「多謝々々」とパークスは言った ―― 明治二年二月二十八日、三条畷の刺客と攘夷論者の豹変

あらまし

徳川斉昭は、外国を追い払えと唱える人々の筆頭と見られていた。その斉昭の本心が思い合わされる事件が、明治2年(1869年)2月28日に起きる。場所は京都の三条畷。英仏蘭三国の公使が天皇に会う日、行列に二人の男が襲いかかった。

護衛は尾張藩などの藩士。先頭の騎兵隊を率いる中井弘は馬から飛び下りて組み合い、軽い傷を負った。土佐の後藤象二郎が刺客の一人を斬り、もう一人は大勢に切りつけられ、重傷のまま捕らえられた。死んだのは十津川の浪人、井田直堅、捕らえられたのは大阪上蓮寺の元僧侶、三枝蓊である。

中井は井田の首を斬り落として高く掲げ、パークスに見せた。著者の蜷川新はこれを機嫌取りと記す。パークスは御所へ参上せず、3つの条件を示した。国としての謝罪を公文書で出すこと、刺客は切腹ではなく斬ること、罪状を国内に知らせること。政府は翌日、三枝の武士の身分を取り消して斬った。

首をさらして宣告文を添え、その写しとともに公文書で謝っている。外国人を誰も傷つけていない者の首をさらすのは重すぎる仕打ちであり、ひどい屈辱の外交だと蜷川は断じる。事件の11日前、2月17日に政府は全国へ布告を出していた。天皇の意向により、世界に共通するやり方で各国の公使を扱うという中身である。

外国との付き合いは旧幕府のやり方がそのまま引き継がれた。6つの藩の藩主は、外国の使者を朝廷に出入りさせる必要を説く意見書を出している。江戸城に外国人を入れたことで人々が激怒した事実は忘れられていた、と蜷川は見る。斉昭は松平慶永に、自分も攘夷は無理だと思うと語っていた。鉄砲や船を造り、やがて外国と交易することになるだろう、とも述べている。

外国を追い払うという看板は死ぬまで下ろさないつもりだ、と斉昭は続けた。尾崎三良の回想では、三条実美も開国しかないと分かったうえで尾崎を長崎へ送っている。できないと知りつつ幕府に迫ったのは倒幕の手段だった、と望月茂は結論づける。明治元年に雲井龍雄が奥羽の諸藩へ送った檄文も、薩長の前後の食い違いを突いた。蜷川は、言葉と本心を一致させた二人が首を落とされたことを示し、今の日本人に判断を求める。

この記事からは、三条畷の刺殺と首さらしの経緯が、『逸事史補』と雲井龍雄の檄文、蜷川新の見方からたどれる。

目次

明治二年(1869年)二月二十八日、京都。原文
この日、英仏蘭三国の公使(外国政府の代表)が天皇に拝謁することになっていた。原文原文

英国公使パークスぱーくすの一行が、旅館の知恩院を出て御所へ向かう。原文
道は三条畷にかかる。原文
二人の男が一行に躍りかかった。原文
刺客である。原文原文

尾張藩以下の藩士が護衛についていた。原文
先駆騎兵隊の司令だった中井弘は、馬から飛び下りて刺客と組み合い、軽い傷を負った。原文
土佐の後藤象二郎は刀を抜いて刺客の一人に斬りつけ、これを殺した。原文
もう一人は多勢に切り付けられ、重傷を負ってその場で捕らえられた。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 34

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死んだのは十津川の浪人、井田直堅。原文
捕らえられたのは、大阪上蓮寺の元僧侶、三枝蓊。原文
パークスは無傷であった、と蜷川新は書く。原文原文

首を捧げる男

騒ぎが収まったあと、中井は一つの動作をした。原文
息絶えた井田の首を斬り落とし、高く捧げてパークスに見せたのである。原文
蜷川はこれを「パークスの御機嫌を取つた」と記す。原文原文

パークスは「多謝々々」と言ったと伝えられている。原文
昨日まで攘夷(外国を追い払うこと)を叫んでいた人々に、政治家としての主義や良心があるのか。原文
パークスは心中でそう疑ったことだろう、と蜷川は推し量る。原文原文

パークスは参内(御所へ参上すること)しなかった。原文
憤然として知恩院に引き返した。原文
すると徳大寺、松平、東久世、伊達、鍋島という当時の大官たちが、勅使として打ち揃って知恩院へ慰問に訪れた。原文原文

パークスはこの慰問だけでは満足しない。原文
蜷川が「流石に英國流の外交家」と評する応対である。原文
日本国としての陳謝は公文書で行うこと。原文
刺客は切腹では不十分であり、斬罪に処すこと。原文
日本政府としてその罪状を国内に布告すること。原文
三つの条件が示された。原文原文

時の政府は従った。原文
翌日、三枝蓊の士籍を剥ぎ、斬罪に処し、さらに梟首して宣告文を付した。原文
そして宣告文の写しを添え、公文書でパークスに謝罪した。原文原文

外国人に一つの傷も負わせていない政治犯を、首を晒す刑に処す。原文
蜷川はこれを「甚しき屈辱外交」と呼び、制裁として「過重背理」であったと断じる。原文
旧幕府の時代に、外国人を斬った日本人が横浜で梟首された事件は一つだけあった。原文
だが誰も傷つけていない者を梟首したのは、明治二年のこの一件以外にはないだろう、と蜷川は書く。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 35

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二月十七日の布告

三条畷の事件の十一日前、二月十七日。原文
政府は全国に布告を出していた。原文
「先般外國御交際之儀、叡慮之旨被仰出候に付ては、萬國普遍之次第を以て、各國公使等御取扱被爲仕候」。原文
先に外国との交際について天皇の意向が示されたので、万国共通のやり方で各国公使を取り扱う、という意味である。原文
布告は、各国公使が急に参朝することになった、とも告げていた。原文
日本と外国との交際は、旧幕府がしていた通りに、そのまま引き継がれることになった。原文
薩摩、長州、土佐、肥前、越前、安芸の六藩主は、外国使臣を朝廷に出入りさせる必要を建白(意見書の提出)している。原文原文

蜷川はここに一つの落差を見る。原文
江戸城に外国人を入れたことで攘夷党が憤激した事実は、いつの間にか忘れられていた。原文
「君子豹變の意乎、將た世を欺けるか」。原文
君子は過ちを改めるのか、それとも世を欺いたのか、と蜷川は問いかける。原文
三条畷の刺客は、この落差の上に立っていたとも読める。原文
攘夷を唱えて政権を取った者たちが、攘夷の刀を振った者の首を晒す。原文
その構図を、蜷川は「攘夷一蹴の外交政策」と名づけた。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 37

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攘夷は私の株

では、攘夷論者は本当に攘夷が可能だと信じていたのか。原文
蜷川は昭和二年(1927年)五月の「国本」に載った望月茂の論文「攘夷論の解剖」を借りて、この問いに向かう。原文原文

望月が引くのは『逸事史補』の著者、松平慶永まつだいらよしながの回想である。原文
慶永は攘夷家中の攘夷家と目された徳川斉昭とくがわなりあきに、たまたま問うたことがあった。原文
いま外国がしきりに来ているが、攘夷はできないことだと思う。原文
外国との交際が開ければ今の世は難しい、と。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 32

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斉昭の答えはこうであった。原文
「實は私も左樣に存居候故、鐵砲を鑄造し、舟など朝日丸を造り、往々は外國へ我舟を遣はし、交易するやう可相成候」。原文
実は私もそう思っているから、鉄砲を鋳造し、朝日丸のような舟を造り、やがては外国へ我が舟を遣わして交易するようになるだろう、という意味である。原文
続けて斉昭は言った。原文
「私抔は老年に相成候間、攘夷は私の株故、終身相止め不申、其儘死迄も攘夷家にて相濟候心得なり」。原文
私などは老年になったので、攘夷は私の持ち役だから、一生やめず、死ぬまで攘夷家で通すつもりだ、という意味である。原文原文

慶永はこれをもって、斉昭は本当の攘夷家ではなかったと知るべきだ、と書いている。原文
蜷川はこの証言を、攘夷論の首領が「口頭と肚裏と異れる事」を言っていた証拠として受け取る。原文原文

公卿(朝廷の高官)の側はどうだったか。原文
蜷川は橋本左内の全集から、安政五年(1858年)四月頃の密書を引く。原文
当時「物の判つた人」とされた公卿の東坊城が、岩瀬忠震に「切支丹と申す國は、當時いづれへ屬候哉」と尋ねたという。原文
キリシタンという国はいまどこに属しているのか、という問いである。原文
西洋のことを知っている者の問いではなく、ただ幕府に任せておくべしという思い込みだけだった、と密書は記している。原文原文

京都の外にほとんど出たことのない堂上(朝廷の上級の貴族)人が、欧米人を知らないのは無理もない。原文
だから彼らの攘夷論は「狹き感情論」であり「根據なき自尊心」であった、と蜷川は書く。原文
反幕の政治家がこの感情を利用したのも、権略家としては当然の方式だったろう、と。原文原文

長崎へ行って来い

太宰府に幽閉中の五卿に奉仕した尾崎三良の回想である。原文原文

尾崎はある日、五卿の一人、三条実美に申し上げた。原文
これまで一途に攘夷と言ってきたが、今日のようなことではやっていけない。原文
彼を知り己を知って、それから交わるにせよ打ち払うにせよ決めるべきだ。
外国のことを知らずに交際すれば、始終してやられる。原文
外国の事情を知ることが必要ではないか。原文原文

水戸の藩士などにそんなことを言えば頭を割られる、羅紗の煙草入れを持っていれば引き裂かれる、という時代であった。原文
だが三条は答えた。原文
「イヤ私もさう思つて居る。今これを公然といふことは出來ぬから、貴樣何か考があるならば、貴樣の考でやつて見れ」。原文
それで尾崎は長崎へ行き、西洋人と交際してみることになった。原文
三条はその頃すでに、開国でなければいけないと十分に悟っていた、と尾崎は語っている。原文原文

五卿の一人、沢宣嘉もまた、最も頑固な攘夷論者と伝えられるが、長崎に亡命中、早くから外遊の計画を立てていた。原文
丙寅の秋に作った長詩の末句には「余時有洋行之志。而不能遂」とある。原文
私にはこのころ洋行の志があったが、遂げられなかった、という意味である。原文
沢もまた三条と同じ感を抱いていたに違いない、と望月は書く。原文原文

望月の結論はこうである。原文
行われないと知りながら幕府に攘夷を迫ったのは、攘夷を倒幕の手段に用いたものであり、「攘夷即倒幕」と解して差し支えない。原文
勅使(天皇の使い)として東下した大原重徳おおはらしげとみがしきりに攘夷の勅語を演べ、松平慶永が「是には殆困却苦痛申迄も無之」と書いた例も添えられている。原文
これにはほとんど困却し、苦痛は言うまでもない、という意味である。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 33

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蜷川はこの論文を丸ごと借りたうえで、自身の見方を重ねる。原文
攘夷論のために全国民が受けた禍害は甚大であった。原文
「彼等は人民に禍することを敢てしたのであらうか」。原文
彼らは初めは信じていて、後に不可能を悟ったのだろう、と蜷川はいったん譲る。原文
しかしそれでも、定見を持たず、世界を知らなかったことに変わりはない、と蜷川は書き足す。原文原文

十有余年の衷情

明治元年、奥羽の諸藩に一通の檄文が飛んだ。原文
雲井龍雄の筆による。原文
蜷川は大正十五年(1926年)十二月の「国本」に石川諒一が掲げたこの文を、そのまま今の読者に渡す。原文原文

檄文は言う。原文
初め薩長が幕府と争ったとき、外国と和親開港したことを罪とし、尊王攘夷を主張して天眷を得た。原文
しかし朝政を専断できるようになると、局面を変え、外国に取り入り、英仏の公使を紫宸殿に参朝させた。原文
先日は公使が江戸に入ったことを幕府の大罪と論じ、今日は公使が御所に上がることを喜んで盛典とする、なぜこう前後が食い違うのか、という意味である。原文原文

そして檄文は断じる。原文
「其十有餘年、尊王攘夷を主張せし衷情は、唯幕府を傾け、邪謀を濟さんと欲するに在ること、昭々可知」。原文
十年あまり尊王攘夷を主張してきた本心は、ただ幕府を倒し、邪な謀を遂げたいというだけだったことは明らかだ、と。原文原文

原文『維新前後の政争と小栗上野 続』第2章 NDL コマ 40

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奥羽列藩(各地の大名家)の士がこれを読んで眉を上げ、狂わんばかりに勇み立ったのは偶然ではない、と石川は書く。原文
蜷川はその石川の感慨ごと借りて、「今日の日本人としては、自由に其の當否曲直を批判して然るべきである」と添える。原文原文

三条畷の事件は、この檄文が書かれた翌年に起きた。原文
檄文が「前後相反」と呼んだ光景が、京都の路上で一つの首として形をとった、と考えることもできる。原文原文

蜷川はこの章の別の箇所で、幕府とは「御委任厚かりし政府」であったと書いている。原文
慶応三年(1867年)十月十五日の御沙汰書にある言葉で、朝廷から政治を厚く委任されていた政府、という意味である。原文
その正当な政府を倒すために外交問題を政争に使い、天皇の心を悩ませ、人民を苦しめたことが、日本人の行為として賞揚されうるのか。原文
「今の日本人は正判を下すを要する」と蜷川は求める。原文原文

昨日まで攘夷を叫び、今日は外国公使に首を捧げる。原文
斉昭は「攘夷は私の株」と笑い、三条は「今これを公然といふことは出來ぬ」と部下を長崎へ送った。原文
そのあいだで、井田直堅と三枝蓊だけが、口と腹を一致させていたのかもしれない。
一致させた者の首が晒され、一致させなかった者が政権を握った。原文
蜷川が「今日の日本人」に求めた正判とは、この一枚の絵をどう見るかということではなかっただろうか。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本蜷川新 著『維新前後の政争と小栗上野 続』日本書院出版部、1931年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1179005
日付・人名本文の日付 4 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 6 名は、元本との逐語一致で確かめています。この記事の年代は『維新史料綱要』の巻の範囲外です。

本記事は『維新前後の政争と小栗上野 続』の記述に基づく読み物です。日付はその年の暦と、人名は元本の記述と照合しています。蜷川新の著書は1928〜31年のもので、幕臣側の立場から書かれています。現在の研究とは異なる場合があります。

人物パークス大原重徳徳川斉昭松平慶永年1869明治