あらまし
露国の使節プチャーチンが長崎へ来たときの話である。嘉永6年(1853年)7月17日、長崎の沖に白い帆が5隻見え、3か所の見張りがすぐに知らせた。
翌18日に近づいたのは大型船2隻と蒸気船2隻で、旗によって露国の船と分かった。船将は本国の摂政次席で軍船提督のプチャーチン、応接を通して担ったのは30歳の副将ポシエットで、北京で7年学び漢学に通じていた。佐賀、黒田、小笠原、松浦、島原、大村の各家が早馬で駆けつけたが、陸で荒れる気配はなく、守りの人数を残して帰った。奉行が食料やたきぎ、水の世話を申し出ても、不足はないと断られている。
21日から毎夜12時頃、見張り船の者が大声で叫ぶ騒ぎが続いた。妖術ではないかと疑う声が出て、江戸へ届けようという話にまで進む。奉行の下で応接を務めた馬場五郎左衛門は自ら船に泊まり、太鼓を打ち鳴らし、27日頃の大雨の後に騒ぎは収まった。
馬場は露国の船で300人の大がかりな訓練も見ている。別の日には船底の広い部屋に導かれ、うつし絵の仕掛けを見せられた。2間ほどの象、本国の女性の歌や踊り、都の様子、そして海岸の砲台。長崎14か所の大砲は合わせて124門で、相手の砲台1つ分にすぎないと馬場は深く恥じ入った。徳富蘇峰は、遊びに寄せて武力を示したやり方を油断できないとしつつ、態度は米国の使節よりずっと穏やかだったと記す。
野菜を贈ると、使節は理由なく助けは受けられないとして返礼を申し出た。日本側は交易に似るとして断り、奉行は和蘭の商館長からの贈り物という形にして届ける。使節は、米国や英国は些細なことを口実に戦争を始めるが自国は違うと語った。追い払うならその理由を聞こう、こちらから手は出さない、と。7月20日には蒸気船1隻を本国カムシャスカへ向けて出している。
上陸した使節は、部屋の中央に置いた高い机の上で国書を差し出した。宛先は幕府の老中で、第一は両国の境界をはっきり分けること、第二は港での商いと軍船への品の調達。幕府は書翰を受け取りつつ返事を延ばし、使節は42日以内の返答を求め、9月1日にも催促した。同じころ露国は樺太へ手を伸ばし、ネヴェルスコイがタマリ村を占領して国旗を立てている。蘇峰は、穏やかな応接とこの復命の記述を同じ章に並べて置いた。
この記事からは、長崎での応接の細部が馬場五郎左衛門の聞書、贈り物のやり取りが『嘉永明治年間録』、国書を渡した席の様子が『通航一覧続輯』からたどれる。
嘉永六年(1853年)七月十七日。原文
長崎の洋上、遥かに白帆五艘。原文
三ヶ所の番兵が早速に注進した。原文
奉行(幕府の役人)方の番兵はやや遅れ、佐賀方が少し早かったが、奉行役所の前で佐賀方がつまずいて倒れ、奉行方が先になった、と奉行手附応接掛の馬場五郎左衛門の聞書は記す。原文
慌ただしさの中の、小さな転倒。原文原文
翌十八日、船は高鉾沖に掛かった。原文
大船二艘、蒸気船二艘。原文
四艘とも前の帆に国号を記した小旗を下げている。原文
巾三尺、長さ九尺ほど。原文
「おろしや国の船」であった。原文
米国水師提督ペリーの第一回来航の翌月にあたる。原文原文
馬場が船に赴いて事情を糺すと、魯西亜国の使節船で、日本のためになることを申し上げるために、わざわざ渡来したという。原文
船将は本国摂政次席、軍船提督のプチャーチン、年頃五十歳位。原文
副将のポシエットは三十歳、北京に七年遊学して漢学に通じ、応接は始終この副将が務めた。原文原文
彼らは尋ねた。
長崎から江戸へ早飛脚で五日か七日と聞くが、十五日で往復できるか。原文
日本側は答えた。原文
それは平常のことで、大切な事には侍分が越すから三十日位でなければ往復はできぬ。原文
この問答が、その後の長い待ち時間の伏線だった、と読めるかもしれない。原文
番船の叫び声
佐賀、黒田、小笠原、松浦、島原、大村の諸家が早馬で馳せ来たが、露船に陸で暴れる気配もないので、固めの人数を残して各々帰国した。原文
奉行から食料や薪水(たきぎと水)に差支えがあれば手当てすると申し聞かせたが、「万端不足無之由相断」。原文
何一つ不足はないと断ってきた。原文
六月に入津した和蘭(オランダ)の甲比丹(オランダ商館長)を通じても申し入れたが、答えは同じ。原文
和蘭王の妻は魯西亜国王の女だという。原文
しかし甲比丹は身分が軽く、船将には会えなかった。原文原文
二十一日から、毎夜九つ時(十二時)頃になると、番船(見張りの船)の者たちが何やらうかされたように大声を発して叫んだ。原文
一同は怪しみ、彼の妖術ではないかと衆議紛々、江戸表へ届けようというところまで進んだ。原文
馬場は考えた。原文
諸人が恐怖を抱いているから気のためにすることで、大雨でも降れば自然に止むだろう。原文
試みに番船に一泊してみると、果たして物すごい騒ぎになったので、太鼓を打ち鳴らした。原文
他に怪異はない。原文
二十七日頃、大雨の後は一切止んだ。原文
江戸で伝えられた「長崎妖怪」の話は、これに枝葉がついたものらしい、と聞書は伝える。原文原文
ある日、馬場は露船で大調練を見た。原文
大調練三百人、小調練三十人。原文
大将が剣で指揮する。原文
鉄砲はトントル仕掛けで、紐を引けば三丸が一度に発する。原文
大砲は五人で運用する。原文原文
またある日、夕刻、数多の硝子の燈籠が点され、階を下りて船底の広い一室に導かれた。原文
うつし絵の仕掛けで、大きさ凡そ二間の象が現れ、手足を動かして生き物のようだった。原文
次に本国の婦人の歌舞、本国都府の形容、そして海岸砲台。原文
砲台は四方に設け、各々上中下三段、十字打ちになる。原文
石は用いず山砂と漆喰だけで築けば磐石のようになり、秦の始皇の万里の長城の遺法で、一里(距離の単位でおよそ4キロ)につき大砲百門を備えるという。原文原文
或日罷越候節、象の運動一見可被致とて、巳に夕刻に及候得ば、數多の硝子之燈籠を點し候。至て美麗にて、三面をすり有之、一面のみみがき相成候由夫より先導致、段々階を下り、船底に至候へば、廣き一室有之
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く馬場は暗に思った。原文
長崎は近来海防が厳密になり、防禦は整ったと思っていた。原文
だが長崎十四ヶ所の砲数は都て百二十四梃。原文
彼の一砲台にようやく当たる。原文
「心大に慚恥を生ず」。原文
大いに恥じ入った。
影絵のこの一段は、そのことを示すためだったのだろう、と馬場は見た。原文原文
蘇峰はここで、人心がいかに恟々としていたかは妖怪沙汰(通知・命令)で想像できるとし、露人が幻燈の遊興に事寄せて武威を示したのも「中々油断ならぬ仕打」だと書く。原文
ただし態度は米人に比べて頗る穏やかで、浦賀でのほどの心配は長崎にはなかった模様だ、とも蘇峰は記す。原文原文
野菜一籠と交易の疑い
野菜が不足していると言うので、奉行から野菜の類を少し贈った。原文
露人は、たちまち返礼をすると言う。原文
彼は言う。
漂流や猟船と違い使節船であるから、故なく助力を受ける訳はない。原文
日本側は、それでは交易に似寄るから受けまいと答えた。原文原文
そこで奉行は在留の甲比丹に申し含め、甲比丹から贈った体にして遣わした。原文
魯西亜国王の娘を紅毛国王の室とした親類の国であるからこう計らった、という。原文
甲比丹が船に赴いて贈ると、直ちに受納した。原文
差し添えた者が見たところ、甲比丹は使節には礼もできぬ様子で、使節から四五人目の官人の前に出て礼を述べて退いた。原文
使節は余程高官の者と見えた、と『嘉永明治年間録』は伝える。原文原文
在留の甲比丹使節布恬延へは禮もでき申さぬ樣子にて、使節より四五人めに居たる官人の前に出、慇意の禮節を述て引退しとなり
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くある時、使節は応接の者に語った。原文
亜墨利加、暎咭唎などは強暴の風儀で、些細なことを口実に戦争を開く。原文
我が国は然らず。
「御打払とあらば、其御打払の廉は一応承るべきなり」。原文
もし打ち払いというなら、その理由は一応承ろう、決してこちらから手出しはしない、と。原文原文
七月二十日、本国カムシャスカへ用があるとして蒸気船一艘を遣わしたいと申し出た。原文
日本の五時は彼の四時だという。原文
彼の蒸気船は両輪が底にある。原文
以前は両側にあったが洋中で物に障ったので、新発明だという。原文
出帆の時、少しずつ煙が増え、霹靂のような音を発し、将官の船の周りを凡そ二三十度も回った。原文
初めは静かに、次第に早く。原文
音楽を奏して別れる。原文
馬場が遠眼鏡で望んだが、早くも見えなくなっていた。原文原文
西御役所の高机
上陸のときの乗物について、船将は布衣の乗物を用いたいと願い出た。原文
奉行の乗物を貸したのでは他日差し支えもあろうとして、禅林寺の乗物を借りて遣わした。原文
白色で、棒は黒塗りである。原文
上岸のとき、船将はこれを大いに賞美したという。原文原文
先方はまた申し出た。原文
船将は本国の摂政官次席で身分が重いから、奉行の格式を承りたいという。原文
対面の席ではこちらは曲録を用い、そちらは座るようにしたい、とも言う。原文
こちらは承知しなかった。原文
すると座右の銅板を出し、先年蝦夷地で応接した旧例があると申し立てた。原文
その銅板には、応接した者の似顔まで刻んである。原文
数度の問答の末、席の中央に高い机を置き、双方対立で呈書を受け取り、済んだ後は各々安座して対話する、と決まった。原文
出迎えはない。原文
饗応もない。原文原文
当日は十二畳の書院に金屏風を立て廻し、中央に高机を据えた。原文
机は少し奉行の方へ寄せてある。原文
上陸はバッテーラ七艘。原文
将官の船は溜塗に金の小べり、副将は白塗り、その他は表黒裏青。原文
警固は奉行方二十人、前と左右に黒田家の物頭が騎馬でついた。原文
船将は黒羅紗の服に白い股引、金の房を掛ける。原文
帽子は地黒に鷲の模様である。原文
供は副将一人、随従三人、船頭一人、外に随従六人。原文原文
船将がまず一礼し、遅刻失敬の段を述べた。原文
副将が黒塗の箱を捧げ、机の中央に置く。原文
船将が箱を開き、呈書を出す。原文
紫色の天鵞絨で燕口のような袋、合わせ口に白蝋を流し、朱印を押してある。原文
奉行は「当国多事に付、早速返答にも及兼可申候」と述べ、当国は多事につき早速の返答には及びかねよう、それを承知なら受け取る、と言った。原文
船将は差し支えないと答え、支配勘定の杉本金六郎がこれを持って、双方退座した。原文原文
別席では船将は曲録に寄り、奉行は畳二枚を重ねて敷皮を敷き、その上に座した。原文
呈書は三通、本国書、漢文、蘭文(オランダ語の文)である。原文
『通航一覧続輯』によれば、本使は和語で、支度に暇どってさぞ御退屈でしょう、と言ったという。原文
以上を見れば露国(ロシア)使節の態度が米国使節に比していかに穏当であったかが判る、と蘇峰は記している。原文原文
數度及問答、其中を取て、席之中央に高き机を置、双方對立にて、呈書請取可申、兎角之儀相濟候後は、各安座にて對話可致旨申聞、承知仕候由
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く宰相の書翰と奉行手附の意見書
書翰(手紙)の宛先は本国御老中(幕府の重臣)である。原文
第一条は、両国の境界を分明にすることであった。原文
大皇帝は「新地を求むる存念は無之」、すなわち新しい土地を求める考えはないが、境界を定めることが和睦の本だという。原文
第二条は、露国の人民が日本の湊で交易すること、また露国の兵船が途中で入用の品を求めることであった。原文
露国政府が最も大切に考えているのは和平で、通商の利益を貪るだけではない、というのである。原文
奉行手附の意見書はこう推測する。原文
今夏、米国の軍艦が浦賀に来た趣意を露国が密かに知り、援兵艦を差し越したのではないか。原文
米国が攻め寄せた時に味方して先鋒を鎮め、その後に「億万歳之信義」、末永い信義を結びたいのではないか、という。原文原文
扨第二條の事、大皇帝眞實に願ひ候儀は、本國の人民、貴國の湊に至り、貨物を取換へ交易致候を、御許被下、且又臨時に本國の兵船海を渡り、かんさぬか、並北あめりかの地え參り候者、肝要の事ありて、貴國の湊へ到り、入用の品を相求め調候事あるべし
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く四十二日の期限
幕府側は例によって書翰を受け取りつつ、返事を引き延ばすことにした、と蘇峰は書く。原文
しかし使節は長崎に長くは留まれない。原文
江戸へ行かず長崎に来たのは「畢竟大日本国之御法相守如斯に御座候」。原文
要するに、日本の法を守ってのことだという。原文
使節は、長崎と江戸の往返は二十日以下と承知している。原文
書翰が届いてから凡そ四十二日の内には返答があるべきで、評議に二十一日を掛けても決談になろうという言い分である。原文
阿蘭陀船便で返事をとの話は、西海洋に露国の軍船が十分にいるから要らぬと退けた。原文
使節が求めたのは「唯直々に日本高貴之御輩と御談合仕度」。原文
ただ直接に日本の高官と談合したい、ということである。原文
さらに九月朔日付で、再度の催促があった。原文原文
凡四十二日許之內には、右御答可有之、右御答之爲之御評議も、右四十二日之内二十一日許も御掛被爲成候はゞ、究而御決談に相成可申事と奉存候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くタマリ村の露国旗
ここで蘇峰がこの章の冒頭に置いた事実に戻る。原文
日本の招かざる客の先口は米国でも英国でも仏国でもなく露西亜だった、と蘇峰は書き出す。原文
文化年間、使節レザノーフの長崎来航以来しばらく跡を潜めていたが、その間に米国が乗り込んで来た。原文
これを偵知した露国が「いかで手を啣へて傍観す可き」。原文
どうして手をこまねいて傍観していられようか。原文原文
露国の東方経営はニコラス一世に至って一大闊歩を加えた。原文
弘化四年、ムラヴィエフ将軍が東部西伯利亜総督に任じられた。原文
船長ネヴェルスコイは黒龍江口を探検し、樺太が半島ではなく島であることを発見した。原文
嘉永四年、黒龍江口にニコライヴスク府を建て、残るは樺太のみ。原文
嘉永六年七月から樺太を侵し、露暦九月二十一日、ネヴェルスコイはタマリ村を占領して露国旗を樹てた。原文原文
船長は一八四八年八月クロンスタド港を發し、翌年五月べトロバウロスクに到り、樺太の北端を通過し、六月の末、黑龍江口に碇泊し、その附近を探檢して、樺太が世人の想像したる如く、半島でなくして島であることを發見した
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くネヴェルスコイの復命書は語る。原文
晩秋に多くの陸戦隊を上陸させ得る地点はタマリ、アニワ湾のみ。原文
松前北部の人民は同湾の魚類で生活しているから、堅固な根拠地を構えれば日本人は余儀なく親交を結ぶだろう。原文
米人が樺太に着眼していないのは仕合せだ。原文
そして樺太は石炭に富む、と。原文原文
西御役所で高机を挟んで国書を渡した使節と、アニワ湾に旗を樹てた船長は、同じ政府の二つの手であった。原文
一方は新地を求める存念なしと書き、他方は漁場を押さえて親交を余儀なくさせようと書く。原文
長崎の応接は穏当であった。原文
だがその穏当を、蘇峰は同じ章の中で樺太の復命書と並べて置いた。原文
馬場五郎左衛門が幻燈の砲台を見て恥じ入った船底の暗がりは、その二つを一度に映していたのではないだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 0 名は、元本との逐語一致で確かめています。『維新史料綱要 巻1』の項目には一致するものがありませんでした。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
