あらまし
安政5年(1858年)10月、老中の間部詮勝が初めて御所に参内しました。日取りは将軍宣下のちょうど前日です。その朝の京都は雨と雷に見舞われ、天皇は少し風邪気味だという理由で間部に会いませんでした。
間部が京都に着いたのは9月17日で、参内まで1か月あまりを置いています。前将軍の喪が明けていないというのが表向きの理由でしたが、宣下の前日を選んだのは偶然ではない、と蘇峰は見ています。
将軍宣下については、9月5日に所司代が上申書を出しました。儀式はなるべく早く済ませたい、天明・嘉永の例にならい関東から願うのではなく御所から命じる形にしてほしい、年内に沙汰がほしい、という求め。位と官職を授ける順も、享保元年の有徳院の例どおりにと願っています。京都の正議派はこれを引き延ばし、朝廷の考えを関東に受け入れさせる取引材料にしようとしていた、と蘇峰は述べます。
鷹司は少し含みをもたせて承知するよう申し上げ、忠香、三条実万、二条斉敬も同じ考えでした。それでも結論は、含みを置かず先例どおりに命じるというもの。武家の側が近ごろ乱暴な取り計らいをしているように見え、普段と違うことを言えばまた乱暴に扱われかねない、という判断からです。関東の威圧は実際に振るわれる前から京都を震え上がらせた、と蘇峰は記します。
参内の当日、間部は天盃を頂いただけで天皇には会えず、小御所の下段で関白と2人の伝奏を前に長い言上を述べました。午後4時から7時までのおよそ3時間で、議奏も所司代も同席していません。中山忠能は朝の雷と落雷を恐ろしいと書き、天下はもう滅びる時だと嘆きました。
言上の要点は、今は戦う時ではなく、当分は仲よくして備えの整う日を待つというものでした。天皇の許しを待たずに調印したことは恐れ入るが、大事の前の小事だとも述べています。交易を続けるうちに相手が日本の事情を知り、やがて敬い従うようになるという見通しまで並び、蘇峰はこれを見当外れの夢物語、中身のない空砲と切り捨てました。
参内を1か月遅らせた事情から、聞き手の限られた3時間の言上までを、非蔵人日記、中山忠能の記、尚忠公記と蘇峰の評で追えます。
安政五年十月、将軍宣下の前日である。原文
京都は早朝から夕立に見舞われ、雷が鳴った。原文
巳の刻、午前十時の前になって、ようやく空が晴れた。原文原文
その日、老中(幕府の重臣)の間部詮勝が初めて御所に入った。原文
所司代(京都に置かれた幕府の代表)の酒井忠義、関東使の高家(儀式担当の家柄)由良信濃守が同伴した。原文原文
主上との対面は、なかった。原文
「臨期不被爲有御對面」と非蔵人日記にある。原文
いざその時になって、お目通りはなされなかった、という意味である。原文
間部は天盃だけを頂戴し、鶴間に戻った。原文原文
間部が京都に着いたのは九月十七日である。原文
参内まで一か月あまりを置いたのは、前将軍の喪が終わっていないというのが口実だった、と蘇峰は記す。原文
そして、将軍宣下の前日というこの日を選んだのは決して偶然ではない、と蘇峰は書く。原文原文
将軍宣下をめぐる朝廷の動向
将軍宣下をめぐっては、九月のあいだに朝廷の方針が一度ならず動いていた。原文原文
九月五日、所司代は上申書(上役に差し出す意見書)を出した。原文
将軍宣下の儀式は「可成丈御早く相濟候方、萬端御都合も宜候」とある。原文
なるべく早く済ませるほうが、何かにつけ都合がよい、という趣旨である。原文
別紙では、天明・嘉永の例にならい、関東から願うのではなく禁裏から仰せ出される形にしたい、しかも年内に宣下の沙汰(通知・命令)がほしい、と求めた。原文
さらに享保元年の有徳院の例に倣い、宣下に先立って正二位権大納言(朝廷の高い官位)の位記と宣旨を頂戴し、それから内大臣に任じられる段取りを願った。原文原文
京都の正議派は、宣下を引き延ばし、それを交換条件に関東に朝廷の趣旨を奉戴させようとしていた、と蘇峰は述べる。原文原文
今の時勢に、通り一遍の返答でよいだろうか。
鷹司は「少々御模様被付」――少し含みをもたせて承知するのがよかろう、と申し上げた。原文
忠香、三条実万、二条斉敬もこれに同意した。原文
この背後には小林良典などの意見があったと推測するに難くない、と蘇峰は書く。原文原文
しかし結局は、別段の趣意は申し遣わさず、先例のとおり無難に仰せ出すと決まった。原文
伝奏(朝廷と幕府の連絡役)・議奏(天皇の側近く仕える役)で引き籠っていた者たちも皆意見を申し上げ、多数の方に決した。原文原文
理由も記されている。原文
「武邊此節甚暴道なる取計方之樣子相見候儘」。原文
武家のほうが近ごろはなはだ乱暴な取り計らいをする様子に見えるので、禁裏から通常と少しでも違うことを言えば、また乱暴な扱いをしかねない。原文原文
関東の暴威は、まだ実施されないうちに京都の肝胆を寒からしめた、と蘇峰は記す。原文原文
関東の注文どおり
かくして関東の注文どおりになった。原文
徳川家茂は十月二十五日、内大臣征夷大将軍となり、随身兵仗、牛車の宣下もすべて旧例のとおりに行われた。原文原文
関東は将軍宣下についても勝利を得た、と蘇峰は書く。原文
間部の参内(御所へ参上すること)は、この勝利の前日に置かれていた。原文原文
関東からの表向きの言伝として、どんす五十巻、御なか二百把。原文
それぞれ目録書で献上された。原文原文
当日の記録には、主上は「少々御風氣にあらせられ候ゆへ、御對面あらせられぬよし」とある。原文
少し風邪気味でいらっしゃるので、お目通りはなかった、という意味である。原文
御風気というのは、おそらく謁見を賜らないための御辞柄であったろう、と蘇峰は見る。原文原文
中山忠能の記はもっと切迫している。原文
卯の下刻、午前七時ごろ、雷が四、五声。原文
不老図子に落雷があったと聞き、「可恐」と書く。原文
関白への言上の席には、議奏も所司代も同座しなかった。原文
申の刻から酉の半刻、午後四時から七時までのおよそ三時間である。原文原文
そして中山は書く。原文
天下はすでに滅亡の時だ、悲しむべく嘆くべし、と。原文原文
一度の参内をもって滅亡と断じるのは藪から棒に似ている、と蘇峰は記す。原文
しかし当時の朝廷が間部の入京をどれほど危険視していたかは、これで知ることができよう、とも書いている。原文原文
間部は翌二十五日付で関東に報告した。原文
主上は御風気で御対面なく、天盃頂戴ののち、小御所(御所の中の建物)下段で関白、広橋大納言、万里小路大納言の侍座のもと、前将軍の仰せ含めになった夷人の処置、再度の勅諚の御請け、諸藩の建白(意見書の提出)、仮条約、やむを得ない事情などを別紙のとおり申し述べた、と。原文原文
言上書付、神奈川から兵庫まで
その別紙、いわゆる言上書付(文書)は極めて長文である、と蘇峰は言う。原文
蘇峰は尚忠公記からこれを掲げている。原文原文
書付はまず、備中守堀田正睦が叡慮を伺うために上京した際のことから語り起こす。原文
その際、諸大名が意見を出した。原文原文
その内容は、海外諸国は蒸気船を発明して航海の術が開け、「天涯も比隣と相成」、軍制兵器も実戦で試され、昔とは強弱が異なる。原文
夷人を禽獣同様に呼んできたが、今や各国に非常の人材が出て強大国となり、ここで容易に兵端を開いては勝算はない――という見通しである。原文
一旦戦に勝っても、海外各国が仇讐の思いをなし、四面の海岸を襲い、通船運漕を妨げ、国力が疲弊したところを窺って軍艦を一時に差し向けられれば、どんな大事になるか計りがたい。原文
よって仮条約を容許し、まず神奈川、長崎、箱館、新潟で交易を許し、得失利害を試したうえで、五六年後に兵庫も開く。原文
その間に京師をはじめ諸国海岸の警衛を整え、およそ十三四年のうちに試す。原文
内の防禦が十分に整ったうえで、和戦いずれにも御心に任せられる、というのである。原文原文
当時の多数は決して開戦説ではなかった、と蘇峰は断じる。原文
三家・諸大名の答案は幕府の注文に応じて作られたものではあるが、注文がなくとも、その本心は戦争を厭い、戦争を恐れ、戦争回避を第一義としていた、と蘇峰は書く。原文原文
下田に来た亜船に「彼國之使者ハルリス」と通弁が乗り組み、神奈川に入津して書翰(手紙)を出した。原文原文
その書翰の中身を、当時の幕閣(幕府の上層部)は全く信じ切っていたのだろう、と蘇峰は見る。原文
しかしハリスの恫喝に「一杯喰はされた」ことは疑いない、と蘇峰は書く。原文
岩瀬忠震などは、この口実を開国の実を挙げる好機として利用したかもしれない、とも蘇峰は付け加えている。原文原文
「三韓掌握之往古」という空砲
書付の後半は、勅諚の四か条への答えである。原文原文
答えは、弘安の蒙古襲来のように一国相手なら何とでもなるが、今は洋外各国の形勢を洞察すれば容易な処置はできない、として和親を説く。原文
そして条約再議の年限のあいだに和親を結べば、「御國に多分之品無之、一同に其利を得候事不能事實」を夷人が弁知するだろう、と続く。原文
日本には多くの品がなく、皆が利を得ることはできないという事実を、彼らが知るようになる、というのである。原文
そうなれば彼らは「皇統至尊之德」に懐き、尊信の志を生じ、交易の名を献貢と改めて品を持ってくる国も出てくる。原文
服従の国々に謀って不敬の国を制御すれば、幾許の年を経ずして「海外之諸蠻、此方之掌中に納候事、三韓掌握之往古に復すべく」。原文
海外諸国をこちらの掌中に収め、三韓を掌握した昔に戻せる、と。原文原文
これは全くの見当外れの夢物語だ、と蘇峰は切り捨てる。原文
貿易によって生産が興隆する事実を無視している、浮誇、軽佻、何の内容もない空砲だ、と蘇峰は記す。原文
天保以前なら珍しくもないが、安政五年十月の幕府当局者の上申書としては言語道断であり、堀田正睦ならこうした荒唐無稽の言を弄することは屑としなかったろう、と蘇峰は書く。原文原文
書付は最後に、十三四年後の条約改正までに人力を尽くし、なお和戦が決しがたければ伊勢神宮の神慮を伺って決定したい、と結ぶ。原文
「右之趣宜被達叡聞候」。原文
以上の趣を叡聞に達せられたい、という締めくくりである。原文
蘇峰はこれを、勅諚に対する将軍からの奉答を、間部が代表して九条関白に陳述した文書と位置づける。原文原文
長文ではあるが要領は単簡だ、と蘇峰は言う。原文
今は開戦の時期ではない、当分和親して準備の整う日を待つ、勅許を待たずの調印は恐懼の至りだが大事の前の小事である――それだけだ、と。原文原文
小御所下段の三時間。原文
雷の朝に始まり、風気を理由に天顔を拝さぬまま、関白と両伝奏に向かって読み上げられた長文。原文
その中身を、蘇峰は「損にならぬ空言もて、勅許の実益を得んと欲する」ものと呼ぶ。原文
一か月遅らせた参内と、聞き手の限られた言上と、三韓の夢。原文
中山忠能の「可悲可歎」の四字は、あの日の雷鳴に向けられたのか、それともその日読み上げられた書付に向けられたのか。原文原文
| 元本 | 徳富猪一郎 著『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』民友社、1940年 国立国会図書館デジタルコレクション(PDM) PID 1228553 |
| 照合 | 維新史料編纂事務局『維新史料綱要 巻1』1937年 PID 1046665 |
| 日付・人名 | 本文の日付 1 件は、すべてその年の暦に実在し、併記の西暦と一致しています。本文に出る人物 11 名のうち 9 名が『維新史料綱要 巻1』にも現れます。 |
本記事は『近世日本国民史 第41 安政大獄 中篇』の記述に基づく読み物です。日付と人名は『維新史料綱要』と照合しています。蘇峰の見方は1920〜30年代のものです。現在の研究とは異なる場合があります。
