大雨の西御役所 ―― 嘉永六年十二月、川路聖謨とロシア使節の初談判

あらまし

嘉永6年(1853年)12月、川路聖謨は長崎の西御役所でロシアの使節と向き合いました。最初の話し合いは午前9時に始まり、終日の大雨のなかで午後4時まで続きました。席に出たのは6人。

入口となったのは、老中が出した返事の手紙をどう読むかでした。使節は、15日に差し出した2カ条、つまり国境の確定と通商の開始を議題にすべきだと切り出します。川路は、国境については一通りの議論までならできると留保をつけました。通商は、武士の気風が強く先祖の定めを変えるのが難しいという説明です。使節は3年5年など待てないと迫り、自分は全てを任されていると押しました。

争点になったのは、古い慣例で今を裁くことはできないという手紙の一句。使節はこれを通商の禁を改めた表明と読み、川路は後段まで読めば今すぐ決めがたい趣旨になると説きました。蘇峰は、手紙の文意がひどく曖昧で、使節が読み違えたのもむしろ当然のように思われると述べています。午後は北方の島の話に移り、択捉はどこの領地かと問われます。川路は、蝦夷の千島はすべて日本の属島で疑う余地はないと答え、政府の手紙にないことを並べるなら日本人の怒りを生むとも述べました。

12月22日、2回目の話し合い。川路は、樺太を北緯50度あたりで分ける考えかと確かめます。使節は、アニワ港には日本人が20人ほどしかおらず、外国が窺う様子もあるので兵を置いたと答えました。さらに、島の中央から日本側寄りに石炭を掘る山を新たに開き、過半はロシア領と心得ると述べます。筒井と川路が老中への報告に朱で添えた書き込みには、その山のことは聞いたこともなかったと記され、蘇峰は日本側がまったく受け身だったと見ています。

択捉はもとロシア人だけが住んだという主張には、川路が心得違いだと切り返しました。使節は港として大坂と、松前か箱館を挙げ、朱の書き込みは大坂の地形をよく知る様子に用心を促しています。この席で川路は、自分たちも急ぎたいが、京へ伝えその地の大名に調べさせれば3年5年はかかると率直に語りました。日本人の大半は西洋人を虎か熊のように思っており、2人の口では惑いは解けないとも述べています。前日には双方に贈り物が届き、将軍への品も差し出されました。

翌23日、川路は宿所でロシア側から4カ条の書面を受け取ります。手紙の一句を通商を許した表明として文書で確定すること、千島全体がロシアに属すること、まず江戸近方と松前島に2港を開くこと、などでした。川路は日記に、前日の話は破談と同じで訴訟の争いと変わらないと書きました。蘇峰は、事実と道理は使節の側に多かったとしながら、大きな破れ目を出さずに続けた点に川路たちの働きがあったと評しています。

長崎での2度のやりとりが何をめぐって動いたのかは、川路聖謨の手記と日記、老中への報告に朱で添えられた書き込み、大澤秉哲の長崎日記、そして蘇峰の評から追えます。

目次

川路の問いと使節の承服

嘉永六年(1853年)十二月、長崎は朝から終日の大雨だった。原文
午前九時、ロシアの使節が西御役所に姿を見せる。原文
使節との問答は、午後四時まで続いた。原文
川路はその夜の手記に、開口一番の問いを書き残している。原文
「魯西亞は、虎狼之國と世に申候。然るや、又は信義の國なりや、いかに」。原文
ロシアは世に狼や虎の国だと言われるが、そうなのか、それとも信義の国なのか、と正面から問い詰めたのである。原文
道理を守るなら我らの言い分に従え、と理を尽くして諭したところ、使節は大いに承服した。原文
択捉には立ち入らず、樺太にも手を出さず、派遣した兵は引き払う、と使節は言った。原文
このまま滑らかに運びそうだ、という感触である。原文
蘇峰はこの手記を「如何にも案外に好都合であるかの如く記してゐる」と評する。原文
だが問答の筆記を読み進めると、印象はかなり違ってくる、と蘇峰は続けるのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 268

右島之儀、追て境定之節に至、證據さへ有之候はゞ、夫丈けは、いくらも貴國え相返シ可申、且守兵差置候段も、右場所を取候譯には無之候間、呉々右之趣に可被存候

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返翰の解釈をめぐる対立

談判の入口は、老中(幕府の重臣)返翰(返事の手紙)の読み方だった。原文
使節は返翰を漢文と蘭語訳を合わせて読み、意味は分かったと言う。原文
そのうえで、十五日に差し出した二カ条、すなわち国境の確定と通商の開始が、話し合いの対象になるはずだと切り出した。原文原文

川路は、国境は「一と通論判迄之儀は可相成候」と答えた。原文
一通りの議論ならできる、という留保つきの返事である。原文
通商については、返翰にも書いた通りだと言う。原文
「我國之風習武士かた氣强く、祖宗之法令を改むる事抔は至て難致勢有之」。原文
日本は武士の気風が強く、先祖の法を改めるのは非常に難しい、という説明だった。原文原文

使節は引かない。原文
三年五年などという長期は承服できない。原文
アメリカだってそんな延期は認めないだろう、と言う。原文
自分は全権(交渉を任された代表)を委ねられている。原文
両使がいちいち政府に伺うのであれば、この談判は無益で、老中に直接談判するしかないではないか、とも迫った。原文
川路は、この返翰は自分たちの返翰ではなく老中の返翰だ、日本国内どこへ行っても答えは変わらない、と押し返す。原文原文

争点となったのが返翰中の一句である。原文
「古例を取て、今事を律すること不能」。原文
古い慣例で今日の事を裁くことはできない、という文言だ。原文
使節はこれを、日本政府はすでに通商の禁を改めた、と読んだ。原文
川路は、その一語だけを見ればそうも聞こえるが後段まで読めば「卽今治定致し難き」、つまり今すぐ決めるのは難しいという趣意になる、と説いた。原文
筒井は、将軍の喪が明けたばかりで嗣君の典礼も済んでいない、国事多端の折だと補う。原文原文

使節は言う。原文
アメリカが来てもう一年近く、自分たちがここに来て半年に及ぶ。原文
永年待つのは無理だが「一二ヶ月之事にもあらば、兎も角も相待べし」、一、二カ月なら待ってもよい、と。原文
蘇峰はここで一言を挟む。原文
老中の返翰は文義において頗る曖昧で、露使が誤解したのなら、むしろ誤解の方が当然であるかのように思われる、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 272

使節扨御諭に、追て境界を定候時に至り候ては、互に睨合ても居れぬ故、遂に親しく可相成と御申に候得共、旣に今日箇樣に及御對話候も、畢竟隣國之好を以、かゝる御取扱にも相成候儀に有之候、左候時は所願之條々追て之事に不被致、早々御取極被下候はゞ、於政府も難有存べし。-猶申立度存ずる條々は、書面を以、申述べし

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択捉と樺太

午後、話は北方の島に移った。原文
使節が問う。原文
千島のうち択捉は昔ロシア人が住んでいたが、その後日本が手を入れた。原文
今、日本はどこの領地と心得ているのか。原文
川路は即答する。原文
蝦夷の千島は残らず日本の属島で、名はもとより蝦夷の言葉である。原文
以来、択捉には外国の者を置かず、領主が番所を据えてきた。原文
「素より吾所領なる所聊疑も無之候」。原文
まったく疑いのない我が領地だ、と。原文原文

そして語調を強めた。原文
政府の書翰(手紙)にもないことを使節がいろいろ弁じるのは政府の意ではないだろう。原文
そういう心得ならば通信通商の話などできず、「我國人心之憤怒を生じ可申」、日本人の心に怒りを生むぞ、と。原文原文

樺太については使節が説明した。黒竜江の住民がロシアに属したいと願ったので兵を出して守らせただけで、日本の所領に手を出したのではない、境を決めておかないと外国船の通航の妨げになる、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 260

サカレンは、素々我國人住居之地にはあらず。先年アンモル(黑龍江)え我-國之者罷越候處。彼住民共、我國え屬せんことを願ふに付、我主の命に依て、軍卒を差遣し、彼土を爲守候事にて、日本所屬之地え手出し等致候儀には無之、右境界聢と取極不申候ては、外國之もの通航之差障にも相成候間、境界相定度存ずる所なり

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この日の様子を、大澤秉哲の長崎日記も伝えている。原文
席上に出たのは六人。原文
昼飯と菓子は控え所で済ませた。原文
使節は船へ入る港を二カ所決めたい、松前あたりと江戸近海がよく、長崎は不便だと言う。原文
三年五年はとても待てないので明後日までに考えて返事を、と申し出た。原文
川路と筒井は、急には返事できないと諭して、この日を終えた。原文原文

十二月二十二日、五十度線と石炭山

十二月二十二日、第二回の談判。原文原文

川路がまず確かめたのは樺太である。原文
「カラフト境界五十度以上之處を以、半島に引分候積候哉」。原文
北緯五十度あたりで島を半分に分けるつもりか、という問いだ。原文
使節は、日本人が住み日本の役人が来る場所を自国領とは思っていない、と答える。原文
ただアニワ港に近頃ロシア人が行ってみたところ日本人は「纔二十人程」、わずか二十人ほどしかいなかった。原文
外国が窺う様子もあるので兵を置いた。原文
日本領と分かれば早々に引き払う、しかし兵が住み慣れれば引き払いは難しくなる、と急いだ。原文原文

使節はさらに新しい事実を出した。原文
全島を見回らせたところ、日本人は南岸にわずかに住むだけで、島の中央から日本側寄りに新たに石炭山を開いた、過半はロシア領と心得る、と。原文
筒井と川路が老中への報告に添えた朱書が、この場の動揺を伝えている。原文
石炭山があるとは「曾て不承及候處」、これまで聞いたこともなかった。原文
蘇峰はここを「我は全く受太刀の姿であつた」と評する。原文
現状さえ詳しく知らず、相手の言葉で新事実を知る程度だった、我の不覚は察するべきだ、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 266

近來我國之者差遣、全島爲見廻候處、日本の人は纔計、南岸之地に住居致候迄に付、半島とも難申、其上島之中央より日本之方に當り、新たに石炭山を開き候事故、右場所は素より日本之人不居所故、旁過半は魯西亞所領と心得居候

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択捉についても使節は踏み込んだ。原文
元来ロシア人だけが住み、のち日本人が来た。原文
川路は「夫は心得違と存候」、それは心得違いだ、と切り返す。原文
蝦夷千島は古記録にもあり、択捉は断然日本の領地だ、それでは談判は無益になる、と。原文原文

蘇峰の判定は厳しい。原文
事実はむしろ露使の申し分が有利で、彼は実際の見聞に基づき、我は「凡上の空論を以てす」。原文
論鋒の利鈍は言わずして知るべし、と。原文
使節は港の話に戻し、江戸近海が無理なら大坂を、もう一カ所は松前か箱館を、と申し出る。原文
朱書には、使節は大坂の地形をよく心得ている様子で兼ねて心懸けているように見える、用心が必要だ、とある。
蘇峰は、この大坂開港が転じて兵庫開港の問題となり、幕府の末期まで面倒を引き起こした、と記す。原文原文

川路の率直な内情開示

第二回の談判で、川路は自国の内情を一度だけ率直に語っている。原文
急ぐ使節に対し、川路は「飛立程にも存ずるなれ共」と述べた。原文
自分たちも飛び立つほどにそう思うが、京へ奏聞し、その地の大名に調べさせるには三年五年はかかる、というのである。原文
そして続けて、日本人の大半は西洋のことを知らず、西洋人といえば虎か熊のように思っている者ばかりで、まったく困ったことだ、と語った。原文
自分たちは西洋学を心懸けていてそうではないと分かっているが、二人の口で衆人の惑いは解けない、とも言う。原文
川路は江戸まで六十日、樺太まではその倍かかると答えた。原文
そのうえで、争いを避けるため小人数の見分の者を送るとして、書付(文書)を出してくれと求めた。原文
話はそれから通商の利益論に移る。原文
川路は、前日届いた贈り物にも触れた。原文
筒井には燭台付きの大姿見と切子の大菓子入れ一対と女日傘、川路には星学用の置時計と黄硝子の菓子入れと女日傘、荒尾成允あらおなりまさには金縁の角鏡と酒器一組。原文
中村為弥と菊池大助にも時計や花瓶が届いていた。原文
川路は、好みの品で寒気を凌ぐ衣に替えても買いたいほどだが、こうした高価な品に財を費やすのは困る、と言った。原文
使節は、山丹の材木は日本の紙がロシアのギヤマンより安いように格安だ、と例を挙げる。原文
紙の障子は安いが損じやすく、ギヤマンは長持ちする、というのである。原文
川路の返事は「是一理とも可申歟」。原文
これも一理と言えようか、である。原文
将軍への献上品も差し出された。原文
四角の大鏡一面、三枚続きの姿見、金流置時計、大小の花毛氈、桃色ギヤマンの花瓶二座、金糸織の錦二疋。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 271

左衞門尉先づ我等一言申聞度儀有之、我國は西洋諸國と違ひ、自國之者外邦え到候儀は無之、坐して外邦之船之到るを待故、異國通商は國之痛に相成、益には相成不申、尤是は貴國え對し、申述候には無之、自餘國々を以申所なり

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二十三日、晴

翌二十三日は晴れた。原文
川路は長崎の宿所で寄り合いをし、ロシア側から書面を受け取った。原文
四カ条の要点は、返翰の「古例」の一句を通商差し許しの表明と解して書面で確定を求めること、択捉は千島全体がロシア所属であること、樺太南方に日本人はアニワで二十人しか見なかったこと、通商の細目に年月がかかるなら、まず試みとして江戸近方と松前島に二港を開けということだった。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第17章 NDL コマ 274

日本政府重御役人樣方え第ガラーフ(官名-案ずるに伯爵)ネスセルローデ(人名-案ずるに露國首相)の書翰御答之漢文中に、日本當時之振合にては、舊法に歸著難成と之儀に有之候。爰ヲ以使節辨知仕候は、日本政府彼是にて、外國通商御禁止之法度難存、依之日本政府魯西亞國との貿易御差許に相成、尤其始起、格別御差延之儀に有之候。隨て使節相願候は、日本重御役人方、此義書面にて御取究相成度候。第二日本政府ヱトロフ島所領之儀分明に有之候哉。此島往時初て魯西亞人見出し、千島之全州魯西亞國所屬に有之候。第三カラフト島は、アイノ人住地にて、其南方は纔之日本人住居いたし候。近來アニハえ魯西亞人巡行之時、日本人只二拾人見受候

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川路の日記はこう書く。原文
「昨日之こと、みな破談同前なり。其情、公事出入と少もかはらず」。原文
昨日話したことは破談と同然で、その様子は訴訟の争いと少しも変わらない。原文
昨日たびたび言葉に屈したためだろう、と人々は笑った、と。原文原文

川路は理屈で露使を屈したと書くが、露使の側は逆に考えていただろう。原文
「事實と道理とは、露使側に强く且つ多く、川路等の方に少く且つ弱くあつた」と蘇峰は断じる。原文
それでも大きな破綻を生ぜず、大きな襤褸を出さずに談判を続けたところに、川路たちの功と労がある、と。原文原文

第一回の問答を読んだ蘇峰は、日本側は受け身で、何事も申し訳やら弁解で、ロシアは一歩一歩迫っている、と書いた。原文
そして同じ行で、筒井にせよ特に川路にせよ、当時得られる最善の談判委員だったであろう、とも書いた。原文
受太刀でありながら最善である、という二重の評価。原文
終日の大雨のなかで西洋人を「虎か熊」と思う国の内情を自ら口にし、それでも三年五年を言い続けた川路の姿を、蘇峰はそのように見たのではないだろうか。原文
石炭山のことを初めて相手から聞かされた朱書の一行に、この談判の重心があったとも読める。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665
日付・人名本文に日付が 1 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 1 名のうち 1 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物川路聖謨荒尾成允事件プチャーチンと川路・筒井の長崎応接ペリー来航と国書の受領1853嘉永