井伊の威嚇政策-安政大獄の責任者井伊の立場屏息し ―― 嘉永六年三月から明治二年三月まで

あらまし

嘉永6年(1853年)3月からの動きの中心にいたのが、徳川斉昭です。老中(幕府の政治を預かる役)の阿部正弘は、この年から翌年にかけての難問をともかく収めました。その阿部が扱えた斉昭を、井伊はまるで扱えなかった、と蘇峰は見ています。

阿部は初めから世の中全体のために動くつもりでした。井伊は斉昭を抑えこむ方針で出てきた、と蘇峰は記します。一橋慶喜、つまり徳川慶喜を将軍に立てようとする動きをつぶすこと。それが井伊の方針でした。争いを正面に掲げてきた宰相(政治の最高責任者)。政治を預かる側が最初から喧嘩腰なら、もつれは増すばかりだと蘇峰は論じます。

斉昭たちが決められた日以外に登城したことは、穏やかではありませんでした。井伊は波風を一から立てたのではなく、起こりかけた波風をあおって止まらなくした、と蘇峰は言います。条約も同じで、天皇の許しを待たずに日米の取り決めに署名したのは仕方なかったかもしれません。ただ朝廷に向き合う手は打たれませんでした。京都の催促を受けながら数か月も引き延ばしたのは得策ではありませんでした。鯖江藩主の間部詮勝が上京しないうちに、声で相手を脅す策を取ったことも同じだ、と蘇峰は見ます。

幕府側の力と、各藩の志のある人々との差は、狼と羊ほどだと蘇峰は書きます。頼みの朝廷には名目のほか実力がなく、幕府も孤立した朝廷を難物とは見ませんでした。志のある人々は願いと現実を取りちがえ、朝廷は売られた形になった、と蘇峰は厳しく記します。薩摩、水戸、尾州、越前、土州、長州。どの藩も瀬戸際では動かず、自藩の疑いをかけられた者さえ救えませんでした。

安政5年(1858年)7月5日、名古屋藩主の徳川慶恕と福井藩主の松平慶永に隠居と謹慎が命じられます。徳川斉昭には謹慎、水戸の徳川慶篤と徳川慶喜には登城の差し控え。逆らう者は一人もなく、皆が息をひそめました。ただ薩摩藩主で将軍徳川家定の舅である島津斉彬だけは、息をひそめなかった、と蘇峰は記します。朝廷も近衛家を通して彼を頼み、彼も応えようと決めましたが、動き出す直前に病で亡くなりました。

斉彬が去った後、自ら立って天皇の意向を奉じ、井伊と張り合う大名は一人もいませんでした。薩摩は西郷を島流しにし、長州は松陰を牢に入れて江戸へ送ります。越前は橋本左内を幕府の役人の手に渡し、指一本ふれられませんでした。京都で天皇の命令を得ようとした働きかけにも、応じる藩はありませんでした。蘇峰によれば、この取り締まりは命令のあるなしと関わりありません。井伊の側近の手で、早くから筋書きが用意されていました。

安政大獄の責めをどこに置くかという問いから島津斉彬の死後に諸藩が黙りこむまでの道筋が、昭和6年2月21日の大森山王草堂に記された蘇峰の修史の筆からたどれます。

目次

昭和六年(1931年)二月二十一日、大森山王草堂。原文
修史の行程は規則正しく進んでいる、とそこに記す。原文原文

その書き出しから、蘇峰はまず一つの問いを立てる。
安政大獄(井伊直弼が反対派を処罰した事件)の責任は、誰にあるのか。原文原文

阿部と井伊の政綱

蘇峰はこう論じる。原文
政治家の眼中に難事はない。原文
どんな面倒な問題でも、うまく処理するのが政治家の政治家たるゆえんだ。原文
老中(幕府の重臣)の阿部正弘あべまさひろは、嘉永六年(1853年)から翌年にかけての癸丑・甲寅の多事の絶頂に立ち、ともかくも局面を収拾した。原文
斉昭は依然として斉昭である。原文
嘉永六年から安政元年の彼と、安政五年から六年の彼とに、格段の違いはなかった。原文
阿部が操縦できた人物を、井伊が全く操縦できない道理はあるまい、というのが蘇峰の見立てである。原文
では、なぜ思うようにいかなかったのか。原文
阿部は始めから天下のために、天下の公をなすつもりだった。原文
井伊は始めから徳川斉昭とくがわなりあきを退治する方針で出てきた。原文
井伊に政綱というものがあったとすれば、それは一橋慶喜、すなわち徳川慶喜とくがわよしのぶの擁立運動を撃滅するためのものであった。原文
彼は平和をもたらす宰相ではなく、「戰鬪を眞甲から翳し來れるの宰相であつた」と蘇峰は記す。原文
戦いを真正面に掲げてきた宰相だった、ということである。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第1章 NDL コマ 19

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喧嘩腰の初一念

政見の異同は致し方がない。原文
だが理由は理由として、反対党に対抗するのに、当初から喧嘩腰である必要はない。原文
喧嘩両成敗と言ってもよいとしても、井伊は当局者である。原文
当局者が喧嘩腰で、親藩、御家門、外様、譜代、朝廷の諸大臣、民間の志士(国事に奔走した武士)を相手に押し出せば、時局収拾どころか、紛糾はかえって乱麻のようになる。原文
だから責任の過半は井伊の双肩に置くべきだ、と蘇峰は論じる。原文原文

ここで蘇峰は一つの比喩を持ち出す。原文
斉昭とその周辺の言動に欠けるところがなかったとは言わない。原文
井伊の干渉や圧迫を自ら招いた面もある。原文
だがもし彼らが蜂の巣であったとすれば、「それを衝き破りて、蜂を四方に散飛せしめたのは、實に井伊其人の仕業」だという。原文原文

斉昭らの不時登城(江戸城に出仕すること)は穏当ではなかった。原文
井伊は平地に波瀾を起こしたのではない。原文
起こりつつある波瀾を激揚して、とどまるところを知らないものにした。原文
その禍根は「井伊其人の喧嘩腰の初一念」にある、と蘇峰は言い切る。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第1章 NDL コマ 20

井伊は決して平地に波瀾を起したとは云はぬが、をば激揚して、洶涌、奔騰、底止する所を知らざらしむるに至つたのは、井伊其人の喧嘩腰の初一念が、その禍根であり、ふ可き餘地がない

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条約についても同じである。原文
勅許を待たずに日米条約に調印したのは、やむを得なかったかもしれない。
だが直ちに朝廷の意思に向き合う措置を取らず、京都の催促を受けながら数月の後まで遷延したのは、得策ではなかった。原文
鯖江藩主の間部詮勝まなべあきかつがまだ上京しないうちに、「先づ聲をもて他を威すの政策」を取ったのも、時局を平穏にする手段ではなかった、と蘇峰は見る。原文原文

この運動と事件とが安政大獄の「楔子」、すなわち発端であった。原文
水戸を首とする朝廷の重臣や志士の自業自得とも言えなくはない。原文
だがその勢いを激成したのは井伊の喧嘩腰だ、と蘇峰は繰り返す。原文
井伊派の行動が往々にして定規を外れたことを否定はしない。原文
「されど彼等をして此の如くならしめたる者は、何人である乎」。原文
さらに遡って責任者を糾明せねばならない、とその筆は向かう。原文原文

狼と羊

次に蘇峰は、井伊の立場を見る。原文
一方には井伊を主とする幕府の統制的勢力。原文
他方には各藩の有志、儒者(儒学の学者)、浮浪の人々。原文
その勢力の違いは「狼を以て羊に對すると一般であつた」。原文原文

有志者側が唯一頼みとしたのは朝廷である。原文
だが朝廷には名分以外に、何の実力もなかった。原文
実力ある者が朝廷を奉じて幕府に臨めば容易ではなかったが、孤立した朝廷に対して、幕府はそれほどの難題を認めなかった。原文原文

蘇峰の言葉は厳しい。
当時の朝廷は「有志者に賣られ玉うたる結果となつた」。原文
有志者に朝廷を売る了簡があったはずはない。原文
だが彼らは希望と現実とを混同した。原文
こうありたいという注文を、こうあるべきだという事実と一致させてしまった。原文
事情に接していない朝廷が、それを信頼し、いざという時にはその力を後援とすると思ったのは、むしろ当然であった。原文原文

薩摩、水戸、尾州、越前、土州、長州。原文
だがいよいよ瀬戸際に来れば、どの藩も、その力を挙げて朝廷のために尽くそうとはしなかった。原文
朝廷のためどころか、自藩の嫌疑者さえ救えず、幕吏の逮捕と裁判に一任するほかなかった。原文
西郷だけは幕吏の手にかかる前に、月照和尚とともに海に投じ、死して蘇生し、南島に流されて一命を保った。原文
もし京阪の間を彷徨していれば、井伊の手先の犠牲者となる資格は十分に具わっていた、とも記す。原文原文

朝廷が志士を救えなかったことを遺憾とする人がいる。原文
間部が京都に乗り込んで、どんな暴政をふるうか。原文
朝廷はそれを心配し、彼の行動は予期よりむしろ穏和だったと思われた次第であった、という。原文原文

安政六年(1859年)の初期、井伊の位置は「天下無敵であつた」。原文
刑罰を寛大にするも厳酷にするも、井伊一人の意見次第だった。原文
寛大にしても威信は損なわれず、厳酷にしても威信は増さない。原文
もし妥協政策を行うなら、この時期が最も有利であった。原文
双手でなくとも片手でも差し出せば、握手を拒む者はなかっただろう。原文
だが井伊は「騎虎の勢に乘じて」、非妥協政策を固執した、と蘇峰は惜しむ。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第1章 NDL コマ 22

されば安政六年の初期に於ては、井伊の位地は、天下無敵であつた

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西方に一人

安政五年(1858年)七月五日。原文
名古屋藩主の徳川慶恕とくがわよしくみと福井藩主の松平慶永まつだいらよしながに隠居(家督を譲って退いた人)慎、徳川斉昭に慎、水戸の徳川慶篤とくがわよしあつと徳川慶喜に登城差控が命じられた。原文
これが井伊側の威勢を天下に赫灼たらしめた、と蘇峰は書く。原文
犠牲者たちは不服であったにせよ、反抗を試みる者は一人もなかった。原文
彼らは皆「屏息した」。原文
息をひそめた、ということである。
天下はこれより「井伊萬歳」となった。原文原文

ただこの時、西方に一人の島津斉彬しまづなりあきらがいた。原文
薩摩藩主、将軍徳川家定とくがわいえさだの舅、二百幾十年来幕府から畏憚されてきた薩摩の大守。原文
彼は決して屏息しなかった。原文
その眼中には井伊掃部などの存すべきはずはなく、一方に斉昭なく、他方に井伊なく、ましてや松平慶永や徳川慶恕などを「兒曹視」した、つまり子供扱いしたのは当然だった、と蘇峰は記す。原文
朝廷は近衛家を通して彼を信頼し、彼も感激して応えようと決心した。原文
しかし、その足を挙げようとする刹那に、病に罹って逝いた。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第1章 NDL コマ 23

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もし彼が起てば、長州も刺戟されて何らかの作用に出たに相違あるまい。原文
だが斉彬一たび去って以来、自発的に起って朝旨を奉じ、井伊と抗衡しようとする大名は一人もなかった。原文
諸藩の有司の中にも、それほどの決心のある者はなかった。原文
むしろ彼らは藩士中の突飛者を取り押さえ、井伊から睨まれないように、「遑々として是れ日も足らなかつた」。原文原文

薩摩は西郷を遠島(島流しの罰)に処した。原文
長州は松陰を入獄させ、やがて江戸に護送した。原文
長州の当路者にそれを死地に置こうとする腹黒い策はなかったとしても、一藩の安全のためには彼を犠牲にするもやむなしと観念したに違いない、と蘇峰は推察する。原文
これは長州だけではない。原文
越前は「藩の長城たる橋本左内はしもとさない」を幕吏の犠牲に供して、一指も染めることができなかった。原文
水戸では安島、茅根らの当局者が、ひたすら金子、高橋らの軽挙妄動を制御するのに汲々としていた。原文
その安島、茅根もやがて井伊の犠牲者となった。原文原文

息を枯らして笛吹いた

井伊は、ほとんど完全に京都をも征伏した姿であった。原文
公家も武家も、誰も井伊に向かって手を挙げようとはしなかった。原文
京都における勅諚下賜の運動は、この中間に発生した一事件であった。原文
有志者は、ひとたび天詔が降下すれば、水戸はもちろん、有志の諸藩が皆「欣躍抃舞して」これに趨くと予想した。原文
喜び躍って駆けつける、と見込んだのである。原文
だがこれは「恃む可からざるを恃みたるもの」であった。原文
肝腎の水戸さえ応じなかった、というより応じることができなかった。原文
その他は推して知るべしである。原文
蘇峰はここで一つの問いを置く。原文
「此れは裏切られたる諸有志の罪乎、將た裏切つたる諸藩の責め乎」。原文
いずれにせよ、「諸有志は息を枯らして笛吹いたが、一個の藩も躍るものは無かつた」。原文
ただし、と蘇峰は付け加える。原文
安政大獄は勅諚の有無とは関係がなかった。原文
勅諚が降下しなくとも、この獄は出で来るべきであった。原文
民間の志士を捕縛することは、井伊の左右の手である長野主膳や宇津木六之丞の間で、早くから仕組まれた筋書であった。原文
勅諚一件に何の関係もない橋本左内や吉田寅次郎が死罪に処せられたことを見れば、勅諚一件が大獄の唯一の原因でなかったことは分明であろう、という。原文
狼の前に羊が並んだ。原文
羊を守るはずの牧人たちは、井伊に睨まれまいとして、自ら羊を差し出した。原文
蘇峰の筆は、禍根を井伊の喧嘩腰の初一念に置きながら、その喧嘩を成り立たせた諸藩の沈黙にも視線を向けているように読める。原文
息を枯らして笛を吹いた有志たちの耳に、踊る足音は一つも聞こえなかった。原文原文

原文『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』第1章 NDL コマ 24

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228565
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665
日付・人名本文の日付 1 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 14 名のうち 11 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第42 安政大獄 後篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物島津斉彬徳川家定徳川慶喜徳川慶恕徳川慶篤徳川斉昭松平慶永橋本左内間部詮勝阿部正弘年1853嘉永