嘉永6年(1853年)10月、高島喜平が幕府に意見書を出した。かつて四郎太夫秋帆と名乗り、西洋の大砲の技術を日本に伝えた人である。数万言におよぶ書付(文書)で、貿易を開くべきだと説いた。受け取った江川英龍は嫌がったという。高島は12年間とらえられ、許されてまだ3か月たっていなかった。
幕府は7月1日、それまでのやり方を破った。大名や役人に米国の要求への対策を尋ねたのである。多くは仲良くすることに反対し、来るなら戦うという主張だった。尾張、水戸、越前、長防、肥前の大名らがそうで、代表が徳川斉昭だった。伊達宗城はしばらく通商を許し、軍備を固めてから断るか攻めよと述べた。
島津斉彬の意見書は7月29日付である。海の守りが薄く勝つ見込みがないとし、3年の引き延ばしを説いた。蘇峰はこれを物足りないとし、本音かどうかを問いのまま残す。筑前国主(その国を治める大名)の黒田長溥は、米国にも阿蘭陀と同じ商売を許し、長崎に出島(長崎の人工の島)と商館を築けと述べた。米国の手紙に悪意はなく、断って戦えば日本の側に戦う理由がなくなるとも説いた。
蘇峰の見るところ、大名の意見に本当の開国論は一つもない。人のいない谷に響く足音のようなものが高島喜平の意見書だった。高島は、貿易とは品物を交換して互いに利益を得ることだと説いた。2、3年許せば損得がはっきりし、相手から引き下がると述べた。長崎の町年寄(町の運営を担った有力な町人)だった経験が机の上の議論にしなかった、と蘇峰は見る。
将軍の徳川家慶は6月19日から病み、22日に亡くなった。跡を継いだ徳川家定は30歳だった。8月6日、高島は江川英龍の家来として引き渡された。大きな船の製造も許され、島津斉彬はすぐ15隻を造った。品川の砲台は11か所の計画が6か所で止まった。
この記事からは、幾百の意見書から外に向けた政策は得られなかったことが分かる。ただ一つ高島の書付だけが貿易とは何かを語っていた、と蘇峰は記す。
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嘉永六年十月、本所
嘉永六年(1853年)十月。原文
高島喜平。原文
かつて四郎太夫秋帆と名乗り、西洋砲術(大砲の扱い方)を日本に伝えた人物である。原文原文
書付は数万言に及ぶ建白(意見書の提出)書だった。原文
そして貿易を開くべきことを説く。原文原文
而して苟も我より信義を以て交らば、彼も亦た信義を以て交る可し。決して理不盡に彼より手を出して來るが如きことはある可らず。彼の本意は、交通、貿易にありて、決して別に害心なし。決して掛念するに及ばずとの趣旨である
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く受け取った江川は難色を示した、と蘇峰が引く『徳川三百年史』は伝える。原文
高島は答えた。原文
国が危ういときに自分一人の安全を図るのは、男のすることではない、という意味である。原文原文
この人は、十二年間を幽囚の身で過ごしてきた。原文
赦されてまだ三月とたたない。原文
その老人の書付が、嘉永六年に幕府へ届いた幾百の意見書の中で、どのような位置を占めたのか。原文
そこから話を始めたい。原文
幕府は七月一日、旧例を破って諸大名や有司に米国の要求への対策を諮問した。原文
返ってきた答案に、目新しい説はほとんどなかった、と蘇峰は記す。原文
多数は和親反対、交通拒絶。原文
彼がもし来るならば開戦も辞さない、という論であった。原文原文
尾張、水戸、越前、長防、肥前の国持大名がそうであり、津、桑名、松代、南部、二本松の藩主もそうであった。原文
その代表が徳川斉昭である。原文原文
その中間に、いくつかの変種があった。原文
島津斉彬は、しばらく返答を延ばし、武備が整うのを待って拒絶すべしと言う。原文
伊達宗城は、しばらく通商を許し、武備充実の後に拒絶するか、あるいはこちらから進撃すべしと言う。原文
加賀、仙台、熊本の国主は、寛大に取り扱った上で、武備充実の後に強硬手段を取れと言う。原文原文
しかもその奥平昌服の意見も、蘇峰の見るところ「固より真の開国論ではない」。原文
「外々より交易願出候はゞ、彼より差押候様被仰付」。原文
他の国が貿易を願い出たら米国に押しとどめさせよ、というのである。原文
米国の手を借りて他国との貿易を拒む、そういう理屈であった。原文原文
島津斉彬の延ばし策
海外の形勢に最も通じ、進取改善の業に励んでいると評判のあった島津斉彬。原文
その意見書は七月二十九日の日付を持つ。原文原文
「御打払之儀は、海防御手薄之折柄故、必勝を得候儀無覚束奉存候」。原文
打ち払いは海防が手薄な今、必勝の見込みが立たない、と斉彬は言う。原文
できるだけ年を延ばせ、というのである。原文
延ばす期間は三ヶ年。原文
三年たてば諸国一統の手当が整うのは必定だと斉彬は書く。原文
徳川斉昭以外にはいない、というのである。原文
石炭置場も許すべきでない、と但し書きが付く。原文原文
蘇峰はこの意見に「聊か慊らぬ感がある」と言う。原文
物足りない、というのである。原文
斉彬はこれ以上の意見は通らないと見抜いて、わざと平凡な意見を出したのか。原文
それとも掛値なしの本音であったのか。原文
蘇峰は問いのまま残している。
いずれにせよこの意見が、当時は最も穏当なものとして受け容れられたようだ、と。原文原文
是れ或は當時に於ては、此れ以上の意見は行はれざるを看破して、故らに斯る平凡の意見を開陳したのである乎
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く黒田長溥の異国制異国策
筑前国主黒田長溥は島津重豪の子である。原文
見識が尋常の大名と異なるのは言うまでもない、と蘇峰は書く。原文原文
黒田の上書は数千言に及ぶ。原文
米国に対しては阿蘭陀同様の商売を許し、長崎に出島を築いて商館を建てよ。原文
期限は五年六年。原文
「是則以異国征異国、皇国之兵不損上策に御座候」。原文
これこそ異国をもって異国を制し、日本の兵を損なわない上策だ、というのである。原文原文
阿蘭陀同樣之交易取組方相願候得共、其義は難被爲及御沙汰(通知・命令)、隨而異國交易之義も、專ら於長崎表取扱候御法に候間、彼地え罷越、御國產諸品熟覽致し、右直段出產之多少等も悉く承知可致、且又其國より積渡交易可致產物も、諸品名書出並直段等も逐一申立、凡交易之仕法豫め組合相試み候樣可致候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く米露は信義の国、英仏は表裏の国。原文
黒田はそう断じたが、その根拠はと蘇峰は首をかしげる。原文原文
しかし黒田には、他の大名に見られない一節がある。原文
米国の書翰(手紙)は漂流民の保護と親交を願うもので害心はない。原文
これを拒んで戦えば「彼は有名之軍、日本は無名之軍」になり、万国の聞こえも悪い。原文
戦の名分を考えたこの点を、蘇峰は「当時の日本人にして、此処までも考へ及ぶものは、先づ卓識者と云はねばなるまい」と評する。原文原文
黒田はさらに、諸大名一般に軍艦蒸汽船の製造を許せと言い、日本の商売船も西洋船同様に造り直せと言う。原文
「迚も日本永久鎖国之儀は不相成時節到来」。原文
日本が永久に鎖国を続けることはもうできない時節が来た、と。原文
それでも米露に頼って英仏を制するという一線は越えない。原文
一枚の膜がまだ剥がれていない、というのである。原文原文
高島喜平の貿易論
大名の意見書を総括すれば、純粋の開国論は一つもない。原文
そう蘇峰は言い切る。
「偶ま大名以外に於て空谷の跫音と云ふ可きは、高島喜平の意見書だ」。原文
人気のない谷に響く足音、という比喩である。原文原文
高島の論の骨格は、貿易とは何か、というところから始まる。原文
「此品を以、彼品に易へ、其利潤は互之事にて、敢て一国之利を貪り候と申趣意に無之」。原文
品物を交換して利潤を互いに得るのが貿易であって、一国の利を貪ることではない、と。原文原文
そこから高島は、他の論者が誰も言わなかった議論を立てる。原文
日本は国が小さく、産物も少ない。原文
阿蘭陀が長崎に来続けているのは銅を渡しているからで、銅がなくなれば来なくなる。原文
米国も同じである。原文
試みに両三年、仮に貿易を許してみればよい。原文
「損益之次第も相分、必彼より退候事に相成申候」。原文
損益がはっきりすれば、必ず相手のほうから引き下がる、というのである。原文原文
阿蘭陀方昨今迄無滯入津仕、御用相勤候義も、全く銅御渡に相成候故之義にて自然銅御渡無之時に至り候節は、外に利潤に可相成品一種も無御座候間、決て渡來仕候義無御座候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く一国に許せば各国が皆来る、という懸念に対しても、高島は逆を言う。原文
むしろ喜ぶべきことだ。
多くの国が積み渡せば品物の値が下がり、利潤が薄くなれば彼らは合わない。原文
「商売方之義は、取組方仕法而已に有之候義に御座候間、聊御懸念之筋は無之」。原文
商売は仕組みの問題であって、少しも心配はない、と。原文原文
蘇峰はここで注釈を加える。
高島は貿易を開けば国産が増えていくという一点を忘れている。原文
これは幕府を安心させて開国させるための方便かもしれず、あるいは本気でそう信じていたかもしれない、と。
ただ「有無相通ずるの大義と、交易の盛衰は必竟利潤の多少による原理」を、この人はよく心得ていた。原文
長崎の町年寄であった経歴が、机上の空論にさせなかった、と蘇峰は見る。原文原文
高島はまた、知術で相手を欺くことの不利を説く。原文
「夫は一時之術にて、却て忿怒を相増」。原文
一時しのぎで、むしろ怒りを増すだけだ、と。原文原文
六月二十二日の死、九月十五日の令
意見書が集まる間にも、幕府の周囲では事が動いていた。原文原文
将軍徳川家慶は六月十九日から病み、二十二日に逝った。原文
喪が発せられたのは七月二十二日。原文
享年六十一、将軍在位十七年。原文
「彼理将軍を殺すと云はざるも、其実は之に近かつた」。原文原文
跡を継いだ徳川家定は三十歳。原文
蘇峰は「平凡と云はんよりは、寧ろ暗弱であつた」と評する。原文
鵞鳥を追い回して楽しみとし、豆を煮て近臣に与えた、という『安政紀事』の話を引きつつ、そこまで暗愚であったかは保証の限りでないが「水平以下の人物であつたことは、疑を容れない」と。原文
内憂外患が一時に来ようとする際にこの将軍を戴くことは、有司にも諸大名にも心細い限りであっただろう、と蘇峰は言う。原文原文
七月十七日、質素節倹の励行令。原文
八月六日、高島四郎太夫を江川太郎左衛門の家来に引き渡す。原文原文
「方今之時勢大船必要之儀に付、自今諸大名大船製造致し候儀、御免被成候」。原文
島津斉彬はこの令とともに直ちに大船十五隻を造った。原文原文
蘇峰はこの解禁を、十六年前から引きずってきた宿題として描く。原文
徳川斉昭は天保九年(1838年)六月、西洋式に倣って長さ二十四間、幅三丈八尺七寸の軍艦を作り、日立丸と名づけようとした。原文
幕府は祖法に触れるとして許さず、雛形にとどまった。原文
天保十二年九月十九日、水野忠邦ら四老中(幕府の重臣)は連署で「別段取調にも難及」と返した。原文
取り調べにも及ばない、というのである。
将軍の耳にも入れずに打ち切ったものと思われる、と蘇峰は記す。原文
「幕府の不用心は、其の当局の何人に拘らず、実に幕府彼自身の責任」と。原文原文
彼は建白のみならず、天保九年戊戌六月侍臣に命じ、西洋の式に倣ひ、一軍艦長さ廿四間、幅三丈八尺七寸のものを作り、日立丸と名け、海防の用に供せんとした
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く品川の砲台も、十一座の計画が六座で止まった。原文
高輪泉岳寺境内の山、御殿山を切り崩して埋め立て、六座の費用は七十五万二百九十六両余。原文
経費の膨大に耐えかね、六番は水面を出るまで築いて中止された。原文原文
空谷の跫音
蘇峰はこの章の終わりに、仮定を一つ置いている。
もし徳川斉昭に高島のような見識があったならば。原文
もし阿部正弘が高島のように徹底して会通していたならば。原文
「癸丑甲寅の間に於ける、我が日本の措置は、今少しく手奇麗に、今少しく公明正大に、今少しく男性的にあつたであらう」と。原文原文
若し水戶齊昭をして彼が如き見識あらしめば、而して阿部正弘をして、彼が如く徹底的に、會通する所あらしめば、癸丑甲寅の間に於ける、我が日本の措置は、今少しく手奇麗に、今少しく公明正大に、今少しく男性的にあつたであらう
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く佐久間象山も横井小楠も、この年にはまだ攘夷(外国を追い払うこと)説を抱いていた。原文
「世間では高島秋帆を、火技の中興、洋兵の開祖と云ふも、彼は寧ろ開国論に於て、平和主義に於て」一生面を開いた人物だ、と。原文原文
幾百の意見書の中から、幕府が対外政策として得たものはなかった、と蘇峰は言う。原文
諮問はむしろ対内政策であった、と。原文
その中でただ一つ、十二年の幽囚から出てきた老人の書付だけが、貿易とは何かを語っていた。原文原文
品川の海に、水面を出たばかりの六番台場の石が沈んでいる。原文
鹿児島では十五隻の船が形を成しつつある。原文
空谷に響いた足音を、聞いた者はいたのだろうか。
それはやがて聞かれることになるのか、それとも谷の底に消えたままなのか。
蘇峰の筆は、その答えを次の巻に預けているようにも読める。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 6・7・9・10・11・12・13・14・15・16・17・18・19・20・21・22・23・24・25・26・27・28・29・30・31・32・33・34・35・36・37・38・39・40・41・42・43・45・47・48 |
| 日付・人名 | 本文の日付 13 件・人名 9 件を、『維新史料綱要』3,726 項目と突き合わせました。 |
| あらまし | 27 文を本文の段落と照合しました。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
