勅諚回達の二つの案文 ―― 安政六年六月、徳川斉昭が書いて出さなかった手紙

あらまし

謹慎中の水戸の徳川斉昭が、家臣の前に2通の手紙の下書きを置いた。2通は中身が同じで、違うのは言葉の細かさと語気の強さだけである。

第1案は、井伊直弼と間部詮勝を放っておけば徳川家のためにならない、という筋立てである。味方する者は徳川家の敵であり、それはそのまま朝廷の敵だとも書く。討ち取るべきだとし、援軍を求めて人を出すとまで書き込んだ。前の年8月の天皇の命令を幕府が押さえ、放っておいた水戸にも責めがあると徳富蘇峰は記す。

老中へも、なぜ見ているだけなのかと矛先を向け、2人を早く退けよと迫った。斉昭は、こう送れば10のうち8か9は手紙を回すまでもなく2人は退くと書き添える。退いたら家老を1人、礼として京へ上らせる段取りまで描いていた。蘇峰は、都合がよすぎる見通しで、井伊は一度決めたら動かない硬い男だったと評する。

出さなかった理由は、時が来ていなかったから。条約はすでに命じられ、いま回しても大名は動かず、後から証文を出すようなもの。大老の威の下では老中も水戸を重んじないという見方である。6月19日付の豊田彦次郎の意見書は、井伊という人物そのものを警戒する。外国の勢いが緩めば何を企むか分からないとして、大名を結び合わせるべきだと説いた。

側用人の久木直次郎は、機会が来たら幕府へ出す文案を徳川慶篤の名で用意する。ただし、これも待つという条件つき。斉昭も話せば広まると考え、高橋多一郎と金子孫二郎を漏らしやすいと名指しした。その高橋と金子は、別のところで動いていた。樺山三円の日誌には、水戸の人から井伊を討つ策が来月半ばと決まったと聞いた朝が記されている。

蘇峰は、2人が薩摩の有志と直接の行動を話し合ったと見る。8月27日、前家老の安島帯刀は切腹、茅根伊予之介と鵜飼吉左衛門は死罪、その子幸吉は首をさらされた。斉昭は水戸での永久の謹慎、子の徳川慶喜は隠居を命じられ、斉昭は9月1日に江戸を発つ。若年寄の安藤信睦の干渉で八幡の者たちは移され、幕府は場所を変えただけだと厳しく達した。そして手紙は、誰にも出されなかった。

この記事からは、出されなかった2通の下書きから水戸の処分までが、豊田彦次郎の意見書と樺山三円の日誌、そして蘇峰の評からたどれる。

目次

徳川斉昭の二通の案文

安政六年(1859年)六月中旬、駒込の水戸屋敷。原文
謹慎(外出や交際を禁じる罰)中の徳川斉昭とくがわなりあきが、二通の案文を家臣の前に置いた。原文
示した相手は、当時江戸にいた儒臣の青山量太郎(延光)と豊田彦次郎(充)。原文
そこに側用人(主君のそば近くに仕え、老中との取り次ぎをする役)の久木直次郎と、奥右筆(文書を書く役)頭取の原田八兵衛が加わった、と徳富蘇峰は記す。原文原文

二通は趣旨が同じで、違うのは文句の詳しさと、語気の強さだけだった。原文
第一案の意気込みは、たとえばこう書かれている。原文原文

「井伊、間部の虐徒、其儘被差置候はゞ、德川家之御不爲」。原文
井伊直弼いいなおすけと間部詮勝まなべあきかつをこのまま放置すれば徳川家のためにならない、という意味である。原文
そのうえで「虐徒ニ荷擔致候者は、德川家之御敵ニて、德川家の御敵は、則朝敵ニ候」と続く。原文
一味に加担する者は徳川家の敵であり、徳川家の敵はすなわち朝廷の敵だ、というわけだ。原文
だから「誅罰可仕候」、討ち果たすべきだ、と。原文
そして援兵を願い遣わす、とまで書き込んでいる。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 52

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「十が八九は囘達迄も無之」

前年八月に水戸へ勅書が下された。原文
それを列藩(各地の大名家)へ回達せよという朝旨があったのに、幕府が抑留した。原文
朝廷が水戸を信用して勅諚を下賜したのに、それを幕府が押さえた不都合はもちろんのこと、そのまま放置している水戸も責任を免れない、と蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 51

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第二案は、その経緯を並べたうえで、松平頼胤が水戸表の奸人と心を合わせたことを挙げ、井伊直弼と間部詮勝が大老・老中の身でありながら、将軍が幼年のときにこそ厚く心を用いるべきなのに、そうしていないと責める。原文
言語同断である、と。原文原文

矛先は老中(幕府の重臣)にも向く。原文
東照宮が三家・御家門を立て置いたのは幕府へ異見を申し上げるためなのに、老中はなぜ傍観しているのか。原文
早々に井伊と間部を退けよ。原文原文

斉昭はこの案文に附記した。原文
「右之通申遣候はゞ、十が八九は囘達迄も無之、井伊、間部退候半」。原文
こう申し送れば十中八九は回達するまでもなく井伊と間部は退くだろう、という見通しである。原文
退いたらすぐ家老(藩の重臣)一人を礼として上京させ、伝奏(取り次ぎ役)へ口達させる、とまで段取りを描いた。原文原文

蘇峰は、これは斉昭にとっては都合がよいが、世の中はそれほど都合よくは運ばない、と断じる。原文
井伊はどんな欠点の持ち主にせよ、一たび決すれば容易に動く男ではない。原文
彼もまた彼の流儀における一個の硬骨漢だった、と蘇峰は評している。原文原文

井伊直弼への警戒と機会待ち

案文は案文のまま残った。原文
一言でいえば「時非なるが爲め」であったろう、と蘇峰は言う。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 53

水戶齊昭の勅諚囘逹に關する意見は、その儘案文として殘るのみであつた

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理由はこう記されている。原文
条約はもう仰せ出された、いま回達しても諸侯(大名たち)は応じない、機会に後れ、「證文之出し後れ」のようなものだ、と。原文
朝廷のためにもならぬ、と述べる。原文原文

大老(幕府の最高職)の権勢が甚だしいうちは、老中へ書を遣わしても、大老の威に押されている老中が水戸のほうを重んじるはずもない、と。原文
これは誰が考えてもその通りだ、と蘇峰は付け加える。原文

六月十九日付の豊田彦次郎の意見書は、井伊直弼という人物そのものを警戒する。原文
井伊の姦計は長く続いてきたもので、「頑惡至極之性質」、何が何でも自分の見込みを押し通す性分だろう、と。原文
始終暴発するのではないかと安心できない、というのである。
外夷が跋扈しているうちは兇逆も逞しくできまいが、その禍いが少し緩めば、群兇がどんな姦計を案じ出すか計り知れない。原文
だから諸侯を合従させ、「神出鬼沒之御妙算」——神出鬼没の計を巡らすべきだ、と豊田は説いた。原文原文

久木直次郎はもっと実務的で、機会が来たら回達の前に幕府へ申し遣わす文案を、当主の徳川慶篤とくがわよしあつの名で作っている。原文原文

ただしこの案文も「機会を竢つて」渡すという条件つきだった。原文
その機会がいつ来るのか。原文
少なくとも今ではないことだけは、はっきりしている、と蘇峰は書く。原文

斉昭の苦心と二人の動き

斉昭自身も同じ考えだった。原文
しかも案文のことは家中にも広く知らせるな、と言う。原文
言えばぱっと広がってしまう、というのだ。原文

そして名指しがある。原文
高橋多一郎たかはしたいちろうと金子孫二郎は漏らしやすく、漏れては大変だ、というわけである。原文
家老の大場へ申し聞かせないのは、家中が両派に分かれないためだ、とも書いている。原文
斉昭の苦心もまた諒とすべきものがあった、と蘇峰は記す。原文原文

だが、その高橋多一郎と金子孫二郎が、別のところで動いていた。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 67

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鮫洲村田屋の別杯

薩摩の有志の一人、樺山三円の日誌が、その機微をわずかに語っている、と蘇峰は言う。原文原文

日誌によれば、樺山は江戸で水戸の人々と会っていた。原文
その後、三田通りの茶屋でも水戸の人に会い、初めての者もいた、水戸藩切迫の事を聞いた、と。原文原文

斉昭が書付(文書)で井伊を除こうとしたのに対し、その臣下の金子と高橋は直接行動で除くほかないとして、薩摩の有志と協議した——蘇峰はそう推している。原文
どちらが言い出しどちらが賛成したかは明白でないが、水薩の有志の会見がこの一点で一致したことだけは疑いを容れない、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 57

されば水戶齊昭は、書付にて、井伊大老を除かんとしたるも、其の臣下たる金子、高橋は、直接行動にて除くの外なしとて、薩摩の有志と協議したるものであらう

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樺山三円は在府勤務の期を終え、交代で帰国する日を迎えた。原文
その朝、堀仲左衛門がやって来て告げる。原文
たった今、水戸の人が来て、「愈井伊を打之策、來月中旬と決候」。原文原文

日暮れに江戸を発ち、鮫洲の村田屋で別杯を酌んで品川に泊まった。原文
「切迫之事ニ互ニ別れに情も多し」と樺山は書いている。原文
差し迫った事を控えての別れは情も深い、という意味である。原文
彼らが酒楼で別杯を酌んだ気持ちがありありと思いやられる、と蘇峰は書いた。原文原文

八月十三日夜には、品川宿の旅店に堀仲左衛門と、佐竹家中と称する「三好貫」ら四人が泊まっている。原文
この三好貫は、水戸藩士関鉄之介せきてつのすけの変名だ、と蘇峰は明かす。原文
何を協議したかは、詮議するだけ野暮だ、と。原文原文

八幡から小金へ、小金から宍倉へ

安政六年八月は水戸にとって大きな厄年だった、と蘇峰は書く。原文
八月二十七日、前家老の安島帯刀あじまたてわきは切腹、家臣の茅根伊予之介と鵜飼吉左衛門は死罪、その子幸吉は梟首。原文
同時に徳川斉昭は水戸表へ永蟄居(一生のあいだ家にこもる罰)、子の徳川慶喜とくがわよしのぶは隠居(家督を譲って退いた人)を命じられた。原文原文

斉昭は九月一日に駒込邸を発った。原文
当日は風雨がわびしく、秋気は荒涼としていた。原文
「晴れゆきて又めぐりくる秋もあらば、再び愛む武蔵野の月」と口ずさんで去り、九月四日に水戸へ着いた。原文原文

処分の翌日、八月二十八日には、若年寄(老中の補佐役)の安藤信睦あんどうのぶゆきが水戸藩政に干渉するよう命じられている。原文
九月八日、安藤は小石川の水戸邸に来て、まず八幡に屯する者たちの退散を申し渡した。原文
金子孫二郎、高橋多一郎、野村彝之介のむらいのすけらが八幡に出張して引き払いに努めたが、彼らは水戸へ帰さず、小金駅へ移した。原文
左のものを右へ移しただけにすぎなかった、と蘇峰は書く。原文

九月二十一日、幕府は水戸邸の側用人を召して厳達する。原文
「只々場所を替候而已にて、更に無詮事に有之」。原文
場所を変えただけで何の意味もない、というのである。原文
三日以内に必ず引き払え、遅れれば速やかに召し捕る、と。原文
水戸士民も蝦夷人の叛乱と同様に見なされては浮かぶ瀬があるまい、と蘇峰は書く。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 64

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九月二十四日、水戸家老は今暁残らず引き払わせ国元へ下したと上申(上に申し出ること)した。原文
九月晦日、幕府は徳川慶篤の差控を解き、登城(江戸城に出仕すること)を許した。原文原文

だが金子孫二郎は、小金に残った水戸勢の一半を宍倉へ移していた。原文
常陸国新治郡、霞ヶ浦に沿い、舟の便があって緩急に応じられる土地である。原文原文

片町の茶亭

やがて水薩の志士(国事に奔走した武士)は、関鉄之介と高崎猪太郎たかさきいたろうを上京させ、朝廷に内奏して勅許を得たうえで事を行おうと企てた。原文
これは主として高橋多一郎の意見から出たものだ、と蘇峰は書く。原文
江戸片町の茶亭に集まった席で、高橋は言った。原文
今回の一挙は未曾有の大事件だ、正々堂々の義に依らねばならぬ、まず斬奸挙義の主旨を京都へ上奏し内勅を請い、そののちに実行すべきだ、と。原文原文

原文『近世日本国民史 第43 櫻田事変』第4章 NDL コマ 69

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斉昭の二通の案文は、その間も駒込邸に置かれたままだった。原文
その手紙は誰にも出されなかった。原文原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第43 櫻田事変』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228574
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻3』PID 1041909
日付・人名本文の日付 9 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 11 名のうち 9 名が『維新史料綱要 巻3』にも現れます。

本記事は『近世日本国民史 第43 櫻田事変』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

人物井伊直弼安島帯刀安藤信睦徳川慶喜徳川慶篤徳川斉昭野村彝之介関鉄之介高崎猪太郎高橋多一郎年1859安政