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幕末・維新
井伊の威嚇政策-安政大獄の責任者井伊の立場屏息し ―― 嘉永六年三月から明治二年三月まで
昭和六年(1931年)二月二十一日、大森山王草堂。修史の行程は規則正しく進んでいる、とそこに記す。 -
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淀の民家に戸を叩く者 ―― 安政六年正月、三条実万の落飾願と主上周辺一掃策
安政六年(1859年)正月九日の夜十時ごろ。淀の民家の戸を叩く者がいた。主は前内大臣の三条実万。前年十一月十一日からこの家に身を隠している。入って来たのは家臣の入江駿河守。「依有急事所来」、急な用があって来た、と告げた。 -
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鎖国に引き戻す、という空手形 ―― 安政五年十二月三十日、間部詮勝の参内と宣達書
安政五年十二月三十日(1859年)。十月二十四日の最初の参内では、天皇に「御小恙」があるという理由で、ただ天盃を賜っただけだった。今回はちがう。 -
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主上の寛典思召 ―― 安政六年二月、四老臣の落飾を止めようとした叡慮と所司代の拒絶
安政六年(1859年)二月二十一日。関東へ掛け合うべし、という趣きの文書である。 -
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井伊側の色目鏡 ―― 安政五年十一月、水府事情探聞書と魔手が水戸に及ぶまで
安政五年(1858年)十一月。一綴りの風聞書が、井伊直弼の側に置かれていた。表題は「水府事情探聞書」。 -
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阿部正弘の辞表 ―― 安政元年四月、頭痛と眩暈の届書
安政元年(1854年)四月十日。老中首座の阿部正弘は、登城しなかった。同列で海防掛でもある牧野忠雅あてに、短い届書を出す。頭が痛み目がまわって難儀だ、押して出ようとしても登城できない、という断りである。用の多い折に何度も… -
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幕を取れ、とペリーは言った ―― 嘉永七年二月十日、横浜応接所の一日
嘉永七年(1854年)二月十日、横浜。岸の会見所は、四方をすっかり幕で囲われていた。外からは中が見えない。 -
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勅諚回達の二つの案文 ―― 安政六年六月、徳川斉昭が書いて出さなかった手紙
謹慎中の徳川斉昭が、二通の案文を家臣の前に置いた。そこに側用人の久木直次郎と、奥右筆頭取の原田八兵衛が加わった、と蘇峰は記す。 -
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御違勅の三字 ―― 安政五年六月、徳川斉昭の建言と井伊直弼の答書
江戸の水戸藩邸で、徳川斉昭が一通の伺書に筆を入れている。その返事である。 -
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埋木舎の人が待っていた ―― 安政五年四月、堀田正睦の帰府と二つの難題
そこへ一橋派の旗頭松平慶永の使者が追ってくる。慶永は堀田の入府を待ちかね、わざわざ使いを立てて迎えたのだ、と蘇峰は記す。 -
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春風の宰相 ―― 阿部正弘と、嘉永五年十一月の予報
嘉永五年(1852年)十一月二日。江戸の薩摩藩邸で、島津斉彬が筆を執った。宛先は鹿児島にいる弟の島津久光。 -
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箱根を開けて閉じる ―― 蜷川新が伝える小栗上野介の作戦と、その後の六十年
慶応四年(1868年)、上野の彰義隊との戦が済んだあとのことである。
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