小栗忠順は、対馬から戻って間もない外国奉行であった。30代半ばのこの人は、上役の水野忠徳にあてた5通の私信で、病を理由に出勤しないと告げた。著者の蜷川新は、私信なので飾りがなく本心がそのまま出ている、と見る。話は2か月前にさかのぼる。文久元年、ロシアの軍艦が対馬を占領して動かなかった。
小栗の乗る船は逆風と機械の傷みで遅れ、5月5日に下ノ関へ着いた。そこに英国の軍艦が停まり、問い合わせに来たが通訳がいなかった。小栗はできる限り英語で聞き取ったと蜷川は記す。対馬でロシアの船の長と話した小栗は、相手が出て行く見込みはないと判断した。部下を全員引き上げさせ、江戸へ戻った。
最初の手紙では、箱館の仕事を急に命じられたがすぐには出発できないと書く。2日前に会った水野から、対馬に誰も残さなかったことへの心配を伝えられた。ただ、自分の考えと違う指図では話がまとまらないという。引き上げのとき対馬の家来へ言い聞かせた手前、再び行けば顔向けできないとも書く。胸がふさがって目まいが起き、医師も急には治らないと言う、と結んだ。
7月3日には、今日から引きこもって体を休めたいと重ねた。もともと一時帰りではなく、用務を終えたつもりで戻った、と言い切る。蜷川は、対馬を幕府が直接治める土地とし、その上でロシア人と話し合うべきだという考えを読み取る。7月4日の手紙では、これまで黙っていたことを並べた。貨幣についての意見も、各国公使(外国政府の代表)が都へ戻る件への反対も、取り上げられなかったという。
大きな議論を書いて退くのは自分の身を清くするだけで、かえって上に汚名を着せる、とも述べた。翌日の返信では、部下の半左衛門が全員引き上げに強く反対したことを明かす。小栗は大名の領地にとどまっては不都合ばかりだと考えていた。退く方がかえって本当の忠義になるかもしれない、とも書く。読んだら焼いてほしいと結んだが、水野はそれを焼かなかった。
この記事からは、対馬から戻った小栗が出勤を断った事情が分かる。自分の意見が取り上げられなかったという不満も、私信の言葉からたどれる。
文久元年七月朔日、江戸。原文
小栗忠順は一枚の手紙を書き、宛名に「筑後守樣御內閱」と記した。原文
筑後守とは外国奉行の水野忠徳。原文
手紙の用件は一つ、「今日より引込の儀」であった。原文原文
「引込」とは、病を理由に屋敷へ引き籠り、出勤しないこと。原文
対馬から戻ってまだ日の浅い奉行が、上役への私信で、それを告げた。原文
このとき小栗は三十代の半ば。原文
米国から帰って一年ほどの、幕府きっての新知識であった。原文原文
私信であるがゆえに「粉飾なく却つて小栗上野介の心事が赤裸々に判明する」、飾りがなく本心がそのまま見える、というのが著者の蜷川新の見立てである。原文
以下、その五通を追ってみたい。原文原文
下ノ関の英艦、五月五日
話を二か月前に戻す。原文
文久元年、ロシアの軍艦が対馬を占領し、動く気配を見せなかった。原文
品川を出た小栗の乗る咸臨丸は日々の逆風に遅れ、機械に損所を生じ、所々に碇泊して手を入れ、ようやく五月五日に下ノ関へ入った。原文原文
下ノ関には英国軍艦一艘が碇泊していた。原文
英艦の者が咸臨丸へ「爲尋問罷越候處、何分通辯も無之、悉敷は難分候得共、豊州及丈は英語を被聞取候處」であった。原文
問い合わせに来たが通訳がおらず詳細は分からないものの、小栗はできる限り英語で聞き取った、という意である。原文原文
聞き取った内容は、上海から五艘を仕立てて公使を護送し、長崎から対馬へ寄り、ここへ来た、というものだった。原文
小栗は英語を解し、英人から事情を聞き取ることができた、と蜷川は書く。原文
本来は蘭学の人であり、米国で英語を学んだのであろう、というのが蜷川の推測である。原文
当時の政治の当局にこの程度の人は幾人もいなかった、と蜷川は言い添える。原文原文
対馬に着いた小栗はロシアの船将と対話した。原文
「出帆之見据も更に無之」、ロシア艦が出て行く見込みは全くない。原文
小栗はここで一つの判断を下し、部下の一同を引き払わせて江戸へ戻った。原文原文
五百石の外国奉行
田辺太一の「旧幕外交談」は「一葉の墜る、以て秋を知るべく」と始まる。原文
一人の士の進退から時運の消長を知る、と田辺は書き、水野の致仕にその感を抱いた。原文原文
水野は禄高五百石。原文
岩瀬忠震らが死ぬか罪を得るかしてからは、水野一人が外事を担う形になった、と田辺は記す。原文原文
田辺はこの扱いを、水野がどれほど当路に恐れられていたかの証と見る。原文原文
蜷川は水野を「幕末三士の一」と呼ぶ田辺の評を受け、岩瀬、水野、小栗と並べて「幕末の歷史を飾る秀なる人物」と書く。原文
小栗はこの水野と「知己且つ遠緣の關係に在つた」。原文原文
「何の面目か」
七月朔日の一通に戻る。原文
小栗は箱館御用を急に命じられていた。原文
だが、「迚も即今發足仕候儀には兼至候」、とてもすぐには出発できない、と書く。原文原文
理由は対馬にあった。原文
一昨日水野に会った折、対馬に一人も残さず全員引き払ったことに懸念が少なくないとの沙汰(通知・命令)があった。原文
小栗は「再三反省仕候處」、あちらでの取り計らいが行き届かず、かえって懸念を増した、と恐れ入る。原文
格別の寛待で再出張を命じられるのは有り難い。原文
けれども。原文
「小生見込とも違候御指圖故、取纒り候見据も無之、且彼地引拂候節、對州家來共に申聞候儀も之有候處、是迄の姿にて、再出張は、何の面目か重役共へ面晤も難仕」。原文
自分の見込みと違う指図では話がまとまる見込みがなく、引き払う際に対馬の家来へ言い聞かせたこともあるから、このままの形で再び行けば、対馬の重役に顔を合わせる面目がない、という。原文
だから「先決心仕候」、まず決心した。原文
胸中がふさがって眩暈が生じ、医師も急には全快しないと言う、と結ぶ。原文原文
七月三日には第二の手紙。原文
水野から返事が来ていた。原文
小栗はそれを謝しつつ、「今日より引込ト養生仕度存候」、今日から引き籠って養生したい、と重ねた。原文
同じ日に「再答」。原文
「元來中歸りの積りにて歸府は不仕、一先御用濟の積りに取斗」。原文
もともと一時帰りではなく、御用済みのつもりで帰府した、と明言する。原文原文
支配向の中にも同じ議論を言い、再出張の免除を願う者がいる。原文
だが自分の見込みが採用され、処置があれば「如何樣とも可仕」、どのようにでもする、とも書く。原文
蜷川はここに小栗の主張を読む。原文
対馬を幕府の直轄領とし、その上でロシア人と談判しなければ有利に結末はつかない、という見込みである。原文原文
一事も採用されず
七月四日、第四の手紙。原文
ここで小栗は、それまで言わなかったことを列挙する。原文原文
一昨年、監察使を命じられて以来、保字小判の直上げには異存を申し上げたが採用されなかった。原文
昨年米国から帰った後、金銀貨幣の件を再び申し上げたが、一通り尤もとは承知されつつ、今も何の処置もない。原文
各国公使の帰都についても異存を述べたが採用されなかった。原文
「其外見込の義は種々申上置候得共、一事も御採用に相成不申候」。原文
そのほか種々申し上げた見込みも、一つも採用されなかった、というのである。原文原文
そして続ける。
「大議論を建白(意見書の提出)仕候て退身仕候は、全く一分を潔仕候迄にて、却て汚名を上へ歸し候樣相成可申哉」。原文
大議論を建白して退くのは自分の一分を清くするだけで、かえって汚名を上に帰すことになろう、と。原文原文
蜷川はこの一節に「一切の責任を一身に負ひ、他人の毀譽に對して、意に介せざる」小栗を見、「其の修養や凡夫にあらず」と評する。原文
手紙の末尾には老母のことがある。原文
内実は老母にも聞かせたところ、同人も覚悟している、と。原文
それでも「再三の御說諭實以深難有」、明朝までに決心の有無を申し上げる、と一日の猶予を置いた。原文原文
翌日の「復答」は、朝は晴れていたのにまた雨になった、と書き出す。原文
再三熟慮したが「當惑の次第のみ」、困惑ばかりで、実に迷った、と。原文原文
そして対馬での対立を明かす。原文
支配向の半左衛門は、一同引き払いに「不同意の由も達て申聞候」、強く不同意を申し立てた。原文
小栗の見込みは違う。原文
諸侯(大名たち)の領地に出張していては何事も不都合ばかり生じ、ロシア人もこれまで対馬の家来に扱われてきたから直接に引き合わせる方が都合がよい、と苦情を言い、談判はまとまらない。原文
半左衛門の見込みは取らず、自分の見込みが採用されずに再出張を命じられるなら辞職しても行かない、とまで言い聞かせてある。原文原文
そのうえで小栗は、この件はもう置いてよい、と筆を転ずる。原文
当路にいても格別御為になる見込みがない以上、「因循と時月を移、不顧不肖、穢大任候は實以恐縮の至り」。原文
ぐずぐずと月日を移し、不肖を顧みず大任を汚すのは恐縮の至りである、と。原文
「御上にても一ミニストル減候得ば夫丈御適意にも可有之」、上でもミニストルが一人減ればそれだけ都合がよかろう、という一行もある。原文原文
最後にこうある。原文
「兎に角小子見込にては對州抔は尤未にて實に不日不測の危害、何方より相生候哉と痛心、然る上は、退去仕候迚却て實の御忠節を仕候見込も御座候哉」。原文
対馬などはまだ末の末で、いつどこから不測の危害が生じるか痛心している、それならば退去する方がかえって本当の忠節になる見込みもある、と。原文
そして「御覽の後は丙丁奉願候」、読んだら火にかけてほしい、と結んだ。原文
水野はそれを焼かなかった。原文原文
片隅より中央
蜷川は五通目の文面を、「日本の片隅に年月を費すよりも、中央に在りて、大事を行ふの急なるを告白しつゝある」と読む。原文
小栗の心事とはそれである、という。原文
無益に任を帯びて遠く中央を去るより、必要の時機に国家中央の事に尽くす、という選択だと蜷川は言う。原文原文
その「心事」は、後任として対馬へ渡った野々村丹後守が、対馬の国守宗氏に与えた諭達書に現れている、と蜷川は続ける。原文
そこには「今度內願の趣も有之候に付、州中巨細巡見をも可致候間」とある。原文
このたび内願の趣もあるので島中を詳しく巡見する、というのである。原文
小栗の見込んだ直轄化は、去った後に形を取り始めた、と考えることもできる。原文
翌文久二年、水野忠徳は役を移された。原文
政事総裁の松平慶永による幕政改革の初めであった。原文
田辺は、これを用いるためではなく遠ざけるための人事と見る。原文
水野は開国の国是を第一に定めるべしと上言し、時宰が面会を避けるほど争い、九月三日に退隠して癡雲と号した。原文原文
慶応四年正月、水野癡雲は隠居(家督を譲って退いた人)の身で江戸城に呼び出された。原文
十三日に登城(江戸城に出仕すること)、御前に召し出されて夜九時半過ぎに退出。原文
十四日は暁七時、十五日は夜九時、十六日は暁六時、十七日は暁八時、十八日は夜六時半。原文
廿一日は昼後から登城して暁八時。原文
一週間続いた会議の記録である。原文
小栗が徳川慶喜の袖を捉えて主戦論を唱えたのは「此の時」だ、と蜷川は記す。原文原文
慶応四年正月、その中央で行おうとした大事は退けられ、小栗は知行所の上州へ引き上げた。原文
七年の間に「中央」は、彼の見込みを一事も採用しなかった、とも読める。原文
それでも「退去仕候迚却て實の御忠節」と書いた男は、本当に「一分を潔」くしなかったのだろうか。原文
火にかけてくれと頼んだ手紙が残ったことを、小栗はどう思うだろう。原文原文
| 元本 | 蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 12・13・14・15・17・18・19・21・22・23・24・26・28・29・30・31・34・35・36・37・38・39・40・41・43・44・45・46・48・49・51・52・53・54・55・56・57・58・59・60 |
| 日付・人名 | 本文の日付 8 件・人名 3 件を、『維新史料綱要』1,630 項目と突き合わせました。 |
本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。
