ロシア使節プチャーチンは7月17日に長崎へ入った。江戸からの返事を待つ日が続くなか、見張り役の大井三郎助が沖の船へ出た。伝えたのは、将軍徳川家慶が亡くなったという知らせだけだった。蘇峰は、これを返事を先へ延ばすための手だと見ている。
長崎奉行(幕府の役人)が江戸へ出した2通の報告が、そのころの様子を伝える。ロシアの小舟が動く範囲は少しずつ広がり、止めると浦賀へ回ると言い出した。上陸を求められても、奉行は禁じられているので江戸に問い合わせるまでは許せないと答えた。日が延びれば差し障りが出ると心配する姿を、蘇峰は苦労は分かるとしつつ役人のいつもの手だと評した。
ロシア側の記録では、家慶の死を告げられたのは9月19日である。プチャーチンは中佐ポシエットに、なぜ江戸から早く返事が来ないのかと問いつめさせた。長崎は都から遠く、外国人が飽きて去るように仕組まれた場所だ、という言い分である。喪が発せられたのは7月22日で、8月19日の会見のとき役人は知っていたはずだとも述べた。重ねて出された手紙には、3、4か月も待つのは無駄で、通じなければすぐ江戸で話す、とあった。
一方の江戸には、決まった方針がなかったと蘇峰は記す。8月3日、阿部正弘は役人たちに指示を出した。国書は受け取り、返事はオランダの商館長を通すので出帆させよ、という。ところが8月5日にこれを改め、返事を聞きたいと言うなら船をとどめ、手紙は急ぎ江戸へ送れとした。長崎の船よりも、浦賀を去ったばかりの米艦に心を奪われていた、というのである。
ロシアを恐れ、援助の申し出も隙をついた企てではないかと疑う声があった。他方で仙台藩士大槻平次は勘定(財政係)奉行(財政を扱う役)川路聖謨に意見書を出した。9月20日付で、強いロシアと結んで対抗せよと説いた。正面から追い払えという意見はほとんどなかった。10月8日、幕府は川路聖謨や筒井政憲、目付(監察役)の荒尾成允らを老中(幕府の重臣)の代わりとして送ることに決めた。
しかし露艦は23日に長崎を去り、入港から3か月が空しく過ぎた。その後プチャーチンは上海で、ロシアと英仏の平和が破れたと聞き、12月上旬に再び長崎へ向かった。今度は3日以内に高い位の役人が来なければ江戸へ行くと期限を切った。長崎奉行はその事情を知らずになだめるだけだった。この記事からは、返事を延ばして時間をかせぐ幕府と、戦争の日を数えて急ぐ使節の姿が分かる。
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検使の大井三郎助が沖へ出た。原文
向かう先は、港内に繋がれたロシア船。原文
告げるべきことは、一つだけだった。
将軍徳川家慶の死である。原文原文
ロシア使節プチャーチンが長崎に入ったのは七月十七日。原文
それから一か月近く。原文
江戸からの返事は、まだ来ない。原文
そこへ運ばれたのが、将軍の喪だった。原文原文
この使いを、蘇峰は「將軍薨去を口實とし返答遷延」の一手と見ている。原文
将軍の死を理由にして、返答を先へ延ばした、というのである。原文
返事の代わりに、死を運んだ短艇。原文
本章の三か月は、この一場面に凝縮されているとも読める。原文
又た養生の爲め、短艇にて、附近を乘り廻さんことを請うたから、制限的に之を許したら、漸次其の範圍が廣くなりて、之を制すれば浦賀に向ふ可しと聲言すとある
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「幕府の痼疾は、遷延に在り」
「幕府の痼疾は、遷延に在り」と蘇峰は書く。原文
幕府の持病は、物事を先送りにすることにある、という意味である。原文
「何事も急には埓が明かぬ」、つまり何事もすぐには片がつかない。原文
その病状を映しているのが長崎奉行の上申(上に申し出ること)書であり、蘇峰は九月三日付と九月二十二日付の二通を引いている。原文
本船ははじめ高鉾島の近くに繋いでいたが、風波を恐れて港内への移動を求めた。原文
場所が狭いというので、本船は神崎の外、二艘は内側とされた。原文
稲佐崎と岩瀬道の台場は、代官(幕府の直轄地を治める役人)高木作右衛門の持ち場から両家の番方へ引き渡された。原文
問題は「バッテイラ」、つまり短艇だった。原文
本船まわりの用のためにと許すと、次は「運動養生」のためだといって範囲が広がる。原文
制止すると「浦賀表え相廻り候」と言う。原文
浦賀へ回る、という脅しである。原文
奉行は、両番所の内側へは入らない、沖は番船の見える範囲まで、上陸と測量はしない、という線でようやく承服させた。原文
九月二十二日の上申書は、さらに切迫している。原文
「上陸差免候樣、左も無之ば、浦賀へ相參候趣、再々申立候」。原文
上陸を許してほしい、さもなくば浦賀へ行く、と繰り返し言い立てているというのだ。原文
奉行は「御國禁之儀故、伺之上ならでは難差免」と答えた。原文
国禁であるから、江戸に伺った上でなければ許せない、というのである。原文
そこで十六日、検使を送って将軍の死を告げた。原文
だが使節は「御老中方より之御返答相分候迄は、退帆難仕」と言う。原文
老中からの返答がわかるまでは出帆できない、というのである。原文
今度は船の修理のために上陸させろという。原文
奉行は「猥に上陸仕候得ば、打拂候は勿論、或は切捨、搦取候共」と伝えた。原文
勝手に上陸すれば打ち払うのは当然、切り捨ても捕縛もありうる、と。原文
そして末尾に「時日相延候得ば、種々故障も出來仕、深心配仕候」とある。原文
日が延びれば、いろいろ差し障りが出て、深く心配している、というのだ。原文
蘇峰は「幕吏の常套、今更ながら笑止千萬である」と評し、ただし「其苦心は之を諒とせねばならぬ」とも添える。原文
奉行の姿は「飯上の蠅を追ふが如き」であり、「此れでは到底外人と折衝して、國家の大計を定むる抔とは夢にも思ひ及ぶ可きではあるまい」。原文
現場は追い払うだけで手一杯だった、というのである。原文原文
九月三日附にて、大澤、水野兩奉行の上申書にも露船が從來高鉾島最寄に繫留しつゝあつたが、風波の虞れありて、港內に入らんことを請うたから、遂ひに之を許したとある。又た養生の爲め、短艇にて、附近を乘り廻さんことを請うたから、制限的に之を許したら、漸次其の範圍が廣くなりて、之を制すれば浦賀に向ふ可しと聲言すとある
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く「外人を欺かんが爲めに設けたる場所」
同じ場面を、ロシア側はどう見たか。原文
ロシアの記録では、家慶の死を告げられたのは九月十九日である。原文
プチャーチンは中佐ポシエットに詰問させた。原文
なぜ江戸から速やかに返事が来ないのか。原文原文
「長崎の地は、畢竟單に外人を欺かんが爲めに設けたる場所だ」。原文
日本の西の隅、首府とかけ離れ、中央との交渉は勢い緩慢になる。原文
外人が倦んで立ち去るのが貴国政府の本意だろう。原文原文
将軍の喪が発せられたのは七月二十二日。原文
江戸から長崎まで約三週間。原文
八月十九日の会見のとき、日本の官吏は当然知っていたはずだ。原文
今まで故意に秘していたのは何事か、と。原文原文
冒頭で蘇峰が「拙譯」と断って引く再催促の書翰(手紙)も、同じ調子である。原文
「此節の如く、三四ヶ月も長崎に滯留し、御答を俟やふにては、徒らに數月を費すのみ」。原文
今回のように三、四か月も長崎にいて返事を待つのでは、無駄に数か月を費やすだけだ、という。原文
「事の通ぜざる時は卽時に江戶に至りて議談すべし」。原文
話が通じなければ、すぐ江戸へ行って談判する。原文
蘇峰はこれを「幕府の遷延に對して、鞭策を加へたる」ものと読む。原文原文
若無餘儀事ありて、事の成らざる時は一旦乘り來る所の海舶を發し、退て後謁見の旅具を整へ、境界議談の然るべきを俟て至るべし。其時は事を嚴にして、命令のあるを會議せん爲、屢來りて訂正すべきを要す。此節の如く、三四ヶ月も長崎に滯留し、御答を俟やふにては、徒らに數月を費すのみ。······此儀然るべからずと思へども、事の通ぜざる時は卽時に江戶に至りて議談すべし
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く八月三日と八月五日
では、江戸はどうしていたのか。原文
「事實を云へば、當時の幕府は、確乎たる對露の政策を持たなかつた」と蘇峰は記す。原文
そこに書きつけられていたのは、「度々の異船、扨々心配仕候」という言葉である。原文
たびたびの異国船に、まことに心配している、というのだ。原文
続けて「御心付も御座候はゞ被仰下候樣奉願候」ともある。原文
八月三日、阿部正弘は三奉行・大小目付・海防掛(海防担当役)に書付(文書)を渡した。原文
国書は受け取る。原文
返答については「和蘭甲比丹を以可及通達候間、出帆致し候樣可申聞候」とした。原文
返事はオランダのカピタンを通じて伝えるから、出帆するよう言い聞かせよ、というのである。原文
ところが八月五日、これを訂正した。原文
国書を見もしないうちに出帆を促す形になり「事實不穩候間」、つまりそれでは穏やかでない、という。原文
江戸の返事を聞きたいと言えば滞船させ、書簡(手紙)は至急江戸へ送れ、と改めた。原文
蘇峰はその背景を一言で言う。原文
幕府は「長崎に來つた露船よりも、浦賀に來つた米艦の方に氣を取られ」ていた。原文
浦賀を去ったばかりの米艦が、いま長崎に浮かぶ露船より心を悩ませていた、というのである。原文原文
此度魯西亞より持來り候書翰の儀、文化度彼國使節船渡來の節申渡置候通、御國法に於て難請取筋には候得共、無餘儀申立之趣も有之に付前文の趣、能々申諭候上、書翰請受差越可申候
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く猜疑と親露
対露の目は、二つに割れていた。原文
一方には「日本の恐露病」がある。原文
寛政から文化文政にかけての北方の騒擾は、「泰平の天地に熟睡酣眠したる日本國上下の夢魘」だったと蘇峰は書く。原文
安眠する日本にとっての悪夢、という意味だ。原文
文化年間のレザノットへの拒絶以来手を出さなかったのは、ボナパルテ以来の疲弊のためだろう。原文
今になって加勢を申し出るのは怪しい。原文
「其虛に乘じ掠奪可仕謀計には無御座哉」。原文
その隙に乗じて掠奪する計略ではないか、というのだ。原文
日米が戦えば露は日本に味方し、その信用に乗じて足場を占め、やがて全国を併呑する企みだった、と米側は書いている。原文
他方に、露と結んで米を制せという声もあった。原文
仙台藩士大槻平次、すなわち磐渓である。原文
九月二十日付で勘定奉行川路聖謨に意見書を出した。原文
寛政五年から六十一年、文化元年のレザノットを経て三度の渡来。原文
「强大之魯西亞を與國と被成候上は」。原文
正面から追い払えという意見は、ほとんどなかった。原文原文
若し水師提督(艦隊司令官)彼理が不幸にして平和的の談判に失敗し、日本人と武力的交鬪に及ぶに際せば、露人は其地に在りて、仲裁を事とせず、日本側の味方として、日本を援助し、而して若し成功せば、其の信用の刹那に乘じ、靜かに日本帝國の或る部分に立脚地を占め、適當の時に其の全國を併呑するの素地を作るの企謀であつた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く十月八日、江戸
露使はしだいに「强硬の本色」を見せた。原文
老中か同格の者が来なければ、自ら江戸へ行く、と声言する。原文
要求は通商だけではない。原文
北方の境界設定である。原文
これは幕府も「到底囘避し難き事情」だったと蘇峰は見る。原文原文
そは露國使節の要求は、通商のみでなく、北方に於ける境堺設定でありて、此には幕府も到底囘避し難き事情あるが爲めであつた
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く十月八日、幕府は老中代理を決めた。原文
川路聖謨は勘定奉行勝手掛を命じられ、筒井政憲は大目付(上級監察役)格を授けられた。原文
目付荒尾成允、儒者(儒学の学者)古賀謹一郎が加わる。原文
両人には重臣としての資格と待遇を与えた。原文原文
三か月
長崎では、決定より先に船が動いていた。原文
十月四日、上海へ出ていた運送船が、書翰と新聞と糧食を積んで戻る。原文
欧州における露と英仏の関係が切迫していることを、これで知ったのだろう、と蘇峰は推す。原文
十月十五日、北へ航していたブリーネルが長崎に戻る。原文
十月十七日、江戸へ回航するとの信号が上がった。原文
十九日、露艦が旗を巻く。原文
長崎奉行は四人の大官を江戸から送ると告げたが、到着日は示せなかった。原文
二十三日、露艦は長崎を去った。原文
七月十七日の入港から数えて、「三個月を長崎にて空過したのだ」。原文
艦隊は呉淞沖に錨を下ろし、十一月十二日、上海に着いた。原文
そこでプチャーチンは、露暦十二月五日、英仏との平和が破れたと聞いた。原文
開戦は翌年三月である。原文
五十二砲のフレガットも二十砲のコルベットも英艦より優勢だが、吃水が深く上海へは入れない。原文
十二月上旬、艦隊は再び長崎へ向かった。原文
今度はプチャーチンが期日を切る。原文
三日以内に高官が来なければ江戸へ行く、と。原文
長崎奉行は「斯る內輪の事情を知らざれば」、ただ露使をなだめた、と蘇峰は記す。原文
幕府は時間を稼ぐことでしか向き合えなかった。原文
プチャーチンは時間に追われていた。原文
片方は将軍の死を口実にし、片方は欧州の戦火を数えていた。原文
「外人を欺かんが爲めに設けたる場所」というポシエットの言葉と、「痼疾は遷延に在り」という蘇峰の診断は、同じ港を指しているのかもしれない。原文
待たせていたのは、はたして誰だったのか。原文原文
露使は老中若しくはそれと同位地の者長崎に來らずんば、露使自から江戶に赴きて、その目的を達せんと聲言したれば、幕府も愈よ老中代理として、川路左衞門尉聖謨、筒井肥前守政憲、及び目付荒尾土佐守成允、儒者古賀謹一郞增等を差遣し、特に川路は公事方勘定奉行であつたが自今勘定奉行勝手掛を勤む可しと命ぜられ、筒井は西丸留守居(江戸での藩の連絡役)であつたが、大目付格を授け、兩人には重臣としての資格及び待遇を與ふることゝした
国立国会図書館デジタルコレクションで原本を開く| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 彼理来航及其当時』民友社、1929年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 3431222 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 15・16・17・18・19・21・22・23・24・25・27・29・30・31・32・33・34・36・37・38・39・40・41・42・47・48・49・51・54・58・61・62・63・65・66・67・68・69・70・71 |
| 日付・人名 | 本文の日付 21 件・人名 9 件を、『維新史料綱要』1,705 項目と突き合わせました。 |
| あらまし | 28 文を本文の段落と照合しました。 |
本記事は『近世日本国民史 彼理来航及其当時』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
