-
幕末・維新
井伊側の色目鏡 ―― 安政五年十一月、水府事情探聞書と魔手が水戸に及ぶまで
安政五年(1858年)十一月。一綴りの風聞書が、井伊直弼の側に置かれていた。表題は「水府事情探聞書」。 -
幕末・維新
幕を取れ、とペリーは言った ―― 嘉永七年二月十日、横浜応接所の一日
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。外からは中が見えない。 -
幕末・維新
埋木舎の人が待っていた ―― 安政五年四月、堀田正睦の帰府と二つの難題
そこへ一橋派の旗頭松平慶永の使者が追ってくる。慶永は堀田の入府を待ちかね、わざわざ使いを立てて迎えたのだ、と蘇峰は記す。 -
幕末・維新
箱根を開けて閉じる ―― 蜷川新が伝える小栗上野介の作戦と、その後の六十年
慶応四年(1868年)、上野の彰義隊との戦が済んだあとのことである。 -
幕末・維新
三百年の屋敷を一札で ―― 慶応四年七月十六日、旗本屋敷の没収と江戸人
慶応四年(1868年)七月十六日。江戸城が明け渡されて三か月あまり。新政庁は、江戸にある旧旗本以下の屋敷を没収するという命令を発した。蜷川新はその文面を、この章にそのまま掲げている。 -
幕末・維新
天地人三巻の一夜 ―― 万延元年、渡米前の小栗忠順が藤川整斎の皆伝を得た
万延元年(1860年)正月。江戸下谷、一軒の隠宅の門を、夜半に叩く者があった。客は馬を飛ばして来た目付の小栗豊後守忠順である。 -
幕末・維新
喉を貫いた一発 ―― 慶応四年三月十五日、川路聖謨の自害を蜷川新はどう記したか
慶応四年(1868年)三月十五日の夜。江戸番町の屋敷で、一人の老人が起き上がった。半身不随の身である。沐浴し、礼服を着け、家人を退けた。遺書を書き、左手に兼貞の刀を取る。 -
史料解説
墓の木は長じて ―― 昭和三年十二月、小栗上野介をめぐる六篇の反響
昭和三年(1928年)十二月十二日、大阪毎日新聞の紙上。史家の花見朔己が、一冊の新刊を論じている。書名は『維新前後の政争と小栗上野の死』。著者は法学博士の蜷川新。 -
幕末・維新
空谷の跫音 ―― 嘉永六年、諸大名の対米意見書と高島喜平の開国論
嘉永六年(1853年)十月。高島喜平。かつて四郎太夫秋帆と名乗り、西洋砲術を日本に伝えた人物である。 -
幕末・維新
和の一字は封じて ―― 嘉永六年七月、徳川斉昭という切り札
嘉永六年(1853年)七月三日、水戸邸へ一通の達しが下った。海岸防禦筋につき用があるので、しばらくのあいだ隔日ほど登城されたい。隠居の身であるから表通りには及ばない、平川口から入り、風呂屋口から御控所へ通られよ。老中阿部… -
幕末・維新
烏川の河原、二刀 ―― 小栗忠順の死を蜷川新はどう告発したか
慶應四年(1868年)四月一日。上州権田村、榛名山麓の東善寺。高崎、安中、小幡の三藩の兵、およそ八百人が山腹の寺に迫った。彼らが求めたのは、寺に暮らす一人の旧幕臣との面談だった。小栗上野介忠順。前の勘定奉行。四十二歳。
1
