あらまし
安政5年(1858年)6月、江戸の水戸藩邸で徳川斉昭が幕府への伺い書に筆を入れていました。書き直しには応じたものの、添えた手紙に、今回の件は日本の一大事だと記します。蘇峰は、書き直しを命じたことがかえって幕府の痛い所を突く指摘を招いたと評しています。
6月19日、いわゆる仮の条約が調印されました。幕府はまだ公表していません。6月21日、斉昭は尾張の徳川慶恕へ手紙を送ります。求めたのは条約そのものの拒否ではなく、4つの箇条を止めること。五畿内に近づけない、紀淡より内へ入れない、外交官を置いての直接の交易、切支丹寺の建立。かなわなければ年を延ばし、そのうちに武備を整えるという考えでした。
この段階の斉昭はまだ穏やかな側だった、と蘇峰は評します。ところが天皇の許しを待たずに調印した一点で、その態度は急に硬くなりました。同じ夜、松平慶永にも、書き続けて首が抜けるほど痛むと乱れた字で書き送りました。6月21日付の意見書は井伊掃部頭ほかに宛て、署名は水戸隠士。後の災いは目の前だとして、承知しないなら15年とか20年とか延ばせと述べます。
そして京都に伺わずに済ませれば天皇の命令に背くことになる、と書きます。この3文字が後々まで井伊らの罪の証しになったと蘇峰は記しています。すでに酔っている客に、酒を飲めば大変だと戒めるようなものだ、というのが蘇峰の評です。同じ日、水戸の当主徳川慶篤も、御三家の立場として黙って見過ごせないと意見書を出しました。6月22日は、幕府が日米条約の調印を世に公表した日でもあります。
井伊の答書は前半で斉昭の言い分を一つ一つもっともだと受け、後半は言い訳と反論。蒸気船で遠い所も隣近所のようになったといいます。古い制度のままでは大きな憂いが生じるから仮に条約を結んだ、という説明でした。仮にという言い方はあいまいだ、と蘇峰は指摘します。条約の第14条は安政6年6月5日からの実施を定めています。
取り交わしが済んでいないだけの話だというのです。井伊は京都への使者は急いで決めるつもりだと答えました。一方、水戸一門では直接に責め問おうとする動きが起こります。一橋家の徳川慶喜が強く怒り、父にも意見書を勧めたと中根の『昨夢紀事』は伝えています。言い出したのは慶喜本人だと蘇峰は見ています。
大老以下を退け、幕府のために朝廷へ謝したい。それが主君の考えだと、斉昭の親臣安島弥次郎が密かに告げました。松平慶永を将軍の補佐役に推す約束が安島、平岡、中根の間にあったらしい、と蘇峰は見ています。井伊は6月22日に伊達宗城へ手紙を書き、思いのほか早い調印には自分もあきれたと記しました。堀田正睦と松平忠固が役を解かれ、間部詮勝、松平乗全ら3人が老中に入って陣容が整います。両者は正面からぶつかる場面に迫ったと蘇峰は記し、予告なしの登城の朝はもう目の前でした。
斉昭の意見書と井伊直弼の答書、中根の『昨夢紀事』から、調印前後の数日をたどれます。
六月九日、廟算伺書
安政五年(1858年)六月九日。原文
江戸の水戸藩邸で、徳川斉昭が一通の伺書に筆を入れている。原文
先に差し出した答申書に穏やかでない文句があるとして、幕府から書き直しを命じられた。原文
その返事である。原文原文
書き直しには応じる。
だが添えた書翰(手紙)に、斉昭は「此度之儀は日本御一大事」と記した。原文
このたびの件は日本の一大事だ、という意味である。原文
そして「愚意安じ兼候件々」を「左に認」めて差し出した。原文
自分が安心できない箇条を、以下に書き付けた、というのである。原文原文
書き直しを命じたことが「却て藪蛇」になった、と蘇峰は書く。原文
名は伺書だが、実は「幕府の痛き所に、遠慮なく突き込んだる指摘」にほかならない、というのが蘇峰の評だ。原文
閣老たちはこれを見て、目を見合わせ、一言も発しなかったという。原文原文
その十日後、六月十九日。原文
いわゆる仮条約が調印された。原文
幕府はまだ公表していない。原文
しかし斉昭がこれを聞き知らないはずがない、と蘇峰は記す。原文原文
六月二十一日夜、燈下の乱筆
六月二十一日。原文
斉昭は尾張の徳川慶恕に手紙を送った。原文
街の噂ではロシアとアメリカの両使節から書翰が出たといい、ロシアが謀主でアメリカを先手にし、アメリカはイギリス・フランスを先手にしている。原文
そう斉昭は見ていた。原文原文
この手紙で斉昭が求めているのは、条約そのものの拒否ではない。原文
五畿内に近づけないこと、紀淡より内へ入れないこと、ミニストルを置いての直交易、切支丹寺の建立。原文
この四か条を「是非喰留申度」。原文
どうしても食い止めたい、というのである。
それがかなわなければ年延べにして、そのうちに武備を整える。原文原文
京都側から見れば、この段階の斉昭は「先づ軟派と云ふ可き程度」だった、と蘇峰は評する。原文
条約に制限か年限を付けるだけの意見にすぎない、という見方である。原文
ところが勅許を待たずに調印したという一点で、その態度は「急に硬化」した。原文
京都に伺わず関東限りで取り決めれば、東照宮以来の「天朝御尊崇之御大義」を欠くことになる、と斉昭は書く。原文
朝廷を尊崇してきた代々の大義を、今日になって欠くという意味だ。原文原文
斉昭は調印済みの事実を承知していたはずだ、と蘇峰は見る。原文
幕府が公表していないので、既成の事実を「未然の事実」として書き綴ったのだろう、と。原文
手紙の追伸には「五七日中に御取極に相成候はゞ」とある。原文
薄々知っていたに違いない節がある、と蘇峰は読む。原文
同じ夜、斉昭は松平慶永にも手紙を書いた。原文
「夷狄一條にて、此間中より筆取續け、首も拔候樣痛み申候」。原文
燈火のもと、老いた目で書いた乱筆である。原文原文
「御違勅」の三字
斉昭は六月二十一日付の建言書を幕府当局に提出した。原文
宛名は「井伊掃部頭殿御初」、署名は「水戸隱士」。原文原文
条約中で断るべき箇条が並ぶ。原文
これらは「後患眼前」、後の災いが目の前に見えている、と斉昭は書く。原文
承知しなければ「十五年とか、二十年とか」、人心が落ち着くまで延ばす。原文原文
そして一文。原文
いずれにせよ京都に伺わずに済ませるなら、それは勅に違うことになる、というのである。原文
ここで「御違勅の三字」が出てきた、と蘇峰は記す。原文
これが後世まで井伊らの「罪案」となった。原文原文
而して彼等三人の中には、當時の所謂る正議派中の通り文句の薦賢に就て默契があつたらしい
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開くこの建白(意見書の提出)は、調印済みの事実を知らぬ風に、未然の事として警告を与えている。原文
それは「醉客に向て、萬一飮酒をしては、大變であると戒めたると一般」だという。原文
すでに酔っている客に、万一酒を飲んだら大変だと戒めるようなものだ、という意味である。原文
なぜ京都に伺ってから調印しなかったのかと直截に叱られた方が、聞く側にはかえって辛抱の仕様があったかもしれない、と蘇峰は書く。原文原文
同じ日、水戸の当主徳川慶篤も建議書を出した。原文
「三家之立場、難默止」。原文
御三家(将軍家に近い尾張・紀州・水戸の三家)の立場として黙って見過ごせない、という趣旨である。原文
父子は「御違勅」の断案を下し、幕府当局の当惑は想像するに余りある、と蘇峰は記す。原文原文
そしてこの六月二十二日は、幕府がやむを得ず日米条約に調印した旨を、天下に公表した日でもあった。原文原文
これに対する井伊直弼の答書はこうだ。原文
前半は斉昭の来書をそのまま繰り返し、「一々御尤之御儀に奉存候」と受ける。原文
一つ一つ、もっとものことと存じます、という意味だ。原文原文
後半が言い訳と反論である。原文
蛮夷の形勢は往古と違い、蒸気船が発明されて「天涯も比隣之如き」になった。原文
遠い天の果ても隣近所のようになった、という。原文
古い制度に根を張ったままでは、今より大きな憂患が生じるかもしれない。
だから「假に條約いたし」、仮に条約を結んだ、と。原文原文
この「假に條約いたし」の一句は「頗る曖昧」だ、と蘇峰は指摘する。原文
内容を知らない者は、相談次第で変更できるものと誤解するおそれがある。原文
当局は誤解させることを目的としないまでも、かえって「仕合」としたかもしれない、という見方だ。原文
事実はそう軽くない。原文
条約第十四条には、来る未の年、安政六年六月五日、すなわち1859年7月4日から執行すると定めてある。原文
期限中に批准書の取り替えができなくとも、条約はその期限から執行される。原文
批准交換をしていないだけの理由で「仮」と称しているにすぎない、と蘇峰は書く。原文原文
諸大名の意見書にも、争端を開くべしと言う者はいなかった、と井伊は続ける。原文原文
京都への使者については「急々取極候心得」。原文
急いで取り決めるつもりだ、という。
井伊らの立場としてはこれ以上の申し訳はできまい、と蘇峰は記す。原文
ただ、京都への使者だけは一刻も猶予すべきでなかった、と。原文
催促は斉昭だけでなく、京都方面からもやがて来たからである。原文原文
慶喜の建白運動
書面だけではなかった。原文
直接に当局者を責め問おうという運動が、水戸一門の間に起こった。原文原文
一橋家の徳川慶喜が、勅を犯して仮条約に調印したことを聞き、「殊の外御憤怒」であるという。原文
慶喜は父の斉昭にも建白を勧め、平岡は使いとして斉昭の親臣安島弥次郎のもとへ行った。原文
二十一日か二十二日のうちに、尾張と打ち合わせて建白する思召だという。原文
中根の『昨夢紀事』がこう伝えている。原文原文
発頭人は慶喜その人である、と蘇峰はこの記述から見る。原文
慶喜は「理性の勝ちたる性格」で、老父の脱線ぶりを常に心配していた。原文
安政四年で二十一歳。原文
年に似合わず老成していた、と蘇峰は書く。原文
条約の諮問にも当たり障りのない答申を出している。原文
その慶喜が直接抗議の発頭人とは「意外千萬」だが、事実はその通りらしい、というのが蘇峰の判断だ。原文原文
斉昭はこれまで違勅になるかと憂慮していたが、今日それが顕著になった。原文
大老(幕府の最高職)以下、その事に関わった面々を速やかに「御擯斥」し、幕府のために朝廷に謝したい。原文
関係者を退けたい、という思召だと安島は密かに告げた。原文
平岡も来合わせ、慶喜も同じ思召だと申し合わせた。原文原文
安島も平岡も「同穴の貉」で、中根もそうだろう、と蘇峰は見る。原文
三人には「薦賢」についての黙契があったらしい。原文
松平慶永を将軍の補佐役に推すことである。原文原文
斉昭の慶永宛の手紙は、本文より追伸に本旨があった、と蘇峰は記す。原文
三家・御家門は親しくなければならず、慶永にも尾張と懇意になるよう頼む。原文
「拙老父子」、つまり自分たち父子は明日、大老以下へ連名で出す。原文
慶喜も出すだろう。原文
田安家には慶喜から相談させる。原文
慶永は田安家の出で、当主の徳川慶頼は慶永の弟である。原文原文
「小生もあきれ申候」
弾劾の標的である井伊はどうか。原文
六月二十二日、井伊は宇和島の伊達宗城に手紙を書いた。原文原文
堀田は二十一日の夕方から引き籠もりになった、という。原文
宗城は松平忠固を退けつつ、堀田だけは留任を望んでいたらしい。原文
井伊も当分は堀田の居据わりを望んだが、将軍の上意でやむを得ず同時に退けた、と蘇峰は読む。原文
堀田は外人応接に必要な人物だが、「實病」であれば使えない、と井伊は書く。原文原文
「只管上之御爲方而已心配致し」。原文
ひたすら将軍のためばかりを心配している、という。原文
ここは井伊が本心を訴えたところで、「其心事諒とす可きものがある」と蘇峰は認める。原文
その主のために謀っては忠なるものだ、と。原文
そしてもう一句。原文
「其上案外早々の調印、小生もあきれ申候」。原文
そのうえ案外早い調印で、自分もあきれた、という。原文
これは井伊の本音だろう、と蘇峰は書く。原文
宗城に「貴君之御忠節を力に致」と持ち上げすぎの気味はあるが、と。原文原文
伊達宗紀・宗城父子は、井伊にも斉昭にも松平慶永にも島津斉彬にも善く、「八方無碍」だった。原文
井伊は彼らを「緩和剤」として重宝したのだろう、と蘇峰は察している。原文
しかし井伊の斉昭への敵意は就任以前からで、日を追って熱烈になった。原文
斉昭を「陰謀の本家本元」とみなし、その所作をすべて幕府に不利と決めつけていた、という。原文原文
不時登城の前夜
六月二十三日、堀田正睦と松平忠固が罷免され、間部詮勝、松平乗全ら三人が老中(幕府の重臣)に入った。原文
井伊内閣の陣容がようやく出来た。原文原文
同じ日の午後、中根は斉昭への返書を安島のもとへ持参した。原文
安島は他行中で、茅根伊予之介に渡した。原文
昨日の廟堂の布告に「老寡君、痛憤に堪へられず」。原文
老いた主君は痛憤に堪えられない、と。原文
明日登城(江戸城に出仕すること)して大老以下を責め問い、賢を薦めて幕政を輔翼させることを、尾張と談し合わせた。原文
安島は尾張の親臣田宮弥太郎のもとへ行っている。原文
慶永も誘い合わせようという内議もあった、と。原文原文
賢を薦めるとは、松平慶永を推すことである。原文原文
「御違勅」の三字を書いた男が、今度は城へ向かおうとしている。原文
書面で叱ることと、面前で問い詰めること。原文
斉昭にとってそれは一続きの行為だったのかもしれない。
井伊にとっては「多言」の続きに見えたのではないだろうか。原文
両者は「正面衝突をなす可き場合に迫り來つた」、と蘇峰は記す。原文
燈下の乱筆から三日。原文
不時登城の朝は、もう目の前にある。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223976 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻2』PID 1046669 |
| 日付・人名 | 本文の日付 2 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 15 名のうち 14 名が『維新史料綱要 巻2』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第39 井伊直弼執政時代』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
