あらまし
政事総裁職の松平慶永が、生まれて初めて御所へ参上した。文久3年(1863年)2月16日の朝7時に門を出て、正午前に到着。徳富蘇峰は、この日の務めが1日と半夜に及んだと記す。小御所では慶永のほかにも天皇からさかずきを賜る大名が21人並び、みな退出した。
当時の京都では、身分を離れた武士たちの乱暴が手のつけられない有様だった。参政の正親町実徳ら12人は、2月14日付でこう申し上げる。市中を鎮めるのは京都守護職の務めで、不都合があれば松平容保の職を解くべきだ、と。責任を容保1人に負わせた形だが、彼らは守護職の手にも負えない。元の藩へ帰す案には国事掛らが異議を唱え、朝廷は表向き伝奏から伝える形をとり、話は現状のままに落ち着いた。
この日、諸大名は外国を追い払うという天皇の考えを告げられ、神宮や隠岐、対馬の守りについて意見を求められた。蘇峰は、この呼び集めが参政や寄人らの申し立てによるものと見る。2月14日付のその申し立ては、大きな藩小さな藩の別なく呼んで衆議を聞くよう求めるもの。国体を汚すことがあればそれは自分の徳の薄さゆえだと天皇が心を痛めている、速やかに追い払う功を立てよ、と伝えられた。
八条隆祐は手もとの記録に、蜂須賀斉裕が語ったという話を書き留めている。皇国が荒れ地になってもかまわぬという命令なら仕方がないが、後に守る手立てなく敗れ、領地を割く時は後悔なさるのでは、というのである。隆祐は、その4字が松平確堂の意見書や浪人の書きつけにもあると案じた。蘇峰は、無理だと内心認めながら口に出す勇気のある者はほとんどいなかったと見る。やがて毛利定広の建白には、天皇みずから出陣するという言葉まで現れた。
慶永は所司代の牧野忠恭の邸へ赴き、慶喜らと集まった。期限を迫られても急には実行できず、乱暴の処置も朝廷が暗にかばうため手を引くほかない。乱れの原因は命令の出どころが朝廷と幕府に分かれている点にあり、大権を返すか全て任されるか、どちらかに定めよ、と議は集まった。慶永は出かける前、今日は無事には帰るまいと重臣へ言い置いている。その日、近衛邸で即刻の会議を求めたものの開かれず、夜に一同が退出した。
2月21日付で議奏の三条実美が辞表を出したが却下され、23日に受けた。同じ23日、天皇の使いとして東へ下った大原重徳に、官を辞し、髪を下ろし、謹慎せよとの沙汰。命令の文面を自分の判断で書き改めた一件である。慶永は後年、関白も中川宮も本心から追い払うことを望んではいなかったと振り返っている。蘇峰はこの流れを、虎に乗って降りられない勢いと呼んだ。
この記事からは、諸大名が呼び集められた日から月末までの京都の動きが、正親町実徳らの申し立て、八条隆祐の手もとの記録、大原重徳の上書、そして蘇峰の評からたどれる。
二月十六日、朝六半時の出門
文久三年(1863年)二月十六日、朝六半時(午前七時)。原文
政事総裁職(幕府の政治を取りまとめる役)の松平慶永が門を出た。原文
初めての参内(御所へ参上すること)である。原文原文
施薬院で衣冠を整え、九時(正午)前に参内。原文
七半時(午後五時)に龍顔を拝し、天盃を頂戴した。原文
六時(午後六時)過ぎに退出し、准后御所へ参上、施薬院で晩餐を整え、前関白の近衛忠煕と関白の鷹司輔煕を訪ねた。原文
慶永の参内は「殆んど一日半夜の仕事であつた」と蘇峰は記す。原文原文
この日、小御所(御所の中の建物)で天盃を賜ったのは慶永だけではない。原文
筑前の黒田斉溥、米沢の上杉斉憲、前高知藩主の山内豊信、出雲藩主の松平定安ら、あわせて二十一人。原文
各々が鶴間に着座し、出御が終わって退出した。原文原文
手におえぬ浪士たち
その京都で、浪士(主家を失った武士)の暴行は「とても手も當られぬ有樣」だった。原文原文
参政(朝廷で政務にあたる役)の正親町実徳ら十二人は、二月十四日付で、市中の乱妨を制止するのは京都守護職(京都の治安を守る役)の職掌であり、不都合があれば松平容保の失職であると言上した。原文
責任を容保一人に帰したかたちである。原文
だが浪士たちは守護職の手にもおえない。原文原文
彼らを各々の本藩へ帰参させる議も出た。原文
これに国事掛・参政・寄人らが異議を唱える。原文
二月十五日付の申し立てはこう言う。原文
攘夷のことについて浪士を主人主人へ召し返すのは尤もだが、脱藩して身を投じた有志を藩へ戻せば、一身自在に周旋しようという者の気合を損なう。原文
その辺りに大変苦心している、というのである。原文
廟議が参政・寄人らに左右されていた、と蘇峰は見る。原文原文
関白は慶永に言った。原文
朝廷からは仰せ出しにくいから、徳川慶喜とその方で取り計らってはくれぬか、表向きは伝奏(取り次ぎ役)から達するようにする、と。原文
慶永は、妥当な道筋で処置すると答えた。原文
浪人問題は一先ず現状維持に落着した。原文原文
攘夷の宸念と警備の諮詢
この日、諸大名は攘夷(外国を追い払うこと)の宸念を告げられ、神宮および隠岐、対馬などの警備の方略を諮詢された。原文原文
この召集は、参政・寄人らの上言に基づくものと蘇峰は察している。原文
二月十四日付の上言は、来る十六日に諸藩を大身小身の別なく召し寄せて衆議を聞かれたい、草莽の有志の議論は学習院で国事御用掛(担当役人)が聞き届けて言上する、御用掛の人々は小番を免じて日々学習院へ参集させたい、と求めていた。原文
別の一通では、対馬のような孤立の要処は攘夷拒絶となれば国力で支えきれぬ、兵食は至要の事件、隣国にかかわらず応援すべき策略を聞かれたい、とある。原文原文
諸大名への演達はこう述べる。原文
夷狄が皇国を狙う容易でない形勢で、万一「有汚國體缺神器之事」があれば列祖の神霊に対し、これはひとえに主上の寡徳のゆえと深く痛心されている――国体を汚し神器を欠くようなことがあってはならぬ、それは自分の徳の薄さのせいだと帝は心を痛めている、という意である。原文
各々叡思を戴き、忠勇を奮起し、速やかに掃攘の功を建てよ、と。原文
隠岐、対馬のように皇国の地勢を離れた箇処は、隣国はもちろん互いに合力して防禦の手当を聞きたい、とも諮った。原文原文
この日の空気を、八条隆祐が手録に残している。原文
蜂須賀斉裕が中納言(朝廷の高い官位)の醍醐忠順の家で語ったという噺。原文
皇国が「曠原赤地に相成候ても不苦」――荒野赤土になってもかまわぬから攘夷せよという御沙汰なら致し方ない。原文
だが後に防禦の術なく敗北した時は、領地を割いて断らねばならぬことになり、御後悔なさるのではないか。
隆祐は、その「曠原赤地」の四字は津山の松平確堂の建白(意見書の提出)か、浪人が叡慮のように言いなした書取にもある、深宮にあってそこまで御気付きにならぬかもしれぬ、と按じている。原文原文
攘夷の不可を心中では認めながら、それを口外するだけの勇気ある者はほとんど一人もなかった、と蘇峰は察している。原文原文
天皇御親征の建白
毛利定広の建白は言う。原文
非常の宸断で「倒海之大寇」を掃攘し皇国の武威を輝かすには、「必竟御親征をも、不被爲遊ては不相叶御時勢」と恐察する。原文
つまるところ天皇の親征がなければ叶わぬ時勢だ、というのである。原文
天皇御親征の文字が、ついに顔を出してきた。原文
「實に容易ならぬ文字である」と蘇峰は書く。原文原文
建白は加茂・泉涌寺への行幸を請う。原文
これは大堰や嵐山への行幸の類ではない、未曾有の大恥辱を雪ぐためである、と。原文
加茂・泉涌寺への参詣は「親征御巡狩の御基本」にもなる。原文
草莽の攘夷者たちが鳳輦の余光を仰げばどれほど感奮するか、と定広は続けた。原文原文
蘇峰は、この建白は在京攘夷党の意見を代表したものと言っても過言ではあるまいとし、因循な公武合体論者が上は朝廷から下は幕府・諸藩に潜在するのを慮り、彼らに口を藉す所も手を措く所もなくさせるための方策だったろうと見る。原文
薩摩側は過激派の妄動を牽制すべく、慶喜や慶永らを刺戟して対抗策に従事していた。原文
生麦事件も抬頭してくる。原文
長薩の対立が「時と與に、事と與に、勢と與に、露骨になつて來た」と蘇峰は記す。原文原文
松平容保の名でも布令が出る。原文
輦轂の下で私に殺害等があるのは上下の情意が貫通せず言路が塞がれているからで、「聊無憚筋々へ早々可申出候」――少しも憚らず筋々へ早々に申し出よ、忌諱を憚るなら封書で直に差し出せ、というのである。原文
角度は違うが、どちらも意見開陳を自由にさせる方策だった、と蘇峰は読む。原文原文
政権返上か、政権委任か
朝廷が人心を煽揚する一方、幕府側は不安を懐いていた。原文原文
慶永が門を出て、所司代(京都に置かれた幕府の代表)の牧野忠恭の邸へ赴く。原文
慶喜をはじめ例の面々も集会した。原文
攘夷の期限を強く促されても急速には実行し得ない。原文
浪士の暴行を処理したくとも、朝廷が暗にその所為を庇護するので抛棄せざるを得ない。原文
紊乱の因は、政令の出る所が朝廷と幕府の二途に分岐している点にある。原文
ならば断然大権を朝廷へ返上するか、更に大権を幕府に委任されるか、いずれか一方に定めねば天下の治安は望めない――この日の議はそこに集まった。原文原文
蘇峰は、これは尤もな意見だが、この通りにすれば公武合体は事実上立ち行かなくなる、と指摘する。原文
政権を返上すれば合体の必要はなく、一切委任されれば亦た必要はない。原文原文
慶永は出邸前に重臣へ「今日は無事には歸るまじきぞ」と言い置いた。原文原文
未刻(午後二時)、慶喜、容保、豊信とともに近衛邸へ。原文
時宜によっては参内もするとして官服まで用意していた。原文
近衛邸では、関白(天皇を補佐する最高の官職)の鷹司輔煕が、関白の位はあっても空位に等しいと告白した。原文
前関白の近衛忠煕は涙を流し、蔭武者の取締りは幕府に頼むほかないと言った。原文原文
慶永は即刻の御前会議を提議した。原文
御前会議は開かれず、夜に入って一同退出した。原文
慶永、慶喜、容保、豊信の四侯は空しく退散した。原文原文
辞表と落飾
二月二十一日付で、議奏(天皇に意見を伝える役)の三条実美が武家伝奏(朝幕の連絡役)へ辞表を差し出した。原文
多病で気力損耗し、「精神恍惚多忘之事共有之」――物忘れが多く精神がはっきりしない、というのである。原文
ただし「偸安退遁之私心には決而無之候」、安逸を求めて逃げるつもりは決してない、政事御相談の役にでも仰せ付けられれば有難い、と。原文原文
辞表は却下された。原文
広幡忠礼を通じて示され、二十三日、実美は叡慮を煩わしたことを恐れ入って御請けを申し上げた。原文原文
同じ二月二十三日、勅使(天皇の使い)として東下した大原重徳に沙汰(通知・命令)が下る。原文
去年の下向の節に「不容易事件有之、其罪不輕」として、辞官(官職をやめること)・落飾(髪をおろして出家すること)・蟄居(家にこもる罰)。原文
近習・小番の列からも除かれた。原文
勅語改竄の一件である。原文原文
大原の上書はこう語る。原文
毛利定広が京都から持参した大赦の勅諚のうち、伏見一条を除いた。原文
伏見寺田屋事件の志士(国事に奔走した武士)は薩摩一手のことで、藩主の命で討ち果たされた者たちである。原文
定広は急いでおり、伺う間合いがない。原文
「一心決定仕見込の邊を以て、書改め候事に候」――自分一人で決めて書き改めたというのである。原文原文
蘇峰は、大原をこう追い込んだのは薩長両藩の反目を激成させぬためで、岩倉具視が東下の際に与えた注意を胸に置いていたからだと書き、しかしそれは裡面のことゆえ、大原は肝要の一点をわざと言い漏らしていると見る。原文
岩倉の注意は道中で読んだ、という。原文
帰京の上、中山忠能、正親町三条実愛、野宮定功にも告げて承知を得ていた。原文原文
騎虎の勢
去年の夏秋の交の出来事を今になって摘発するのは「毛を吹いて疵を求むる」類だと蘇峰は言う。原文
それでも急激派と穏和派が対立するこの京都では、免れ難い趨勢であった。原文原文
慶永は後年、こう回想している。原文
関白は直に攘夷を好む様子でもなく、ただ堂上(朝廷の上級の貴族)や諸藩士、浪人らに迫られて苦痛の体に見えた。原文
中川宮も名目は攘夷で、真に好むのではない、公武合体さえすれば攘夷でも外交でも宜い、と毎度言われた。原文原文
心ならずも周辺の雰囲気に圧され、漸々と極所へ推し遣られていく。原文
蘇峰はこれを「騎虎の勢」と呼んだ。原文
虎に乗った者は降りられない。原文
小御所に二十一人が並び、期限の演達を聞いたその席で、皇国が赤土になってもかまわぬという言葉に異を唱えた者は一人もいなかった。原文
唱えられなかった、とも読める。
関白は空位に等しく、前関白は涙を流し、蔭武者の取締りは幕府に頼むほかないという。原文
では、その虎の背から、誰が先に手を離すのだろうか。原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228673 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻4』PID 1046672 |
| 日付・人名 | 本文の日付 6 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 13 名のうち 13 名が『維新史料綱要 巻4』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第49 尊王攘夷篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
