あらまし
蜷川新が著書『維新前後の政争と小栗上野の死』で弁護したのが、上州烏川の河畔で斬られた小栗忠順です。大正4年(1915年)9月、横須賀海軍工廠長の黒井悌次郎が工廠の由来を書き留めました。創立50周年の祝典に際してのものです。蜷川はその一文を章の頭に置き、続けて栗本鋤雲の手記『横浜半年余』をそのまま抜き出しています。
話の起こりは、先年に佐賀から幕府へ納められた蒸気で動く船修理の器械一式。据え付けに金がかかり扱える人もいないための献上でした。器械の3分の2はすでに横浜の石炭庫に入り、残りは長崎港にありました。前年に相州の貉ケ谷湾でドックと製鉄所を建てる話は、慣れた者がおらず消えています。小栗はさびさせて閑叟の好意を無にできないとして、フランス人を率いて現地へ行くよう栗本に頼みました。
栗本はドックという名さえ初めて聞く立場で、即答を避けます。その日の夕方、2人はフランス公使館へ向かいました。公使ロセスも判断がつかず、水師提督ジョウライスが呼ばれます。提督の答えは慎重で、ドロートルは若く新しく造る仕事は心もとないというものでした。のちに上海から戻った一等蒸気士官ジンソライも器械を調べ、大仕事には耐えないと見立てます。
江戸で相談を受けた小栗は、修理の場がなければ軍艦は一度壊れただけで使えなくなると説きました。外国はみな師だが、他の国は日本の不慣れを欺いて利をむさぼるばかり。フランスの言い分はまだ信じるに足りる、というのが小栗の見方でした。費用を案じる栗本に、小栗は、できあがった後に人手へ渡っても土蔵付きの売家という名誉は残ると答えます。栗本はこれを冗談ではないと注を付け、幕府がもう長くないと見きわめて久しかったと書き添えました。
長崎に残っていた器械もすべて横浜に取り寄せました。手入れして組み立てを試し、太田川縁の沼地を埋め立てて据えることになります。係役には杉浦精介や通詞の北村元四郎らが当てられました。
やがて閣老の水野和泉守と参政の酒井飛彈守の命が下ります。フランスの蒸気学士ウエルニーが上海から招かれ、総裁となりました。場所は相州横須賀湾。ツーロン製鉄所の様式を3分の2に縮め、費用は1年およそ60万ドル、4年で240万ドル。蜷川は、反逆の事実もない小栗を私怨で殺し、その名を60年も埋もれさせたと断じています。
さびかけた器械が4年計画の大事業になるまでを、蜷川新が引いた『横浜半年余』がたどります。
先年、佐賀から幕府に納められた蒸汽修船器械が一式ある。原文
それを使って、ひと骨折ってくれないか、という話である。原文原文
蜷川新は『維新前後の政争と小栗上野の死』の中で、この場面を栗本鋤雲の手記「横浜半年余」からそのまま抜き出して載せている。原文
本稿はその抜粋を、蜷川の結論と合わせて読んでみたい。原文原文
横浜の石炭庫に眠る器械
小栗の話はこうだった、と栗本は記す。原文
ところが据付の費用がかさみ、扱える人もいない。原文
それで幕府に納めて役に立ててほしい、という申し出だった。原文原文
器械の三分の二はすでに横浜の石炭庫に運び込まれている。原文
残る一分はまだ長崎港にある。原文
前年には相州の貉ケ谷湾でドックと製鉄所を建てようとして、係の役人まで決め、測量までしたが、業に慣れた者がおらず立ち消えになった。原文
「許多の器械を錆腐に付して閑叟翁が芳志を空ふするに忍びず」。原文
多くの器械を錆びさせて閑叟の好意を無にするのは忍びない、というのが小栗の言い分である。原文原文
そこで小栗は、いま船の修理に使っているフランス人ドロートルらを率いて貉ケ谷へ行ってほしい、と栗本に頼んだ。原文
栗本の反応は正直だった。原文
「予『ドツク』の名さへ始て聞きたる程なれば」。原文
しかもフランス人を雇うには、本人が承知しても提督(艦隊司令官)や公使(外国政府の代表)の意向がわからない。原文
栗本は即答を避け、今夕フランス公使館で相談してから、と答えた。原文原文
公使館の夕、ジンソライを待つ
小栗は従者を金川駅に走らせて宿を取らせ、栗本と一緒に公使館へ向かった。原文
公使ロセスも造船の業には暗く、ドロートルが任に堪えるかどうか判断できない。原文
使いを飛ばして水師提督ジョウライスを呼ぶと、提督は小栗が来ていると知り、使いと共に公使館へ来た。原文原文
提督の答えは慎重なものだった、と栗本は伝える。原文
ドロートルはまだ若く学問も深くない。原文
できあがった物を守ることはできても、新しく造る仕事は心もとない。原文
軍艦「セミラミース」に一等蒸汽士官ジンソライという者がいる。原文
いま私用で上海に行っているが、帰り次第に器械を点検させ、それから確かな返事をする。原文
その日の談合はそこで終わった。原文原文
やがてジンソライが上海から戻り、佐賀献納の器械を丹念に見た。原文
提督が公使を通じて伝えてきた見立ては、小栗の当初の構想を否定するものだった。原文
器械は船体が小振りで馬力も強くない。原文
鉄具の小さな修理には足りるが、「迚も『ドツク』を造り大仕事を做し得べき物にあらず」。原文
とうていドックを造るような大仕事に耐える物ではない、というのである。原文
ドックや造船のような大事業は自分たちの学術では成就できないから、それにふさわしい人を別に雇うほかない。原文
この器械は横浜近傍に据えて小修復に備えるのが便利だろう、とも付け加えた。原文原文
「唯佛國は異順にして」
栗本は江戸に出て小栗に相談した。原文
このときの小栗の判断を、栗本は要点をたどる形で書き留めている。原文原文
軍艦を持つ以上、破損はつきものであり、修理する場所がなければならない。原文
これまでのように外国が使い古した船を買い、あるいは新造を頼んでも、修船場がなければ一度壊れればすぐ使えなくなる。原文
壊れるごとに外国へ運航すれば往復の費用だけでも桁外れである。原文原文
どの国に託すか。
小栗の見方はこうだった、と栗本は記す。原文
「海外各國皆我師なれど餘國は樂傲不遜にて我を恐嚇し、其不馴を欺き飽迄利を貪らんとするのみ」。原文
外国はみな師ではあるが、他の国は傲慢で日本を脅し、不慣れを欺いて利を貪ろうとするばかりだ、というのである。原文
「唯佛國は異順にして他に比すれば其說も稍信を取るに足る」。原文原文
栗本の記述だけでは判断の根拠は見えにくいが、小栗がすでに提督や公使との折衝を重ねていたことを思えば、これは経験から出た言葉だったのかもしれない。
遣り繰り身上と土蔵付き売家
栗本にはなお心配があった。原文
費用である。原文
栗本は小栗に念を押した。原文
「今に於ては爲すも爲さゞるも我に在り、旣に託せし後は復如何ともすべからず」。原文
いまなら、やるもやらぬも自分たちの手の中にあるが、いったん託した後ではもう取り返しがつかない、と。原文原文
「當時の經齊は眞に所謂遣り繰り身上」。原文
そして言葉を継いだ。原文
「愈々出來の上は旗號に熨斗を染出すも猶土藏附賣家の榮譽を殘すべし」。原文
できあがったうえは、旗印に熨斗を染め抜いて人手に渡したとしても、土蔵付きの売家という名誉は残るだろう、というのである。原文原文
栗本はここに括弧を入れて注を付けている。原文
この言葉は「一時の諧謔にあらず、實に無限の憐むべき者あり」。原文
その場の冗談ではなく、限りなく痛ましいものがある、と。原文
小栗は「政府の最早久存する能はざるを、十分に判する久しければ」、つまり幕府がもう長くは続かないことを胸の中で見きわめてから久しかった。原文
それでも「其存するの間は一日も政府の任を盡さゞる可からざる」、幕府がある間は一日でも政府の務めを尽くさねばならないと心に決めていた。原文
親しい友と語るときにも、小栗は常にこの口調を離れなかった、と栗本は書いている。原文原文
蜷川がこの箇所をそのまま引いたのは、ここに小栗の像の核があると見たからではないだろうか。原文
売家になると知りながら土蔵を建てる。原文
その土蔵が、後の横須賀である。原文原文
太田川縁の沼地からツーロンへ
決定のあとの経過も、栗本は具体的に残している。原文
長崎に残っていた佐賀献納の器械もすべて横浜に取り寄せた。原文
ジンソライの調べを経て、錆びた分を手入れし磨き立て、ひと通り組み立てを試した。原文
そのうえで横浜の太田川縁の沼地を埋め立て、そこに建てることになった。原文原文
係役には、栗本の部下の杉浦精介、軍艦方から一人、通詞(通訳)の北村元四郎らが当てられた。原文
軍艦方の者の名は記していない、と栗本自身が断っている。原文
フランス側はジンソライ、ドロートル、エーデらで、その他の者も加わって横浜小製鉄所の建築に従事した。原文原文
だが事は大きく育っていく。
もとより大事業なので、閣老の水野和泉守と参政(朝廷で政務にあたる役)の酒井飛彈守の命により、フランス公使と水師提督と協議し、その推薦でフランスの蒸汽学士ウエルニーを上海から呼び寄せた。原文
談判を重ねたのち、ウエルニーを雇って総裁とした。原文原文
場所は相州横須賀湾。原文
地中海にあるツーロン製鉄所の様式にならい、規模を三分の二に縮める。原文
製鉄所一か所、ドック大小二か所、造船場三か所、それに武庫廠廨。原文
費用はおよそ一年六十万ドル、四年で総計二百四十万ドルを用いることを約した、と栗本は記す。原文
そして「大日本帝國に於て、始て造船、製鐵、船渠の大事業を起したりし」。原文原文
こうして見ると、初めは倉庫で錆びかけていた器械が、公使館の夕方の相談を経て、フランスから総裁を迎える四年計画に化けたことになる。原文
一本の線でつながる話ではあるが、途中で企ての大きさが数段変わっているのがわかる。原文原文
六十年後の弁護、五十年目の祝典
蜷川はこの抜粋のあとに「結論」を置く。原文
旧来の陋習を打破して国家社会の改造をめざした人であり、「日本改造の先覚」と呼ぶのは誇張ではない、とも書く。原文
その小栗は、上州烏川の河畔で斬られた。原文
反対派は小栗に反逆の意思も事実もなかったにもかかわらず、反逆人だと世に宣布して斬首し、梟首した。原文
これは「天地の公道」を無視し、私怨のために能臣を殺したものだ、と蜷川は断じる。原文
そして明治以後、彼の不幸な横死とともに彼の名は埋没させられた、と続ける。原文
薩長本位に作られた歴史の中では、徳川方の顕彰されるべき事も総て埋められたまま六十年が経った、というのが蜷川の見立てである。原文
「余は此著を以て、不幸の死を遂げし偉人小栗上野介を辯護し」、自分はこの著作によって小栗を弁護する、と蜷川は宣言している。原文
その弁護の材料として、栗本の手記は選ばれたのだろう。原文
ここで冒頭に戻りたい。原文
蜷川はこの章の頭に、横須賀海軍工廠長の黒井悌次郎が大正四年(1915年)九月二十七日に記した一文を置いている。原文
創立五十周年の祝典に際して工廠の由来を略記し、永遠に伝える、というものである。原文
五十年を遡れば、起点は慶応元年(1865年)ごろに置かれていることになる。原文
一方、それを建てた者の名は、蜷川によれば六十年間埋もれていた。原文
栗本が「無限の憐むべき者あり」と注を付けた一言は、事業の行く先だけでなく、自分自身の行く先までも言い当てていたのではないだろうか。原文
横浜の官邸で、ドックの名さえ知らぬ友に向かって、それを無造作に語り出した男の姿を、蜷川はこの章で読者の前に置いたのである。原文原文
| 元本 | 蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野の死』日本書院、1928年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1876405 |
| 日付・人名 | 本文に日付が 1 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 3 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻6』は、まだ項目を作っていないため突き合わせていません。 |
本記事は『維新前後の政争と小栗上野の死』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。
