項目には一致するものがありませんでした。

本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。

人物勝海舟川路聖謨1868慶応