私一本立 ―― 安政五年十一月、孝明天皇の宸翰と間部の年限案

あらまし

安政5年(1858年)11月9日、孝明天皇は九条関白に宸翰を下し、老中間部詮勝の申し出を退けました。そのころ江戸の井伊直弼は、京都の首尾を喜ぶ手紙を受け取り、九分どおり吉と聞いてますます感心していたといいます。ただ蘇峰は、井伊がなお前途に気がかりを抱えていたと読んでいます。

気がかりの中心は兵庫でした。九条関白が持ち出したのは、まず5年ほど交易を試し、相手に利益が出ないようにして自然に遠ざけるという案。保証は将軍徳川家茂が自ら判を据えるという話でした。間部が差し支えありと答えると、期限は7年に延び、保証人は将軍後見の田安慶頼や井伊大老らに替わります。年限を付けて兵庫を閉じるなど本当に実行できるのか、天皇を欺くものではないか、と蘇峰は驚いています。

宸翰は、間部の申し出にこだわっては大きな患いになると書きます。一日でも許せば承知した形になる、6月に伊勢へ使いを出して自筆で祈願した趣旨にも反する、人民が望みを失えば幕府の安否にも関わる、という理由でした。神奈川を下田に替える案も認めず、やむを得ず許すなら長崎と同じ厳しい取り締まりを、との考え。九条関白は同じ日、この内容をごく内密に所司代へ伝えています。

同じ日、天皇は左大臣近衛忠熈にも宸翰を書きました。捕らえられた小林良典らの供述書や鵜飼の書状を関白から見せられ、事が枝葉まで広がったことを大変だと述べています。いまは自分ひとりで立っていて相談相手もないと記し、薩摩などへ密かに手を回して姦賊を退治できないか、とまで書きました。13日の手紙でも、ひとりで立っていて心細いと重ねています。

江戸の喜びは糠喜びだった、と蘇峰は言います。井伊の公用人宇津木六之丞から長野主膳への11月19日付の返書は、18日に届いた書付で様子ががらりと変わり、下田条約のほかは許せないとされたことを意外だと伝えました。天皇は初めからそう考えていたのであり、彼らは天皇の人柄を見損じていた、というのが蘇峰の評です。

同じ手紙からは、二条斉敬が江戸へ下った場合の扱いを決め、力で朝廷を脅す腹を固めていく井伊側の様子が読み取れる、と蘇峰は書きます。御側衆の石河土佐守は身に覚えのない疑いのなかで切腹し、伊達宗城は隠居を願い出ました。

間部の年限案が退けられるまでを、孝明天皇が九条関白と近衛忠熈に与えた宸翰、九条から所司代への達、宇津木六之丞の返書からたどれます。

目次

安政五年(1858年)の冬、京都の首尾を喜び報せる手紙が、江戸の井伊直弼いいなおすけのもとに届いた。原文
井伊はその朝のうちに目を通した。原文
九分どおり吉と聞いて、ますます感心したという。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 118

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しかし蘇峰は、この手紙のすぐ前の文面にも目を向ける。原文
間部を、京都で事を済ませないうちは江戸へ帰らせない。原文
井伊は吉報に満足しながら、なお前途に少なからぬ「掛念」、気がかりを持っていた、と蘇峰は読む。原文原文

五年か、七年か

気がかりの中心は、兵庫であった。原文原文

九条関白(天皇を補佐する最高の官職)が持ち出した案を、蘇峰はこう整理する。原文
まず五か年ほど交易を試み、その間に相手に利益のないよう仕向けて自然に遠ざける。原文
その保証を将軍徳川家茂とくがわいえもちが「御直判」、自ら判を据えてするという案である。原文
老中(幕府の重臣)の間部詮勝まなべあきかつが差し支えありと答えると、関白は期限を五年から七年に延ばし、保証人を将軍後見(幼い当主を補佐する役)の田安慶頼、あるいは井伊大老(幕府の最高職)その他の閣老に替えた。原文原文

同じ手紙は、所司代(京都に置かれた幕府の代表)酒井忠義の動きも伝える。原文
酒井は九条関白から「御逢御止め」、面会を断られて驚き、公用人(主君の対外の用向きを担う役)の三浦吉信を通じて詫びを入れた。原文
九条家諸大夫の島田龍章が三浦を説いて、酒井も「御改心之御樣子」になったという。原文
九条、間部、酒井の一致は井伊派の政策に欠かせぬ要件だった、と蘇峰は記す。原文原文

だが蘇峰は、この年限案そのものに驚く。原文
五年なり七年なりの後に兵庫を閉じるという話が、果たして実行できるのか。原文
「餘りと云へば聖明を欺罔するものではない乎」。原文
あまりといえば、天皇を欺くものではないか、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 120

兵庫開港に年限を付け、五年乃至七年の後には、それを閉鎖するなどと云ふ事が、果して實行せらる可き乎。

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手紙には、京都の囚人を江戸へ送る話も出てくる。原文
そこには「惡謀方」、井伊側から見た反対派を恐怖させる下心が明らかだ、と蘇峰は書く。原文
追伸には、水戸は「此節音沙汰なく」とある。原文原文

一日、半日たりとも

十一月九日、孝明天皇は九条関白に宸翰(天皇自筆の手紙)を下した。原文原文

東使すなわち間部の申し出は色々あるが、それに「泥候ては大患」、こだわっては大きな患いになる。原文
年限を定めて引き戻すという説もあるが、一旦許せば国辱は取り返せない。原文
「假令一个日たり共、宥許候へば、承知之姿に相成候」。原文
たとえ一日でも許せば、承知した形になってしまう、と天皇は書いた。原文原文

五年、七年の問題ではなかった、と蘇峰は言う。原文
去る六月に伊勢へ奉幣使を遣わし、自筆の宣命で祈願した趣意にも反する。原文
天下の人民が望みを失えば「柳營之安否にも可相成」。原文
幕府の安危にも関わる、という一句である。原文
蘇峰はここを、この一件は朝廷だけでなく幕府にとっても死活問題だ、漫然と許せば天下を挙げて幕府の敵となるかも知れぬ、という意味だろうと解く。原文
「假令一日或半日たり共、承知難相成候」。原文
一日、半日たりとも承知できない。原文
当春申し出た通り、下田条約への引き戻しでなければ承知できない、と宸翰は結ぶ。原文原文

神奈川を下田に替える案にも、天皇は首を縦に振らなかった。原文
江戸近辺にだんだん入り込めばどうなるか。原文
将軍の居城にも遠くない、万一異変の節には危ういと書いている。原文
もしやむを得ず許すなら、唐や和蘭(オランダ)と同様に、長崎でしてきた通りの厳重な取り締まりをせよ、との思召であった。原文
そして「公武之間柄隔絕に不相成樣」、公武の仲が絶えないよう輔佐の職として賢慮せよ、と添える。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 121

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九条関白は同じ日、ただちに所司代へ達した。原文
間部の言上は奏達したが、叡慮は当春以来変わらない。原文
「譬五六年は扨置、一日にても夷人と國民馴合、貿易商館相極候時は」宸筆宣命の趣意に齟齬する。原文
五、六年はさておき、一日でも外国人と国民が馴れ合い、商館が決まるようでは、という意味である。原文
宸翰の写しを「極密拜見」、ごく内密に見せるから、よく汲み取って再度厚く考えよ、との内々の達であった。原文原文

この宸翰は、青天の霹靂とは言わぬまでも、それに近い衝動を関白と一味の面々に与えたに違いない、と蘇峰は記す。原文原文

私一本立

同じ十一月九日の申の刻、天皇はもう一通、親しく信頼する左大臣近衛忠熈にも宸翰を書いた。原文
蘇峰は、こちらの方が天皇の心事を一層明瞭にしていると見る。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 122

此れは前者に比すれば、寧ろ至尊の時局に對する御心事を、一層明瞭ならしむるものがある。

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事が「枝葉繁茂」、枝葉にまで広がったことが「大變」だと天皇は書く。原文
蘇峰はこの四字に最も注意を促す。原文原文

枝葉とは何か。原文
関白が持参した、召し捕られた小林良典こばやしよしすけらの「申口書」、供述書が数冊。原文
飛脚から奪い取ったという鵜飼の書状。原文
これらは関白が「極內々」に、天皇の目に入れたものだった。原文
ざっと見たところ間違いや虚実の分からぬこともあるが、余程あれこれ「爲方之害に成候」、あちら側の害になることが書いてある、と天皇は記す。原文
右大臣鷹司輔熈は「絕脈」、望みがないが、左大臣近衛だけは引き出したい。原文
けれども今出仕してはかえって本人のためにならぬと酒井も言う。原文原文

そして天皇は、いまは自分ひとりで立っている、相談相手もなく、心細く、目まいがするほどだ、と書いた。原文
蘇峰は「實に何とも申すべき言葉がない」とだけ書く。原文原文

宸翰はさらに続く。原文
間部の処置は「暴計」、乱暴なはかりごとだ。原文
「何卒薩州抔へ、密々仕損無樣被成候て、姦賊を退治は成間敷哉」。原文
どうか薩摩などへ、密かに、しくじりのないよう手を回して、姦賊を退治できないものか。原文
折よく近衛忠房が将軍宣下のため東行するので、親族の大名へごく内密に言伝てはできまいか。原文原文

蘇峰は注を付ける。
当時の薩摩は俗論が横行し、とても島津斉彬しまづなりあきら在世の頃の比ではなかった。原文
しかし天皇に「姦賊を退治」と漏らさせるに至ったのは誰の行為か。原文原文

十一月十三日の辰の半刻、天皇は再び近衛に書いた。原文
近衛、鷹司、三条の三公がともに引き籠もり、「若輩之人々に成候ては、誠に誠に心配」。原文
若い者ばかりになっては心配でならない。原文
「當時は私一本立、實々心細大困りに候」。原文原文

糠悦び

江戸の喜びは「糠悦び」だった、と蘇峰は言う。原文
十一月十九日付、井伊の公用人(主君の対外の用向きを担う役)宇津木六之丞から、京都の長野主膳への返書が、その落差を伝える。原文原文

宇津木は先の吉報を「扨々難有奉存候」と喜んで読んだ。原文
ところが十二日付の書付(文書)が十八日に届くと、「又々からりと御模樣かはり」、またがらりと様子が変わり、下田条約の外は許容し難いという。原文
「扨々案外之次第」、何とも意外なことだ、と宇津木は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 125

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蘇峰は、これは決して模様変わりではない、と断る。原文
天皇は当初からそう思召していた。原文
間部参内(御所へ参上すること)の際に別段のことが無かったから、間部も他の面々も軽々に好結果を信じ、かえって自分で自分を裏切ったのではないか、と蘇峰は見る。原文原文

宇津木の手紙はさらに続く。原文
島田龍章は病中をいとわず日夜奔走しており、井伊もその忠勤を賞している。原文
酒井については、表向き堂上(朝廷の上級の貴族)に従って幕府の趣意を通す手段かと「半信半疑」。原文
間部は「御越年之御覺悟」、年を越しても京都に留まる決心と聞こえる。原文原文

蘇峰の評は厳しい。
「彼等は全く孝明天皇の御人格を見損じてゐた」。原文
京都の反対派さえ一掃すれば陛下はどうにでもなる、と誤解していた。原文
問題は、恐れながら天皇御自身がその本体だった。原文
「臣下は主上によりて動くも、主上は容易に臣下によりて動き玉はなかつた」と蘇峰は書く。原文原文

妙満寺の門前

同じ頃、二条斉敬が江戸へ下ろうとしていた。原文
手紙は、外様諸侯(大名たち)への廻状や、大坂の蔵屋敷へ非常の人数を頼む手配の話も伝える。原文
九日、内藤が間部の寓所である妙満寺へ赴いて申し入れると、間部は答えた。原文
役職にない方へは返答できない、関白か両伝奏(朝廷と幕府の連絡役)の広橋、万里小路を通して仰せ出されれば返答する、と。原文
内藤は「立腹」のまま持ち帰り、二条は参内し、十二日夕、俄に出発を差し止められた。原文
江戸へ下って大老、老中に直談すれば、全部は無理でも条約の中身を何とかできる、大老とはかねて互いに心が通じている、と二条は申し上げたという。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 128

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長野は、二条が東下した場合の扱いを進言した。原文
江戸に留め置いて京都へ掛け合う。原文
勅書を持って下るならなお手重に扱う。原文
二条には大坂蔵屋敷への人数催促など「不容易風聞」、容易ならぬ噂もあり、そのような方に大事の勅諚が下るのは不審だ、と京都へ言ってやるのがよかろう。原文
井伊はこの意見を「御尤に御承知」、もっともだと受け入れた、と宇津木は書く。原文
閣老とも厚く談じ、二条の申し立て方次第で「臨機之御取計」、臨機に取り計らう、と。原文原文

蘇峰はここに、言外のものを読む。原文
一波収まらんとしてまた一波。原文
井伊側はいよいよ最後の腹を固め、「威力もて朝廷を恐嚇するの手段」、力で朝廷を脅す方略を定めたのだ、と蘇峰は言う。原文原文

切込の風説と、ひとつの辞世

同じ頃の手紙には、江戸の噂も混じる。原文
「何者歟切込、例之御家來怪我人有之」との風説。原文
何者かが切り込み、彦根の家来に怪我人が出たという話である。原文
宇津木は、反対派の作り話で跡形もない、と打ち消した。原文
蘇峰は、この風説がやがて「嘘から出でたる眞實」となったことを、桜田の一件で思い知らされるだろう、と記す。原文原文

水戸は「音沙汰なし」、折々内々の贈り物がある。原文
井伊側はそれを、水戸が気味悪がっていると読んだ。原文
蘇峰は、井伊の顔色を伺う者もいた反面、井伊の首を取らずにはおかぬ仲間も皆無ではなかった、井伊側は一方だけを見て他面を見なかった、「笑止至極」と書く。原文原文

御側衆(将軍の側近)の石河土佐守が切腹した。原文
確かな証拠が手に入らず、自害させる場に至ったのは「殘念」だと宇津木は書く。原文
蘇峰は、証拠があれば石河をも逮捕して大獄の一頁を飾るつもりだった、と読む。原文
「安政紀事」によれば、石河は五十九歳。原文
その辞世は、君のために捨てる命は惜しくないが、身に覚えのない汚名をどうすればよいのか、と詠む。原文原文

伊達宗城だてむねなりは隠居(家督を譲って退くこと)を願い出、山内豊信やまうちとよしげも隠居させるという。原文
反対派に加担する諸侯はもうあるまい、と宇津木は書いた。原文原文

囚人は江戸へ向かい、諸侯は退き、江戸の足場は磐石と手紙は言う。原文
その同じ月に、御所では一人の天皇が「私一本立」と書いていた。原文
二度、同じ言葉を。原文
磐石と一本立と、どちらが本当に動かなかったのか。原文原文

原文『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』第9章 NDL コマ 124

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669
日付・人名本文に日付が 5 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 9 名のうち 6 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼伊達宗城小林良典山内豊信徳川家茂間部詮勝年1858安政