間部詮勝は小御所(御所の中の建物)の下段で、天皇へ書き付けを差し出した。同席したのは武家伝奏(朝廷と幕府をつなぐ役)の広橋光成と万里小路正房である。その場を引き取ったのは午後8時であった。この記事は、その書き付けの中身と、それに対する蘇峰の批判をたどる。
書き付けは、兵庫の港を開くことは天皇のいる都に近いので取りやめる、と述べる。たとえ戦いが始まっても港を閉じる用意がある、とまで言う。蘇峰は、幕府にそんな覚悟があったはずはなく、まったくの出まかせだと断じる。書き付けはさらに、外国の件に乗じて天皇の承知しない調印をさせた者がいるとする。公家の中にもそれに加わる者がいると記す。
つまり調印の責任は井伊直弼や幕府の重役ではなく、徳川斉昭とその仲間にあるという言い分である。蘇峰は、責任を他へ押しつけたうえ、反対する側を大罪人に仕立て、自らを忠義の者としたと見る。当時の京の人の手紙は、きっとうそばかり申したのだろうと評していた。
添えられた別紙はさらに奇妙である。仙台の金忠助が松前の高田屋金兵衛と組み、米をロシアへ送って利益を得たという話から始まる。続けて、医者の高野長英が外国船を大砲で打ち払うのはむごいと徳川斉昭に述べたと記す。そして斉昭が水野越前守を説き、打ち払いの命令が緩んだとする。蘇峰はこれを作り話とし、命令が緩んだのは事実でも斉昭は関わらず、むしろ不服だったと言う。
別紙は、斉昭がもともと外国人と通じていたとまで書き、徳川家定の死や、将軍徳川家茂の危急にも触れる。蘇峰は、証拠のない言い放ちであり、よくもこんな根拠のない説を朝廷へ上げられたものだと憤る。別の添え書きは、井伊直弼が病気で登城(江戸城に出仕すること)できない隙に調印が行われたとする。しかし井伊はいつもの時刻に登城し午後4時に退出しており、蘇峰は根も葉もない話だとする。
天皇はこの日、間部に会わず、関白(天皇を補佐する最高の官職)から書き付けと説明の様子を聞いた。その感想は「全水府にかぶせ候企と存候」、水戸に押しつける企てとの意である。天皇はその晩、関白に内緒で、書き付けを徳大寺公純ら4人に見せている。蘇峰が最も重く見るのは、開港は一時の方便だと朝廷に約束した形になる一句だ。この記事からは、書き付けが何を主張し、それを天皇と蘇峰がどう受け取ったかが分かる。
兵庫開港の勅諚
安政五年十月二十四日、巳の刻。原文
老中(幕府の重臣)間部詮勝が参内した。原文
小御所の下段。原文
懐から書付を取り出し、関白(天皇を補佐する最高の官職)九条尚忠の前に置く。原文
同席は武家伝奏の広橋光成と万里小路正房。原文
引き取ったのは夜五つ時、午後八時であった。原文原文
「兵庫開港之儀は、帝都近邊に付、是非取除き可申旨、再應勅諚有之に付、必御差除可被成」。原文
さらに「彌以開兵端候共、是非御沙汰(通知・命令)之通、右港は御閉可被成御用意候」と続く。原文
たとえ戦端を開くことになっても、仰せの通り兵庫は閉じる用意がある、と言うのだ。原文原文
短い文だが「頗る有意義のもの」だと蘇峰は書く。原文原文
「全く間部の出鱈目」
幕府が本当に、開戦を覚悟してまで兵庫を閉じる決心をしていたか。原文
蘇峰は「斯る覺悟のあつた筈はない」と断じる。原文
兵庫を取り除きますと請け合ったくだりを読めば「全く間部の出鱈目である」ことは分明だ、と蘇峰は記す。原文原文
書付(文書)はさらに一歩を進める。原文
外国の一件に事寄せ、その隙を窺い、「小御不承知之調印爲致」、つまり天皇が承知しない調印を行わせた「隱謀者」がいる。原文
堂上(朝廷の上級の貴族)にもその「內謀に荷擔」する者がいる。原文
邪謀を鎮めた上で「兵庫は遠ざかり可申樣、急度御考量可被爲在候」。原文
乱れた謀を取り鎮めたのちは、兵庫がなくても済むよう、必ずご考慮ください、というのである。原文原文
つまり日米条約の調印は井伊や幕閣(幕府の上層部)の責任ではなく、徳川斉昭とその一味が幕府を窮地に陥れた結果だ、と間部は言っている。原文
京都の正議派も、その党類だと言う。原文
これでは調印の責任を他へ転嫁するだけでなく、反対党を大罪人に仕立て、自らは忠臣義士となり、しかもこれを政敵一掃の武器にしたことになる。原文
「鴉を鷺とし、鷺を鴉とするの詭辯たりとも、此れ以上の詭辯はあるまい」と蘇峰は書く。原文原文
たゞ此の如くして兵庫開港の責任を、他に轉嫁するばかりでなく、直ちに其の責任を反對黨に投げ掛け、彼等をして大罪人たらしめ、自ら條約調印の責任を免れ、己れ獨り忠臣義士となるばかりでなく、却て之を以て反對黨を一掃的に排擠するの武器たらしめた。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く当時、京の某人の手紙は、きっと嘘ばかり申したのだろう、と評している。原文
水戸派の側からの評語ではあるが、この評だけは「間部に取りては、申譯があるまい」と蘇峰は付け加える。原文原文
金忠助と高野長英
書付に添えられた「別紙」は、さらに奇怪である。原文
文化・文政の頃、仙台に金忠助という者がいた。原文
松前の高田屋金兵衛と心を合わせ、仙台米をロシアに送って利を得、のちにカムシャツカに渡ってその地の王になった、と別紙は言う。原文
天保十年頃、高田屋の異国取引が露見し、評定所で吟味された。原文原文
さらに蘭医の高野長英がこの忠助と同意の者で、外国船を大砲で打ち払うのは不仁だと徳川斉昭に申し出た。原文
斉昭が「至極尤之趣」と言い、水野越前守を説き、それで打払令(外国船を追い返す命令)が緩められた――と別紙は述べる。原文原文
老卿至極尤之趣被仰、其砌水野越前守御役中、老卿より長英を御世話有之候か、又は御使に被遣か、越前守を說解いたし候より、愼德院様(將軍家慶)御代右等之儀を申上、御仁意及外國候程之御大德を示す事と申唱、以來外國船日本近海へ相越し候共、打拂之儀は不致、薪飮水其外當用之品可被差遣間、其段外國へ相觸候樣和蘭陀人へ達に相成候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く蘇峰はこれを「全く一片の小說だ。假構だ」と切って捨てる。原文
天保十三年に打払令が緩和されたのは事実だが、斉昭は関係していない。原文
むしろ斉昭はこれに不服だったことを、当時の文書が「雄辯に之を語りてゐる」と蘇峰は書く。原文
無根と言うより「事實に反對する」と言わねばならぬ、と。原文原文
別紙は斉昭の弘化の遭厄にも触れる。原文
領内の寺塔を壊し、梵鐘を取り上げたのを咎められ、それを遺恨に思って一橋を西丸へ入れようと謀った、という筋である。原文
これも「勝手に歷史を製造したるもの」と蘇峰は言う。原文
そして極まるのは「元來夷人と御内通有之候事故」の一句。原文
もともと斉昭は外国人と内通していた、というのである。原文
いかなる証拠を握ってこう言明したのか、「無責任の放言も、此に至りて亦た極まる」と蘇峰は記す。原文原文
老中(幕府の重臣)の堀田正睦、松平忠固まで、斉昭の一味に引き入れられたことになっている。原文
だが斉昭は堀田の就任を好まなかった一人であり、松平忠固は「大禁物の一人」だった。原文
前将軍徳川家定の死に疑いがあり、将軍徳川家茂も紀州にいた頃から二、三度危急があった、とまで書く。原文
斉昭が前将軍を毒殺したとか、家茂を繰り返し毒殺しようとしたとか、「能くも斯る無稽の說を」朝廷へ上申(上に申し出ること)できたものだ、と蘇峰は憤る。原文原文
井伊直弼の調印と覚悟
間部はもう一通、添書を出している。原文
ハリスが、調印を延ばせば戦争になると申し立てた、というくだりがある。原文
ここだけは事実だ、と蘇峰は認める。原文
戦争になるのが事実ではなく、ハリスがそう申し立てたのが事実だ、という意味である。原文原文
添書はこう続く。原文
井伊直弼はたとえ幾万の軍艦が押し寄せても、京都へ申し上げずに調印はできぬと言い張った。原文
六月十九日に井伊が病気で登城できず、その隙に調印が行われた、というのだ。原文原文
其節掃部頭(井伊直弼)遮て不承知申張、譬幾萬之軍艦一時に押寄、忽戰爭に及び候共、被對京都被仰上も無之、條約調印いたし候事は、決而御同十九義理合と申、御尊敬之場も相はづれ、不可然旨押張申述。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「此れは全く無根のことだ」と蘇峰は書く。原文
井伊が勅許を待たずに調印するのを好まなかったのは事実である。原文
しかし彼は「背に腹は代へられぬ」と決心して同意した。原文
十九日も井伊はいつもの時刻に登城し、午後四時に退出している。原文
病気欠席はあり得ない。原文原文
「勅許を待ざる重罪は、甘じて自分一人に受候決意に付、亦云ふ事勿れ」。原文
勅許を待たぬ重罪は自分一人で甘んじて受ける、もう何も言うな、という覚悟だ。原文
宇津木六之丞が、その日その夜に井伊から聞いたことを記録している。原文
間部はなぜ明々白々な事実を上申しなかったのか、「餘りに鄙劣千萬ではない乎」と蘇峰は問う。原文原文
別段の請書、開港の弁明
別段の請書では、間部は開港をこう弁じている。原文
西洋人が来るのは「賣買利潤之爲」である。原文
東照宮の代、諸蛮が貿易を願ったが、イギリスは利潤がないと断った。原文原文
今断れば彼らは立腹し、戦争になる。原文
戦争になれば「兼々惡謀方其虛に附入、日本國內に反逆差起り」、皇居も安穏ではない。原文
今は武備が整わず必敗だが、いずれ必勝だ、という理屈である。原文原文
万里小路正房が同じことを問うと、同じ答えを返し、末尾に「知慧無之事にて恐入候」と添えた。原文
知恵がなくて恐れ入る、と自ら言ったのである。原文原文
蘇峰はここで『幕末政治家』の一節も引く。原文
幕府はすでに開国の政策を定めながら朝廷には攘夷(外国を追い払うこと)を装った、と後に攻撃されたが、井伊にそこまでの権謀はなく、本心から鎖国主義であった。原文原文
蓋し眞實に思ひ込みたる所を言ひたるにて、朝延を欺岡し奉る程の謀略も無かりしと云ふべ要するに當時眞に開國の必要を認めたる卓見の識者は、永井玄蕃頭、橋本左内、佐久間修理等の諸人に過ぎずして、且つ和すと云ふの者流なりしのみ。是れ卽ち德川幕府が外交の關係よりして勢力を失ひ、當時もし井伊大老をして眞に開國の卓識を有せしめ、得失利害をば、堂々と聖天子の御前にて辯說する事を得せしめば、豈に大に聖意に適ひて、浮雲を披いて天日を見るが如きの壯快なかりしとせんや。井伊大老に開國の識見なかりしが故なるのみ
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「全水府にかぶせ候企」
天皇はこの日、間部に会っていない。原文
関白と武家伝奏が未の刻、午後二時頃から灯をともす時刻まで長談し、その後関白から書付と演舌の次第を聞いた。原文
それを見た天皇の言葉が、こうである。原文原文
昨日(安政五年十月廿四日)は間部參上、私は所勞氣不能面會候。關白(九條尙忠)武傳(廣橋、萬里小路)事、未過刻(午後二時)頃より、及秉燭長談に候其後應知せ卽關白へ面會候と之樣成次第と聞き、心配候處段々書
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「全水府にかぶせ候企と存候」。原文
すべて水戸にかぶせる企てだと思う、ということだ。原文
蘇峰はこの一句を「洵とに破的の宸言」と呼ぶ。原文
間部の物言いは妙に柔らかい調子で、まったく乱暴な様子ではなかった、という天皇の観察である。原文
「間部詮勝の老獪なる面目睹るが如し」と蘇峰は記す。原文原文
その晩、天皇は書付を徳大寺公純、中山忠能、三条実万、坊城俊克に内々見せた。原文
関白には内緒であった。原文
水戸のことを、関白はどうも本当だと思っているようだ、というのである。原文
ここに「間部僞證し、九條妄信し、主上疑惑し玉ふ三個の事情」が分明する、と蘇峰は書く。原文原文
諸大夫の小林良典が町奉行(江戸などの町を治める役人)に召喚され揚屋入りとなったことで、主人の鷹司は辞官(官職をやめること)落飾(髪をおろして出家すること)を申し出ていた。原文
いったんは思い止まらせたが、この一件がやがて再燃し、正議派を「一網蕩盡せんとする」ことを、誰が予期できたか、と蘇峰は問いかける。原文原文
「追ては御引戻し之期」
間部は関白に「下田條約に引戾し候樣、私申きばり候」とも語ったという。原文
下田条約の水準まで引き戻すよう、私が頑張っている、というのだ。原文
天皇は「例の私の側口かは不存乍」、いつもの私の側の贔屓目かもしれないが、と条件を付けて聞いている。原文
一方で火のように調印を催促し、勅許を待たず調印を了しておきながら、下田条約に引き戻すとは「餘りに辻褄が合はぬ話」だと蘇峰は書く。原文原文
蘇峰が最も重く見るのは、書付の中の一句である。原文
「追ては御引戾し之期も可有御座候間」。原文
いずれ引き戻す時期もあるでしょうから、という文言だ。原文
これでは幕府は鎖国を目的とし、その方便として一時的に開港する、武備が整えば下田条約まで引き戻す、と朝廷に約束したことになる。原文
鎖攘は「全く時間の問題」となり、幕府は未来に向けて朝廷へ保障を与えたのだ、と蘇峰は言う。原文原文
もし間部が開国を大方針と明言していたら、当時は朝廷に容れられなくとも、後害は残さなかった。原文
ところが当座の無事を願って一時の方便のように弁明したために、「他日容易ならぬ難題を、脊負はねばならぬ始末」となった。原文
間部は唯一ではないにせよ「重なる責任者の一人」だ、と蘇峰は記す。原文原文
彼等は前後の分別もなく、只だ當座の都合のみを考慮し、何處迄も朝廷の鎖攘の方針を奉戴する大方針の下に、唯だ當座の無事を希ふ爲めに、一時の方便も小御所問答方便申譯の害て開港するかの如く申譯けをなしたる爲めに、遂ひに他日容易ならぬ難題を、脊負はねばならぬ始末となつた。
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く間部はその同じ書付の中に、自らを縛る縄の一句を書き込んでいた。原文
「うそばかり」と京の人が書いた一日は、幕府にとって、勝利の日だったのか、それとも敗北の始まりだったのか。原文
その日書かれた一句が、やがて誰の首を締めたか――蘇峰の筆はそこを見つめているように読める。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 6・7・9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・20・21・22・23・24・25・26・28・30・31・32・34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・45・48・49・50・52・55・57 |
| 日付・人名 | 本文の日付 2 件・人名 13 件を、『維新史料綱要』448 項目と突き合わせました。 |
本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
