五年も十年もぶらかす ―― 嘉永六年六月、駒込邸で徳川斉昭に告げられた幕府の本音

あらまし

嘉永6年(1853年)6月、徳川斉昭は駒込邸の馬場で、甲冑姿の八郎麻呂の乗馬を見物していました。そこへ、老中阿部正弘からの内密の書付が届きます。自分が出向く代わりに2人を差し向けるので、意見を聞いて考えを隠さず示してほしい、という依頼でした。米艦が浦賀を去って2日後のことで、米側は返答を受け取りに再び来ると告げて去っていました。

やって来たのは川路と筒井でした。役人たちの議論はまちまち。幕府も大名も備えが手薄なので、オランダに渡している品を半分割いてアメリカに交易を許してはどうか、と2人は述べます。斉昭は、場所はどこかと問い返し、交易を許せば要求が重なり結局は戦になると反論しました。川路と筒井の考えはそのまま阿部の考えだ、と蘇峰は断じています。

ここで2人は幕府の本音を明かします。5年でも10年でも、願いを聞くとも断るとも言わずに引き延ばし、その間に備えを固めたい、というのです。蘇峰はこの考えを幕末の大きな誤りと呼び、白黒をあいまいにする姿勢が幕府の致命的な病だったと見ています。斉昭は引き延ばしそのものには異を唱えず、ただその状態では安心できないと答えました。先祖代々の固い禁制という一線と、当座しのぎの実務。

相談が済むと、斉昭は菓子と薄茶、吸物を出し、常々帯びていた刀を2人に贈ります。川路に大刀、筒井に小刀。腰の物を渡すのは、説得された側というより迎え入れた側の身振りではないか、と蘇峰は記しています。

川路がのちに斉昭の重臣藤田東湖へ送った書状には、内情が打ち明けられていました。外国と戦えば、勝ち続けても1年と持ちこたえられない。だから苦しみに耐え、10年の末に国力を取り戻して外国を追い払い、天皇の家を尊ぶ立場を示したい、と阿部から常に言われている、というのです。今回おだやかに取り計らうのはやむを得ない、と川路は書きました。

将軍徳川家慶が世を去り、幕府は喪を伏せていました。松平慶永が阿部に意見書を出して斉昭を推し、阿部は即座に同意の返書を与えます。阿部が駒込邸を訪れて出勤を頼み、斉昭は再三辞退したのち承知し、幕政への参加が内定しました。6月24日、阿部は役人たちに再来時の応対を前もって話し合うよう命じます。蘇峰は、これを筋道を心得た仕方と認めつつ、責任を他人に負わせる手段とも見え、その期待はほぼ完全に裏切られたと結んでいます。

浦賀からの帰帆直後に幕府が抱えた迷いを、斉昭自身の手記、川路が藤田東湖へ送った書状、松平慶永の意見書と阿部正弘の返書、そして蘇峰の評からたどれます。

目次

阿部正弘の密書と二人の来訪

徳川斉昭とくがわなりあきは、甲冑をつけた八郎麻呂が杉馬場で馬に乗るのを見物していた。原文
七つ半、午後五時頃である。原文
知らせは馬場まで届いた。原文
同時に、老中(幕府の重臣)阿部正弘あべまさひろからの状箱(公式の手紙を入れる箱)も届いた。原文
自分が出向く代わりに二人を差し出す、という内密の書付(文書)である。原文
「兩人存意も得と御尋、高慮之程も、無御腹藏被仰示可被成下候」原文
二人の意見もよく聞き、あなたのお考えも隠さず示してほしい、という意味だ。原文
米艦が浦賀を去ったのは、二日前の六月十二日だった。原文
一息はついた。原文
だが彼らは、返答を受け取りに再び来ると宣言していた。原文
その時はもっと大きな艦隊で、浦賀よりさらに江戸に近い地点に碇泊する、と。原文
内海の測量までしていった。原文
阿部が真っ先に取りにかかったのは、斉昭の了解だった。原文
前日の六月十三日、阿部は「積年御苦心之明謀奇策、無御腹藏被仰下度」と書き送っている。原文
長年考えてこられた策を包み隠さず教えてほしい、という依頼である。原文
斉昭は同夜、「愚者之一得と申も有之候へば」思いついた箇条を書いて差し上げよう、と答えた。原文
その翌日に、二人がやって来たのである。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 136

それには內密申上として、退出から川路、筒井兩人を差出す旨を告げ、更らに、差懸り差出し御不都合之義も可被爲在哉と存候へ共、何分品々心配之事共有之候間、小生罷出候代りに、兩人差出申候、兩人存意も得と御尋、高慮之程も、無御腹藏被仰示可被成下候

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蘭人へ被遣候品を半分

斉昭は二人を大奥まで呼び入れ、話を聞いた。原文
その手記が残る。原文原文

役人たちの議論はまちまちで定まらない。原文
だが詰まるところ、幕府も諸大名も備えが手薄で、二百余年の太平に武は衰えている。原文
なまじ打ち払って負ければ国体を汚す。原文
だから「蘭人へ被遣候品を半分分けて、交易御濟せ可然哉」。原文
オランダに渡している品を半分割いて、アメリカに交易を許してはどうか、というのである。原文原文

斉昭は問い返した。原文
どこの地で済ませるのか。
まだそこは評議していない、と二人は言う。原文原文

斉昭の反論は具体的だ。原文
交易を許せば、その尾についてまた持ち込むのは疑いない。原文
オランダへの品も昔より減り、銅などは半分になっていると聞く。原文
その半分をさらにアメリカへ渡せばオランダも困る。原文
アメリカも初めは承知するかもしれないが、遠国からわざわざ来て割に合わなければ、また何のかのと言い出す。
長崎で済ませても出入りを作って江戸まで来るようになり、ついには戦争になる。原文
そうなれば今より難しい。
何にしても「祖宗の御嚴禁故、交易御濟せは不宜候」。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 142

獨り林式部少輔體は之を不可として曰く、水戶老侯は甞て嫌疑を以て退隱を命ぜられたるほどなるに、今さら之を延いて大議に參與せしむるは、事體其の當を得たるものに非ずと

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川路と筒井の意見は、すなわち阿部の意見だ、と蘇峰は断じる。原文
かつてオランダ人が忠告した通りのことを、いま実行しようとしたのだろう、とも。原文
それに対して斉昭は、祖宗の厳禁の一点張りで反対した。原文原文

五年も十年もぶらかす

二人はここで、幕府の腹の底を見せる。原文原文

備えさえ手厚ければ心強いが、いかにも手薄だ。原文
だから俗に言う「ぶらかす」ようにしたい。原文
「五年も十年も願書を濟せるともなく、斷ともなくいたし」。原文
五年でも十年でも、願いを聞くとも断るとも言わずに引き延ばす。原文
その間に手当を厳重にして、そのうえで断ればよい。原文原文

蘇峰はこの「五年も十年もぶらかす」という了見を、徳川幕府末期の「一大失策」と呼ぶ。原文
黒白を不鮮明にし、曖昧模稜、姑息苟且。原文
その場凌ぎの口上で一時を瞞過しようとしたことが、幕府の「致命的病因」であったと蘇峰は見る。原文原文

意外なのは斉昭の応じ方だ。原文
五年も十年も間違いなくぶらかせるなら、国内に騒ぎもなく人も傷つかず、その間に手当が整うなら、それはそれでよい。原文
ただ自分は「左樣ぶらかされ候處、何共安心不致」。原文
そうやってぶらかされている状態では、どうにも安心できない、と。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 138

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結論は手記にこうある。原文
備えが手厚くなるまでぶらかすことに「しかと御見留」があるなら、異存はない。原文
異船が来れば大騒ぎし、帰れば備えを忘れる、ということさえなければ、ぶらかすのも時に応じた計策だ。原文
けれども少しでも交易を許すことは祖宗の厳禁であるから、自分に相談されても宜しいとは申し上げない。原文原文

要するに斉昭も「ぶらかす」ことには別段異議がなかったようだ、と蘇峰は読む。原文
ただ、その方便の一つとしてオランダ貿易の若干をアメリカに分けることには絶対に反対した。原文
祖宗の厳禁という一線と、当座凌ぎという実務。原文
斉昭の中で二つは、この時点では矛盾なく同居していたのかもしれない。原文

鍔に刻んだ紅葉と柳

相談が済むと、斉昭は二人に菓子と薄茶、ちょっとした吸物を出した。原文
そして自作の拵えを付けた、常々帯びている大小を与えた。原文
川路に大刀、筒井に小刀。原文原文

大刀の鍔には自詠の歌。「立田川錦にまがふ紅葉も、散らずばいかで人の見る可き」。原文
脇差の鍔には西行の「道のべに」の柳蔭の歌。原文
これも自筆で、鍔は角鍔だった。原文原文

川路と筒井の来訪は、斉昭にも満足であっただろう、と蘇峰は記す。原文
腰の物を人に渡す。
それは説得された者の身振りというより、説得しに来た者を迎え入れた側の身振りではないだろうか。原文

一年ともちこらへ候義は

川路がのちに斉昭の重臣藤田東湖ふじたとうこへ与えた書状に、この日の内情が打ち明けられている。原文
斉昭が七月三日以来隔日に登城(江戸城に出仕すること)するようになると、阿部から幕府の「御勝手御入費之事」、財政の中身を、秘中の秘として内々に伺うことになるだろう。原文
その書面類を見れば、これはと驚かれ、一体の事情もすぐ承知されるはずだ。原文原文

そして肝心の一文。原文
「外國と戰爭いたし、縱令御勝利計にても、一年ともちこらへ候義は、出來申間敷」原文
外国と戦争して、たとえ勝ち続けたとしても、一年と持ちこたえることはできない。原文
だから臥薪嘗胆、上下一致して、十年の末には国力を回復し、武威を立て、「攘夷(外国を追い払うこと)狄、尊王室」という征夷府の職掌を明らかに立てたい。原文
阿部からいつも厳しくそう言われている、と川路は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 140

右に付當時天下の矚目、英明老練、一に駒邸老君に止り候事に候得者、此時にあたり、此人をして西城公の御羽翼に被充候はゞ、(原 註やむことなくんば矯旨歟)列侯は不及申、士民所嚮を得、猶更安堵可致は必定と奉存候

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外から見るのと違い、奥深く内輪の話を知れば、容易に戦争などできないことがわかる。原文
今度アメリカを穏やかに取り計らうという趣意は、まったくやむを得ない。原文原文

これが幕府の本音である、と蘇峰は書く。原文
この意味をもって阿部は、川路と筒井を駒込邸へ遣わしたのだった。原文原文

斉昭の幕政参与内定

将軍家慶が世を去り、幕府は喪を秘した。原文
家慶は彼理来航のために発病したとは言えないが、少なくとも病勢を進めた、と蘇峰は見る。原文
父家斉の驕奢の悪果を引き受けねばならなかった、平凡で温良な「中主」であった。原文
その死が幕府の強みを加えるはずもなかった。原文
相続者の家定いえさだは、父に比してさらに庸劣であった、と蘇峰は評する。原文
越前福井藩主松平慶永まつだいらよしながが阿部に書を送り、斉昭を推薦した。原文
将軍の病は尋常でなく、外冦の取沙汰も強い今、万一のことがあれば世は動揺する。原文
「當時天下の矚目、英明老練、一に駒邸老君に止り候」。原文
いま天下が注目する英明老練の人は、駒込邸の老君ただ一人だ、と。原文
この人を西城公、すなわち家定の羽翼に充てれば、列侯も士民も安堵するに違いない。原文
「死罪頓首」で結ばれた、忌諱に触れることを承知の建白(意見書の提出)である。原文
慶永は田安家から越前家を継いだ人で、その養女は阿部の夫人であり、当時斉昭に殆ど心酔していたと蘇峰は書く。原文
阿部は即刻返書を与えた。原文
「小生も過日中より愚考仕居候事共も有之、誠に符合大悅の至」。原文
自分も先日から考えていたことがあり、まったく符合して大いに悦ばしい、と。原文
阿部が斉昭を訪れたのは、八つ過ぎである。原文
斉昭の手記によれば、将軍の薨去と新政の折柄、異国船の一事は天下の安危にかかわる一大事で、右大将家定も老中も日夜心配しているが、相談相手になる人が他にいない。原文
是非とも出勤してほしい、という依頼だった。原文
斉昭は再三辞退したが、家定も深く心配し同列一同の願いでもあると言われ、承知した。原文
色々対談したのち、斉昭は阿部に「さとう水二三盃」を呑ませて帰した。原文
この往訪で斉昭の幕政参与は内定したと蘇峰は記す。原文
蘇峰が引く水戸藩史料は、そこまでの道筋を別の角度から伝えている。原文
有司はみな賛成したが、式部少輔の林韑だけが反対した。原文
かつて嫌疑で退隠を命じられた人を、いま大議に参与させるのは事体を得ない、と。原文
大学頭の林健も同意見だった。原文
閣老の中にも、姑息の平和を望んで水戸の宿論を忌み、阿部の措置を非とする者があった。原文
阿部は躊躇し、一時は職を退こうとまでした。原文
家臣がこれを苦諫した。原文
今退けば難を避けて安に就くの嫌があり、廟議はいよいよ姑息不振に帰する。原文
断然、水戸老侯を推して防海の大議に当たらせよ、と。原文
阿部は退官の志を改め、再び斉昭を推戴する意を決したという。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 141

對談の大意は、內實將軍家薨御、新政にも相成候折柄、異國船の一事、實に天下の安危にかゝはり候一大事の御時にて、右大將樣(家定)にも深く御心配、老中始も日夜心配致候處外に相談相手に相成候人も之なく候へば

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阿部の諮問と蘇峰の批判

阿部は諮問にも手を着けた。原文
六月二十四日、寺社奉行(寺社を治める役)勘定(財政係)奉行・海防掛(海防担当役)・大小目付(監察役)へ申達した。原文
返答を受け取りに来た時の応対、深く内海に乗り入れた時の処置、他の港へ来た時の挨拶方を、あらかじめ評議しておけ、と。原文
属僚への諮問だから体を得ている、と蘇峰は言う。原文
諮問には、たとえ忌諱に触れることでもかまわない、各々の心底を残さず申し聞かせよ、という言葉もあった。原文
蘇峰の評価は二面ある。原文
一面では、国家の大事を国論に諮ったものであり、政治家の筋道をよく弁えた仕方だ。原文
他面では、自らの責任で裁断する勇気と責任心を欠き、難題を他人の肩に打ち掛けた、「極めて臆病に、且つ極めて狡獪なる手段」とも見られる。原文
攘夷が行えないことは百も承知でありながら、なぜ公然と言わなかったのか。原文
米艦の目的が戦争ではなく和親であり、武力は日本を相談に引き出すための「芝居」に過ぎなかったことを、なぜ看取しなかったのか。原文
所信を公言しなかったのは臆病、真相を見なかったのは不見識。原文
その譏りは阿部を首として当時の執政者の免れないところだ、と蘇峰は書く。原文
そして阿部の底意を、蘇峰はこう推し量る。原文
諮問の返答を以て天下に臨めば、物論も生ぜず、平易に難題を解決できるだろうと期待したのだろう、と。原文
「一代の政治家」ではあったが、「其の手練は餘りに多きに失し、其の勇氣は餘りに少きに失した」。原文
その期待は殆ど全く裏切られた、と蘇峰は章を閉じる。原文原文

原文『近世日本国民史 彼理来航及其当時』第9章 NDL コマ 144

此れは一面から云へば、國家の大事を、國論に諮つたものとして、最も政治家の筋道を能く辨へた仕方の樣でもある。併し他面から見れば、此の難局に對して、當局者が、自家の責任もて國の大事を裁斷するの勇氣と責任心とを缺き、其の難題を他の肩上に打ち掛けたる、極めて臆病に、且つ極めて狡獪なる手段とも見られないこともない

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この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665
日付・人名本文に日付が 4 件ありますが、暦との突き合わせはできていません。いずれも本文に和暦の年が書かれておらず、どの年の暦に当てるかを決められません。本文に出る人物 6 名のうち 3 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物徳川家定徳川斉昭松平慶永藤田東湖阿部正弘1853嘉永