下田に戻った条約 ―― アダムスの批准交換

あらまし

アメリカの海軍中佐アダムスは、蒸気船ポーハタン号で下田に入った。携えていたのは、神奈川条約の批准書(国として正式に認めた文書)である。沖に黒い船影が見えたとの知らせが奉行(幕府の役人)所に届き、船はまもなく港へ入ってきた。下田奉行の2人は、外国船が1隻見えたとだけ江戸へ短く知らせた。

蘇峰によれば、アダムスは4月4日にサラトガ号で江戸湾を出た。そして7月12日にワシントンへ着いた。条約は大統領から元老院(アメリカの議会の一院)に回され、全員一致で認められた。彼は9月30日にニューヨークを発ち、1月1日に香港へ達した。提督(艦隊司令官)アボットの命で下田へ向かい、調印から再来までに9か月と22日かかったという。

不在の間の12月23日、日本の海岸を大地震が襲い、下田の被害は特に重かった。それでも人々は嘆かず働いていたと、米国側の記事が引かれている。港の海の底は土砂が流され、岩ばかりになっていた。商店は壊れたままだったが、寺を繕って市が開かれ、士官たちは品を買い求めた。士官は村を自由に歩き、見張る者も付いてこなかったという。

批准書の取りかえに際し、日本側は2つの異議を出した。一つは期限で、18か月のうちの早い時期でよいのかが争われた。言葉の意味の説明を受けて日本側は取り下げた。奉行の内々の書状には、相手が強く言い張ってくると記されている。江戸へ日本語の条約書を急ぎ送るよう求めてもいる。

もう一つは署名で、相手は将軍の名を求めた。日本側は役人の署名で済ませたいとしたが、将軍と老中(幕府の重臣)(幕府の重職)がともに署名することになった。2月21日に文書が正式に取りかわされ、船首に日本の旗が上がり、17発の祝いの砲が鳴った。翌2月22日、ポーハタン号は下田を去り、その日はワシントンの誕生日にあたった。その間アダムスは役人の訪問を受け、条約を結んだときの顔ぶれと再会した。

この記事からは、条約が正式に認められて日本へ戻るまでの道のりが分かる。下田で言葉一つ、署名一筆をめぐって続いた往復の様子や、地震のあとの町と人々のやりとりも読み取れる。

この記事の本文から作った要約です。人名と日付は本文と照合しています。以下の本文は元本の文に沿って書き、各文は出典へたどれます。

伊豆下田の沖、神子元島の向こうに黒い船影が一つ。原文原文

「異船一艘相見候旨」――外国船が一隻見えた、との注進が奉行所に届いたのが未の中刻ごろ。原文
それから間もない未の下刻ごろ、その船はまっすぐ港へ入ってきた。原文原文

下田奉行の伊澤美作守と都筑駿河守は、応接掛の与力(奉行の下で働く役人)を立ち会わせ、御普請役、御小人目付(監察役)、それに通詞(通訳)を差し向けた。原文
水先案内の者が告げるところでは、アメリカの蒸気船で、船号はポーハタン。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 263

應接與力御普先刻御屆申上候亞米利加蒸氣船壹艘當港入津つけならびにつうしさしつかはしあひたゞさせさふらふところ請役御小人目付並通詞差遣爲相糺候處

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「先不取敢此段御屆申上候」――とりあえずこの旨をご報告いたします、と両奉行は江戸へ書き送った。原文
まだ何一つ分かっていない段階の、短い届け書である。原文原文

目次

三か月と二十七日の旅

ポーハタン号に乗っていたのが、海軍中佐アダムスである。原文
蘇峰の記すところによれば、彼が神奈川条約の謄本を携えてサラトガ号で江戸湾を出たのは、一八五四年四月四日、すなわち安政元年のことだった。原文
五月一日にハワイのホノルルに着き、最初の便船でサンフランシスコへ向かい、パナマを経由して、七月十二日にワシントンへ到着している。原文
日本を出てから三か月と八日であった。原文
条約は大統領から元老院に諮られ、元老院は速やかに全会一致で批准した。原文
アダムスは批准書を携えて九月三十日にニューヨークを発ち、大西洋を渡り、イギリスを経て大陸路を取り、一八五五年一月一日に香港に達した。原文
提督アボットは彼をポーハタン号に乗せ、ただちに下田へ向かうよう命じた。原文
条約調印から批准を経て再び日本に来着するまで、九か月と二十二日を要した、と蘇峰は数字を並べている。原文
下田奉行の届け書のほうでは、この経緯はこう縮まっている。原文
アダムスは三か月前にワシントンを発ち、イギリス国の蒸気船に便乗して唐国に至り、そこで今の船に乗り換え、十日前に香港を出て今日入津した、と。原文
乗組は三百余人であった。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 259

提督アボツトは、ポーハタン號ゆ、もて、彼を乘せて直ちに下田に向ふ可く命じた。斯くて彼は條約批准交換の全權員として、一八五五年一月二十六日下田に到著した。

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地震のあとの下田

アダムスが下田で見たのは、様変わりした土地だった。原文原文

彼の不在中、一八五四年十二月二十三日に日本の全海岸を大地震が襲っている。原文
江戸にも損害があったが、下田の被害はとりわけひどかった。原文原文

それでも、と蘇峰は米国側の記事を引く。原文
日本人は座して不幸を嘆かず、失望の色もなく、皆が男らしく仕事に励んでいた。原文
ポーハタン号が入港したときには、損害の取り除けや再建築で、誰もが忙しく働いていたという。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 259

ポーハタン號が著港したる際には、損害の取り除けやら、ゞ下田港灣の外形は、何等の變再建築やらにて、何れも忙がしく從事してゐた。

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港の外形そのものは変わらなかった。原文
ただ、錨を下ろす海中の土砂がことごとく洗い流され、海底は岩石ばかりになっていた。原文
蒸気の力でようやく岩との衝突を避けえた、とある。原文原文

商店はどれも壊れて回復していない。原文
それでも寺院を繕って市場が開かれ、江戸をはじめ内地の町から美麗な什物が並べられた。原文
士官たちは市場に招かれただけでなく、買ってほしいと求められ、思い思いに好みの品を手に入れた。原文原文

監視のない散策

前回より、日本人はずっと親しくなっていた。原文原文

士官たちは何の差し障りもなく田舎を歩き、村を訪ね、行く先々で歓迎された。原文
探偵は廃止されたと見えて、監視する者も追跡する者もいなかった――と蘇峰は米国側の記述を伝えている。原文原文

下田の市民は、アメリカから貿易船が来ることを待ち望んでいるとアダムスに告げた。原文
条約締結の委員の一人でもある下田奉行は、もしアメリカが領事を選んで下田に住まわせてくれるなら、それは大いに嬉しいことだと、ひそかにアダムスに語ったという。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 259

而して下田奉行-條約を締粘したる委員の一人-はアダ3ニムスに向て若し米國にて領事を選定し、下田に來り住するを得しめなば、彼は頗る快心の事である旨を、私かに告げた。

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日本人は英語の書物を欲しがった。原文
とりわけ医書と、科学に関する書を。原文
士官たちは多くの貴重な書を与えた。原文原文

アダムスは承知した、と自ら語り、その際「聊か慚色ありと自から語つた」――いささか恥じ入る気持ちがあったと述べている。原文原文

期限異議と条約書交換

批准交換にあたって、日本側は二つの異議を出した。原文原文

蘇峰の引く米国側の記事では、これは約束を守るまいとして出たものではない。原文
文義上のこと、むしろ日本側が条約の字句を入念に解釈し、儀式に深い敬意を持っていたためだ、という。原文原文

第一の異議は期限。原文
日本側の条約文には「十八个月中」とあり、米国側のものには十八か月内とあった。原文
相違は日本の翻訳者の無学から来たものだ、と米国側は見た。原文
within の字義を説明したところ、日本側は機嫌よく異議を撤回した。原文原文

もっとも、その裏で日本側がどう動いたかは、下田奉行の内状に残る。原文
三月から十八か月を過ぎてから条約書を取り替えるつもりでいたところ、先方は十八か月の内で早いほうがよいと条約に書いてあると「手强く申居候」――強硬に主張してくる。原文
そこでロシア応接掛にも掛け合ったうえ、森山栄之助に支配組頭(組の長)と通詞を添えてアメリカ船へ遣わした。原文
ところがアメリカ側は、夏に日本から渡した和文の条約もオランダ文も持ってきておらず、英語のものだけを出す。原文
それでは証拠にならない。原文
六月中に林大学頭らから差し出しておいた条約書と附録の和文を、残らず送ってほしい――そう江戸へ急ぎ求めている。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 261

彼等の有する條約文面には、十八個月後とあつた。我等(米人)のには十八個月內とあつた。然も漢文、和蘭文の飜譯には、何れも英文同樣十八個月內とあり、而して英文が原文であるから、日本文もこれから飜譯したるものであつた

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書き終えの時刻まで記されている。原文
「十二月十六日戌下刻」、すなわち午後九時。原文原文

皇帝の親署

第二の異議は、署名だった。原文
米国政府に渡す条約書の日本文に、皇帝――将軍を意味する――の親署を求められたことに対し、日本側は言った。原文
皇帝は決してどんな文書にも署名しない、それをするのは老中である、と。原文
日本に渡すために携えてきた条約書には、大統領と国務卿が署名している。原文
結局、皇帝と老中とがともに署名することになり、その通り実行された。原文
日本側の記録では、この筋は逆側から見えている。原文
附録の末文には誰に委任するも意のままとあるのだから、「御役人調印に而も可然哉」――役人の調印でよいのではないか。原文
そして「應接之面々調印に而相濟候樣いたし度候」――応接の役人の調印で済ませたい、と念を押している。原文
先方は将軍の署名を望み、こちらは応接掛の署名で済ませたい。原文
蘇峰はそう対比してみせる。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 266

覺ろくばつぶん亞墨利加より、十八ヶ月過、約條書差越候節答は附錄末文〔參照六〕に誰に委任ある共意之儘可存と有之間、御役人調印に而も可然哉と存候

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二月二十二日、ワシントンの誕生日

そして交換の日が来る。原文原文

二月二十一日、条約書が正式に交換されるや、ポーハタン号の船首に日本の国旗が掲げられ、十七発の祝砲が放たれた。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 261

二月二十一日此の如くして條約書が、正式に交換せられたるや否や、ン號の船首には日本の國旗が揭揚せられ、十七發の祝砲は發たれた

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翌二月二十二日、ポーハタン号は下田を去った。原文
その日はワシントンの誕生日にあたる。原文
新しい、そして願わくは恒久であってほしい日本との友誼が、少なくともその期日においてワシントンの名と伴っている――米国側の記事はそう結ぶ。原文原文

蘇峰はこの梗概を並べたあと、こう評する。原文原文

旧知として来る

交換の合間、アダムスは陸に用のないとき、毎日のように副奉行や高官の訪問を受けた。原文原文

その会見は旧友の懇話のようだったという。原文
実際、そのうちの何人かは正しく旧知だった。原文
下田奉行伊澤美作守は条約締結の委員の一人であり、条約の翻訳を助けた通訳官森山栄之助も昇進して下田に来ていた。原文
他の締結委員たちも批准交換のために来ていたから、アダムスは他人の中にいる心地にならずに済んだ。原文原文

原文『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』第17章 NDL コマ 260

下田奉行伊澤美作守は、條約締結の委員の一人であつた。條約の飜譯に就て我等(米人)を幇助したる、我等の舊友、通譯官森山榮之助(原註、彼は英語に通じた)も、當然昇進して、下田に來てゐた。

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アダムスは、かつて大統領から贈られた蒸気機関の雛形を、日本人が自ら動かす術を学んでいるのを見た。原文
救命艇も操縦できた。原文
ただ電信機の作用だけは、まだ難しいと彼らは言った。原文原文

十二月九日に届いた最初の届け書は、船が見えた、というだけのものだった。原文
それから二か月余、期限の文字一つ、署名の一筆をめぐって書状が往復し、ワシントンの誕生日に一隻の船が去っていく。原文
歴史に永久に残るであろうと言われた名を託されて帰る使者と、和文の条約書を江戸から取り寄せようと戌の下刻に筆を走らせた奉行と。原文
同じ港の、同じ冬である。原文

この記事の出典と検証印の読み方・AI利用方針
元本徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』民友社、1935年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1223901
照合維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1940年 PID 1046665 コマ 286・287・288・289・290・294・295・296・297・298・299・300・301・302・303・304・305・306・307・308・309・312・314・315・317・318・319・320・321・323・324・325・326・327・329・330・332・333・334・336
日付・人名本文の日付 13 件・人名 3 件を、『維新史料綱要』481 項目と突き合わせました。
あらまし26 文を本文の段落と照合しました。

本記事は『近世日本国民史 第32 神奈川条約締結篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。

事件日米和親条約の締結1854安政
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